第1話 記憶

 その日、目覚めたのは尋常でない程の頭痛の所為だった。

 瞳に光を順応させ、コントラストとピントを整える。


 ———知らない天井...。


 どこかしらの創作物で聞いた言葉がふと浮かぶ。


 現代日本では珍しい、レンガと木材を主としたアンティーク調の造り。

 否、アンティークそのものと形容すべきか、そういうファッションにしてはあまりに忠実であった。


 濃密でどこか清涼感のある香の香りが体を巡り、頭の痛みはなんとか鳴りを潜めていく。

 そうして、頭が少しづつ回り始めると同時に言葉にできようもない気持ちの悪さを覚えたのだった。




 木の軋む音と足音が近づいてくる。

 本来ならば、己が何処かもわからない部屋で寝ていたことにもっと憂慮と焦燥を抱かなければいけない所であるが、事実、僕は思考を半分放棄していた。


 ノックは3回。

 深く、弱く、緊張感を帯びた音が響き、応答を待つこともなくドアノブが傾く。


 扉を開いたのは、艶やかなミントグリーンの髪を持ち西洋系統の顔立ちをした淑女であった。

 そして、確かに見覚えのある女性だった。


 彼女は、僕を見るとその瞬間、歓喜の色を涙に落とし僕を抱擁する。


「アッシュ!アッシュ、目覚めたのね!!」


 彼女の体温は確実に僕の心を暖めているようだが、それを上回る困惑が脳を占めていく。

 自らの状況を掴めない不安に、現状を脱しようという欲求が先行して、口から疑問が零れてしまう。


「誰...でしたっけ?」


 見覚えのある―――そして相当親しい間柄だと推測できる―――女性に掛ける言葉ではなかったと後悔した時には、もう既に言い切ってしまっていた。


「噓でしょ...。お母さんだよ?ねぇ、お願い、嘘だと...言って?」


 本調子と懸け離れた思考では繕うべく言葉も見当たらないまま、頭に溜まるどんよりとした熱に身を任せ、僕は再び眠りに就いてしまうのであった。




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 部屋に差す夕日に、僕は再び目を覚ます。


 窓に反射する顔は、先程の女性によく似たミントグリーンの髪の優しそうな少年だった。

 外に映る街並みは、西洋ファンタジーのそれに類似していた。


 明らかに現代社会では異質な世界観と、それでも地球に酷似した文化背景。

 それこそ、地球の者が空想したかのような形容し難い質感。


 視界から入るそれらの情報全てが、先の記憶は現実だと物語っている。

 さもなければ今もまだ夢の中に居るか。


 叫び驚くこともできない、唖然。


 深呼吸をして無理やり心を落ち着かせようとする。




 そうしてふと、僕が僕以外の記憶を有していることに気付く。


 あの女性―――ケイト・コーネルを母親として生を受けた、この体の持ち主、アッシュ・コーネルの記憶が。

 僕の19年たる人生のその向こう、そこに確かにアッシュとして生きた16年の記憶がある。


 前世と呼ぶには地球で生きた記憶は鮮明で、今世と呼ぶにはこの世界で生きた記憶は遠くにある。

 転移でも転生でもない、言うなれば憑依と捉えられるような感覚であった。


 自らの体が自らのものではない。その事実を深く認識して、治まりつつあった気持ちの悪さがぶり返す。

 意識することなく、この国の言語を用いていることに気付く。

 なんとはなしに感じ続けていた違和感が、骨格、筋肉、神経の差異として襲い掛かる。

 まるで、自分の体に乗り物酔いしたような、そんな感覚に陥っていく。




 アッシュの人生は、この世界における幸せな家庭そのものであったようだ。


 父親は中規模の商会を営み、庶民にしてはそれなりに裕福な暮らしをしていた。

 3つ上の兄と、2つ下の妹を持ち、兄弟仲も親子仲も良好であった。


 アッシュは、剣術が程々に得意で、魔法は人並みに使えて、父親に学んだ読み書き計算は貴族令息に並び得るほどであった。

 学園では、友人とともに充実した生活を送り、上位1割に入るほどの成績を収めて卒業した。


 しっかり者の兄はよく面倒をかけてくれて、将来は兄が商会を継ぎ、アッシュはその補佐をしようと考えていた。

 甘えん坊の妹は学園で寮生活をしている中、手紙を送り合っていて、嫁に行ったら寂しいなと早計にも思っていた。


 その人生が、こんなにも大切な人生が僕の足元にある。




 何かを考えて、打ち消して、そうしていると、初老の男性が扉を開けて入ってきた。


「アッシュ君、おはよう。体は大丈夫そうだね。」


「...はい。」


 この町の医者、ラングフォード先生は厳かな微笑みを浮かべて問う。


「お母さんから聞いたけど、記憶は大丈夫?どれくらい憶えてる?」


「...えっと。」


「いくつか君のことについて質問してみるね。」


 僕の今後の人生の決定打に成り兼ねない、そんな問答が始まろうとしていた。




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「軽度の記憶障害のようなもの...。とするしかなさそうだ。」


 苦渋の決断と言わんばかりに眉を顰め、ラングフォード先生は言う。


 結局、僕はなんとか取り繕いながら―――幾つかのボロを出しながら、アッシュとして振る舞った。

 なぜそうしたか端的に表すのは難しい。

 アッシュの人生への責やら、地球の記憶を取り扱う危うさやらを考慮してのことだ、そう自分に言い訳をしていた。


 この世界の医療は、大部分を魔法に依存している。


 治癒魔法は、人体の損傷を治すことに長けており、病気や精神の異常を治すことも可能ではある。

 一方、症状の原因を探るのは至難で、診断は基本経験則に基づいて行われる。

 既知の魔法では治癒が不可能と判明した途端、八方塞がりとなる。


 これ以上下手に追求される可能性は低いと見積もっていいだろう。


「とりあえず、体は元気みたいだし生活に支障はなさそうだ。何かあったら直ぐに言うんだよ。多感な時期だ。自分で悩む時間も大切だけど、苦しいときは大人に頼っていいからね。」


 そう言って、先生は部屋を出て行った。

 僕は、複雑な感情を含んだ溜息を、一つそっと吐いた。




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 旧時代、神の知恵を得ようと鑑定魔法の研究が行われたが、知識とは"言葉"即ち"人の築いた文化"であり、それを覧ることは不可能であった。

 現代では、微力な特定の魔法を放ちその反応を見ることで性質を調べる、鑑定学の研究が行われている。理論上この技術は、物質学のみならず生物学や医学にも応用可能とされているが、今現在、いずれにおいても実用基準には達していない。


——— サリー・ベルトルト著『第3版 魔術師のための応用物質学』より


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