第2話 メイリンシャン

 深夜過ぎ、小さなバックを肩からぶら下げてトウコはいつもの店のドアを開ける。バーはこの時間そこまで混み合っていない。カウンターに座って注文をすると、やってきたグラスをちびちび舐めた。舌の上で味を楽しんでからごくりと飲み干す。ふと視線の先にケイがいた。今は可愛らしい女の子と仲良く飲んでいるようでトウコが静かに手を振るとケイも同じように手を振った。ケイとは少し前にこのバーで出会った。格好良い男の子でリッチだ。お酒もおごってくれるし何より体の相性が良い。それだけでも良い収穫だ。


 トウコはバッグから携帯電話を取り出すと指先でスライドして唇を尖らせた。馬鹿馬鹿しいメッセージがちょこちょこ届いている。小さく溜息をついて携帯電話の電源をオフにすると頬杖をついた。その時トウコの隣に誰か座った。ゆっくりと視線をそちらに向ける。

『彼女と同じものを。』

 前髪を上げてオールバック、銀縁の眼鏡に精悍な面立ち、着ているスーツは品が良い。左手の時計はトウコが早口言葉みたいだと思ったブランドのやつ。とってもリッチ。年齢は三十から四十くらい?なかなかいいじゃん。


『こんばんは。』

 トウコは頬杖をついたままで隣に座った男に挨拶をした。男は少し驚いたように目を見開いたがトウコの笑顔につられたのか笑顔になった。

『こんばんは。悪いね、勝手に隣に座ってしまって。』

 注文したグラスが届いて彼は口をつける。

『いいよ。あたしはトウコ。あなたは?』

 トウコが体を彼のほうへ向けると彼はサクラと名乗った。

『名前?苗字?サクラって呼んでいい?』

『苗字だよ。じゃあ俺もトウコと呼ぶよ。』

 サクラは銀縁眼鏡を外してカウンターに置く。切れ長の綺麗な目がトウコを見つめて細くなる。

『サクラは今日は一人なの?』

『フフ、独りだね。デートに誘ったんだけどフラれてしまったんだ。』

『ええ?もったいないことするんだなあ、彼女さん。』

『ハハ。そんなことはない。彼女はこういう店には来たことがないからね。』

『へえ、けどサクラと会ったことあったっけ?』

 トウコはぐるっと店内を見渡してからサクラに視線を戻す。

『いいや。俺はいつももう少し遅い・・・閉店間際だから。』

 サクラの言葉にバーテンダーも頷く。

『ふうん、そっか。じゃあ今日あたしはラッキーなのね?』

 長い髪を両手でかきあげてから片側に寄せてサクラの顔をじっと見た。

『で、あたしに声をかけてくれたのは偶然?必然?』

 参ったなとサクラは笑うと片手で頬杖をついてトウコの顔を覗きこんだ。

『トウコは綺麗だからね。バーに入って来た時、少し話せないかな?なんて思ったのは事実だよ。だから必然。』


『そっか、じゃあ嬉しいな。』

 モスグリーンのネイルの指先で唇に触れるとサクラの唇にそっと触れた。トウコの口紅が間接的に彼の唇を彩り、サクラはフフと笑う。

『トウコ、君は面白い子だね?』

『そうでしょ?面白くて可愛いの。ね?好きになる。』

 サクラはフッと笑うとバーテンダーに視線を向けて顎をしゃくった。バーテンダーはくるりと背を向けるとサクラはトウコに顔を寄せた。

『可愛い子は好きだ。』

 チュッと音を立てて唇を重ねる。離してもう一度キスをすると座りなおした。

『で、トウコはいつもこんな風に遊んでいるのか?』

『どうだろう。けどベロベロになってさ、その辺で寝ちゃったりしてね?楽しい時に優しくしてくれる人もいたりするけど、でもシラフもいいんだよね。』

『そうか。危ない駆け引きをしているんだな?』

『アハハ、よく言われる。でもさあ、あたしは人を見る目があるから大丈夫なの。』

