第2話 琥珀の味

「アッシュ。晩御飯の時間だよ。降りてきなさい。」


 その鷹揚とした声は、父親―――デヴィッド・コーネルのもの。

 落ち着かせるような音質とは裏腹に、僕は焦りを募らせる。


 記憶の中での常識が、現状の非現実性を際立たせ、問題点すらも不明瞭にする。

 そうして散らかったままの思考回路は、時間を浪費するばかりで、いつの間にやら外に星々が輝いていた。


 階段を降る一歩一歩が、一世一代の決断の如く重く踏みしめられる。


―――大丈夫。家族とご飯を食べるだけ。


 自分の心に直接呟いた筈のその言葉は、空を切って霧散した。




「アッシュの快復を祝して」


 父親の発する乾杯の音頭によって、食事が始まる。

 どこまで詳細に聞いているのかわからないが、一切事情を知らないということは無いだろう。


 彼は父親らしく優しい眼差しを向けて、会話を続ける。


「アッシュ。体調は大丈夫そうか?無理する必要はないからな。」


「はい。もう元気...だよ。」


「そうか。じゃあ沢山食べるんだぞ。」


 母親も兄も同様に気遣う言葉を掛けてくれるし、それは確かに喜びや安堵の感情を孕んでいる。


「カールもお前が目を覚まさないでいた間、ずっとそわそわしてなぁ。命に別状はないとは先生に言われていたんだが。」


「そういう父さんが一番落ち着いていなかったじゃないか。」


 僕はまるで家族の一員としてこの空間にいる。


「ローストリブ、アッシュ好きだろう?どうだ。」


「うん、美味しいよ。」


「胃に優しいものにしようかとも思ったんだが、先生に体調はもう大丈夫だと聞いてなぁ。せっかくならとアッシュの好物にしたんだ。」


 一見すれば暖かなこの情景、その裏面に絶えず湿っぽさを含んでいた。

 

 ぎこちない言葉、些細な癖、普段の習慣。

 人格が変わっているなどと突飛な結論を出すことはなくとも、共に暮らしてきた家族がその違和に気付かぬことはない。

 兄―――カール・コーネルは商人の嫡男として表情には出さないでいたが、口数は僅かに減っている。

 そして―――


「ごめんなさい。気分が優れないから、部屋で休んでもいいかしら。」


「...ああ。」


 母親のその一言で空気の陰鬱性が外に漏れ出し、祝賀会はお開きとなった。




———————————————




 街の灯は消え、頼りの月明かりも叢雲に隠れた頃。

 デヴィッドはテーブルの上座に一人腰掛け、珍しくも安く酔いやすい酒をグラスに注いでいた。


「おう、アッシュか。どうしたんだこんな遅くに。病み上がりなんだから早く寝た方がいい。」


 一度差し合った目線を僕は非自然にも無理矢理ずらす。


「父さん、僕、家を出るよ。」


「お前は...お前自身がそうしたいと思ってるのか。」


「ほら、商会はきっと兄さんが継ぐだろう?そうしたら、僕はいつまでもこの家にいるわけにはいかないしさ。」


「お前がどうしたいか聞いているんだ。」


 泰然たる父親の顔から眼を逸らしたまま、口角を上げトーンを少し高くする。


「それにほら!僕、算術では学年1位とったりしてたんだよ?市街に出て仕事探してますって言えばきっと引く手数多だよ!どんな仕事に就こうかなぁ。」


「アッシュ。...無理して笑わなくていい。」


 そして僕は、瞳から溢れる雫を留めることは出来なかった。


「...父さん。僕、もう決めたんだ。お願いだから、止めないで、止めないでください。」


 デヴィッドは一拍置いたのち一口呷った。

 大衆酒には不釣合いな透き通った氷がカランと音を立てる。


「いつ行くんだ。」


「明日には出るよ。」

 

「いつ帰ってくる。」


「...わからない。」


 デヴィッドは徐に立ち上がり、部屋を出る。

 そして、彼は琥珀色の瓶を片手に戻ってきた。


「アッシュ、飲むぞ。」


「え...いや、僕まだ16だし、」


「こんな時まで野暮なこと言うな。それにお前くらいの奴はみんな隠れて飲んどる。家で数杯飲むのなんざ何の問題もねぇ。」


 商人としても父親としても初めて見せるような辛気臭い表情に、僕は断る術を持ち合わせていない。

 それに、酒の味を知らずとも何とはなしに飲みたいと、そう思ってしまうような複雑な感情を抱いていた。


「アッシュ。お前に俺たちの息子であることを求めるのは、アッシュらしさを求めるのは、お前を苦しめることになるのかもしれない。」


 この人は、どこまで僕の心を感じ取ってこの言葉を掛けてくれているのだろう。


「それでもお前のことは大切に思ってるんだ。幸せになれ、それだけは外すな。そう願うことを許してくれ。」


 この人は、どこまで真っ直ぐ僕を見つめてくれるのだろう。


「いつでも帰ってきていいからな。」


 僕は、はい、とその二文字を言葉にすることができずに、グラスに注がれる淡い琥珀の色彩を眺ているだけだった。


「ほれ、酒が苦手なもんでもイケるやつだ。」


 2回分の人生通して初めての、父親が飲みやすいと言った筈のその酒は、只々苦くて、その苦みがどうしようもなく嫌に心地よかった。




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群青は勇者の色 —――冒険者は召喚勇者に憧れる――― ふぁーすとべる @fastbell001

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