イランイラン
蒼開襟
第1話
トウコは毎夜日付が変わる頃にフラフラとバーに現れてはカウンターの椅子に座り、ブランデーを頼む。財布の中は空っぽで、このバーにはボトルが入れてあるから来ているだけでなくなれば当分来なくなる。ボーイがそろそろなくなると言っていたからあと少しの命だろうか。
毎日の労働にうんざりしてカウンターに頬杖を着いて向こうに座っている男を見る。品の良い男で少し高そうなスーツを着ている。リッチだろうか?顔はよく見えない。コンタクトを忘れてしまった。トウコは面食いではないが顔のいい男は好きだ。
髪が柔らかくて腕を回したときに気持ちのいい男が好きだ。
ブランデーの入ったグラスをちびちび飲みながらじっと男を見つめる。
随分と体を重ねていない、誰かと何かしたい気分でもないのに肌を重ねて暖かさを感じたいと思うのは変な感じだ。
カウンターに置いたままのスマートフォンが光り出し、指先でそれを止めた。仕事の連絡、友達からのくだらないライン、トウコは息を吐くと髪を両手でかきあげた。
伸ばしっぱなしの髪は腰まで伸びて、いつの間にか緩いウェーブを作っている。夏だからと薄いワンピースは冷房の効いたバーでは少し寒い。
髪の隙間から出た腕を摩ると、誰かの声が頭の上でして肩からジャケットがかけられた。視線を上げるとさっきまで見ていた男がそこにいた。柔らかい髪の色に生真面目そうな眼鏡が光っている。その奥の瞳は少し黄緑で肌は白かった。
『さっきから俺のこと見てたね?』
男はトウコの隣に座ると体をトウコのほうへ向けて頬杖を着く。
『うん、見てたよ。いいなあって。』
トウコはジャケットを少し引き上げるとブランデーのグラスに口をつける。じっと男の顔を見つめるとにこりと笑ってみせた。
『ごめん、よく見えてないんだ。君の顔もう少し近づくとよく見えるかも。』
『そうなんだ。これくらい?』
彼はぐっと顔を近づけるとトウコの目を覗きこむ。それにトウコはフフと笑った。
『うん、よく見える。へえ・・・綺麗な目。』
『よく言われる。君も綺麗だね、淡い・・・青と金。』
『そう、隔世遺伝だって。でもあたしはこれが誰かなんて知らないんだけどね。』
トウコは指を伸ばすと男の前髪に触れた。薄紫の爪で柔らかい髪を跳ねる。
『そっか。俺もよくわかんないよ。けどいいこともある。』
『いいこと?』
彼はトウコの頬にかかった髪を指で触れると微笑んだ。
『君に会えた。』
男はケイと名乗った。お互い名前だけを名乗って一夜の出会いを楽しんでいる。 ケイはトウコのグラスが空なのに気付いて笑う。
『飲まないの?』
『フフ、お財布がすっからかんでね。飲ませてくれる?』
『いいよ。ブランデー?ワイン?何でもいいよ。』
トウコはブランデーを頼むと新しくグラスがやって来た。なみなみ注がれた琥珀色の水をトウコは舐めるように飲む。
『それでトウコは今夜はどうするの?酔っ払って帰るの?』
『それも楽しいよ。』
グラスに視線を落としてトウコは笑う。誰かと過ごす時間もいいけど一人で酔っ払って歩けなくなって必死に家にたどり着くのも楽しい。時々靴が無くなっているけど。
『アハハ、それはそうかも。』
ケイはトウコと同じブランデーを頼んで口に運ぶ。ごくりと喉仏が動くのを見るとトウコは息を飲んだ。
『うん?』
『いいなあ・・・あたし、そういうの好き。』
少し困った顔をしてケイが首をかしげる。
『トウコは面白いな。』
『そう?』
『うん、そんな下心ありありの目で見る女の子なんて滅多にいない。みんな戦略立てて挑んでくるじゃない?』
『かもね。でもそんなのあたしじゃないし。』
片手で髪をかきあげてケイの顔を眺める。好みの顔が優しい顔をしてるせいか今日は気持ちよく酔えていた。
『あたしはあたし。ケイはケイでしょ?』
『うん。』
カウンターに片手をついてぐっと顔を近づけると鼻先をちょんとつけた。
『したくなったらそういうことでしょ?』
前髪が触れてケイの髪から良い匂いがした。
『あ、この香水知ってる、なんだっけ?』