 トウコがグラスを空にするとグラスを揺すって見せた。

『無くなっちゃった。サクラ、おごってくれる?』

 サクラは同じようにグラスを飲み干すと頷いて注文した。

『彼女に同じもの、俺にも。』

 バーテンダーが頷き酒を用意する。二人の手元に注がれるとトウコはグラスを持った。

『カンパーイ。』

『乾杯。』

 コツンとグラスの触れ合う音がして琥珀色の水が揺れる。丁度店内のBGMがジャズピアノに変わってトウコはフフと笑った。


『どうした?』

 トウコにつられるのかサクラは笑顔のままで酒を飲む。

『気持ち良いよね。ピアノ。』

『ああ。ここは選曲がいい。そういえば店が賑わってくる頃に奥のピアノで演奏があるだろう?』

 サクラの視線を追って店の奥を見る。奥にはグランドピアノが置いてあり、今はただひっそりと照明を浴びている。

『そうなの?タイミングかなあ・・・まだ聞いたことない。』

『それは残念だな、とびきりの良い男がピアノを弾いてるよ。』

『それは聞かなきゃ。』

 そうは言ったものの、いつも声をかけられてフラフラ出て行ってしまうからピアノまでは持ちそうにない。

『けど難しいな。今日はサクラに会っちゃったし。』

『おやおや。トウコは人肌恋しいのか?』

『うん。』

『でも誰とでもは関心しないな?』

 サクラの眉がぴくりと上がったのでトウコは肩をすくめてみせる。

『ごめんなさい。』

 一ミリもそんなこと思ってない言葉にサクラは笑う。

『アハハ、悪い。俺が悪かったね。』

 グラスをぐっと飲み干してサクラが視線を落とす。

『気にしてないよ。いつもだもん、でもね・・・皆心配してくれてるってわかってるから嬉しい。ありがとう。』


 さらりと落ちてきた前髪が頬にかかってトウコがそれに指先を伸ばす。同じようにサクラの指も伸びてきてトウコの頬に触れた。暖かい少し筋張った手が頬に触れてトウコは目を閉じる。やっぱり気持ち良い。サクラの指に頬をすり寄せて彼の手を優しく握る。

『サクラの手、気持ち良いね。』

『そんなこと初めて言われた。』

 酔いが回ってきたのかサクラの瞳が揺れた。

『そうなの?気がつかないなんてね。きっとサクラは気持ち良いの。』

 彼の喉仏が上下してトウコは唾を飲みこんだ。

『だめだなあ・・・欲しくなっちゃった。』

 トウコはカウンターに肘をついて甘えるようにサクラの顔を見上げた。上気している頬に物欲しそうな瞳はたまらない。ふと彼越しに見たケイが連れの女の子に触れていた。目があってにこりと笑うとケイも同じように笑った。指先に触れているだけでサクラの体温が伝わってくる。ドクドクと流れている水と汗ばんだ肌に少し香るオーデコロン。

『負けそうだ。』

 サクラはそう言ってグラスを傾ける。トウコも同じように酒を舐めて微笑む。

『あたしの勝ちだよ、いつだってね。』

『そうか。でもトウコは繋がりが欲しいのか?』

『そうかも。どうして?』

『彼女もそんなこと言ってたなって・・・。』

 大きな手がグラスを包み込んでサクラの表情が暗くなった。

『そんな顔したらあたしの負けじゃない。仕方ないな。』

 フフとトウコは笑って足を組むとサクラと同じようにグラスを両手で包む。

『くだらないことだよ。』

『いいよ?サクラには大事なことなんじゃない。』

『かもな。』


 サクラはぽつりぽつりと恋人について話し出した。もう付き合って五年になる。美しい人で結婚を考えているが、彼女とはまだ深い関係にはなれていない。いわゆる彼女は敬虔な信徒で今は神こそが恋人なのだろうと。