『イランイラン。』
『ああ、そうだ、好きなんだ。それ。』
トウコは椅子に座りなおすとグラスを傾けた。
『ねえ、ケイ。』
『うん?』
トウコが前かがみになるとケイも顔を近づけた。
『知ってる?血って甘いの。』
『ち?』
『そう、このブランデーみたいに甘いのよ。子供のときにお裁縫の授業か何かで指先を針で刺してみたことなかった?真っ赤にぷっくりあふれ出て甘そうだった。』
『そんなこと思ったの?』
『うん、そのときから時々飲んじゃう。でも最近は駄目ね。』
『だめ?』
ケイの眼鏡を外すとトウコはそれをかけて見せた。
『うん、最近は美味しくない。ケイ、この眼鏡ダテなのね?』
『うん、そう。あんまり声かけられたくない時があるんだ。』
『ふうん、あたしは良かった?』
トウコはグラスを飲み干すと空になったそれを置いた。
『トウコはいいよ。気に入ったから。』
『そっか。ねえ、一緒に出る?』
トウコは体を起こすとケイに笑いかけた。
『いいよ。』
バーを出たのは深夜の遅い時刻で、トウコはジャケットを羽織ったままケイの隣を歩く。ハイヒールの足がフラフラしてふわふわして気持ちよかった。そっとケイの手がジャケット越しに腰に触れる。
『酔っ払いめ。』
『いいでしょ?可愛いじゃない。お馬鹿さんで。』
『いえてる。』
外灯のない道を二人で歩く。時々店から出てくる人の影を見ながらケイの体がトウコをかばうように動くのが嬉しかった。
『今日は楽しい。』
『それは良かった。ついでにトウコが歩けなくなったらおぶってあげるよ。』
ケイが笑うのでトウコは首をかしげて彼の顔を覗きこむ。
『それはいいね。』
『何処に行く?』
『何処へいこうか。ホテルなんてつまんない、いっそ月にでも行く?』
『フフ、本当に面白いな。月もいいな。ウサギでもいるのかな?』
『いるんじゃない?餅つきしてるわよ、きっと。そしたらケイと二人でおすそ分けしてもらってパーティでもしようよ。』
足元がふらついてケイに倒れこむ。腕を支えられてまた歩き出す。
『ケイは良い匂いがする。欲しいな。』
トウコの胸にじわじわと欲望が上がってくる。イランイランの香りとケイの体臭が混じってそれが鼻を掠めるたびに喉が鳴る。
『トウコも良い匂いがする。俺も欲しいな。』
人気のない公園のベンチに座ってトウコはケイの首に腕を回した。月夜の晩なのにしんとして、誰もが息を潜めているような気がした。唇を重ねて吐息を確かめる。たまらなくなって勢い良く上唇に噛み付くとケイの手が背中を撫でた。
『噛み付くのはだめだよ。欲しいならもっと上手に。』
『ごめん、興奮してる。首なら噛んでもいい?』
トウコはケイの目をじっと見つめる。ケイは笑うと頷いた。
『いいよ、血が欲しいんだろ?』
『あれ?言ったっけ?』
ベンチに組み敷かれてトウコはケイを見上げた。
『似たもの同士だから。』
『そっか、どうりで気持ちいいと思った。ケイも欲しいの?』
ケイはトウコの首筋を撫でると微笑む。
『そうだな、けど今はいい。酔っ払いだろ?俺のだけにしておきなよ。』
『アハハ、そうする。』
ケイの首元に噛み付いて血をすする。甘い味にイランイランの香りが混じる。
『いつもさ、探してるけど駄目なんだ。まずい奴ばっか。』
首に吸い付いているトウコの頭を撫でてケイが続けた。
『この間、この辺で女の子が死んでただろ?あの子もまずかった。最悪だよ。俺はさ、酒の味ならいいけど色々混じってる味なんて好きじゃない。』
『ああ、オーバードーズでしょ?』
トウコが笑うとケイは苦笑した。
『そう、最悪。まあ俺たちみたいに食事にしないのならいいんだろうけどね。』
『いえてる。男の子も同じだよ。変な味。』
『俺は?』
トウコが顔を上げるとケイの首筋は血で濡れていた。
『甘い、とっても官能的。』
『それはよかった。トウコ、イランイランの効能知ってる?』
ケイが耳元で囁くとトウコは頷いた。
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