『あらあ、でも素敵じゃん、そういうの。』

『うん、そうだけど・・・なあ、トウコ。』

『うん?』

『思いを伝えるべきだろうか?』

 サクラの目が真剣でトウコはごくっと唾を飲み込む。少し息が荒くなって唇を舐めるとグラスで口を潤す。

『うん。絶対ね。』

 なんて目をするんだろう。こんな目で見られたらどんな女の子でもイチコロなのに。

『絶対か・・・。』

 グラスに視線を落としてサクラは小さく息を吐く。

『ねえ、何がそんなにひっかかってるの?』

『うん?ああ・・・俺は今までこんな風に遊んできたんだ。トウコみたいな美人に声をかけてさ。でも仕事先で彼女に出会った。』

『へえ、オフィスラブ。いいじゃん。』

 トウコがピュウと口笛を吹くとサクラは苦笑する。

『俺は今までと同じみたいに恋を始めようとした。けどうまく行かなくて必死で食事に誘ってね。それでもランチ止まり。ディナーに誘えたのは彼女のバースデーだった。』

『それで?』

『で、今までどおりにホテルを予約して・・・わかるだろ?どうなったか。』

『なるほど。怒るか泣くか・・・それとも?』

『泣かれた。そんなつもりはないって。』

 サクラは眉を下げると頬杖をつく。

『それからちゃんと謝って、どうやって付き合っていくか二人で話しあって・・・彼女が敬虔な信徒だって知ったんだ。でもさあ。』

『うん?』

 サクラが少し黙ったのでトウコは彼の顔を覗きこむ。


『なんか・・・あったの?』

『いいや。何もない。俺はそれにイラついた。いわゆる神様に嫉妬したんだよ。目に見えない尊い存在に、俺は、彼女を取られた感じがしたんだ。』

『へえ。』

 トウコは笑うと頬杖しているサクラの手に触れた。

『可愛いじゃん。だったら奪っちゃいなよ。神様から。』

『言うなあ。トウコは。』

『だってさ、彼女は神様と結婚できるけど・・・精神で繋がるんだよ。生身で触れ合って繋がるのなら神様とじゃできない。まあ・・・色々不思議なことはあるらしいけどね。けどそれってリアルじゃ…ないじゃない?』

 ぽかんとしていた口を閉じてサクラは笑う。

『面白いな。なるほどね。言い方は悪いけど肉欲って感じだね。』

『そうそう。ねえ、サクラ。こんな時間だけど彼女に電話してみたら?もう寝ちゃってるかな?』

『今から?寝てないとは思うけど・・・なんて言うの?』

『デートに誘って。プロポーズをする。どう?』

『また無茶な。』

 サクラはグラスの酒を飲む。コトッとグラスが音を立ててコースターに当たると彼は少し視線を上げた。

『でもデートに誘う・・・か、いいかも知れない。返事はすぐじゃなくてもいいか。』

『うん。』

 スーツの中に手を入れて携帯電話を取り出すとサクラを席を立つ。

『少し外す。トウコ悪いね?』

『いいよ。大丈夫、ガンバー。』


 カウンターに独りになってトウコはバーテンダーに酒を注文した。ふうと息を吐き両手で髪を後ろへ流すとふわりと両手で包まれていい香りがした。後ろから抱きしめられて耳元で優しい声がする。

『トウコ。振られたのか?』

 ケイはトウコの耳にキスをするとカウンターにもたれかかった。

『ケイは?』

『もう味わったからいい。』

 ケイの指先がトウコの髪に触れてフフと笑うと後ろで足音が止まった。振り返るとサクラが少し困った顔をして笑っている。

『悪い、取り込み中だったかな?』

 少しばつが悪い顔をしてサクラは席に着くとケイは首を横に振った。

『大丈夫、じゃあ後で。』

 ケイはそう言うと店の奥へと行ってしまった。

『いいのか?恋人なんじゃないのか?』

 サクラの戸惑う顔にトウコは笑う。

『フフ、違う。でも仲良しだよ。で、電話どうだった?』

『うん、なんとか。デートの返事は貰ってはないけど、今日のデートを断ったことを後悔してたみたいだ。』

 少し満足気な顔をしてサクラは笑う。

『いいじゃん。あとは彼女のためにプレゼントを買って、告白ね。』

『そうだな。』

 そう言ったサクラの胸元で携帯電話が鳴り、手に取るとにこりと笑って立ち上がった。

『うん?もう帰るの?』

『ああ。明日は忙しくなりそうだ。』

『ほう、頑張ってね。サクラ。』

『うん。』

 支払いを済ませてサクラが店を後にする。その背中を見送ってトウコはフフと笑うとまたグラスを傾けた。

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イランイラン 蒼開襟 @aoisyatuD

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