そのさきで

 パクリと手元のチョコレートを口に入れる。ほのかにお酒の香りが鼻腔をかすめた。


「積希先生!おはようございます」

「おはよう、小野さん」


 ニコニコと、どこか無邪気に笑いながら挨拶をする彼女に、つられて笑みがこぼれた。


「あ、私もそのチョコいただいても良いですか?」

「小野さん、ほんとうにこれが好きね。遠慮なくどうぞ」

「ありがとうございます!」


 頬にチョコレートをしまう癖のある彼女は、どこか小動物のようだった。ニコニコと笑っていたが、ふと不思議な顔をしてこちらを見る。


「私ももちろん好きですけど、先生もよほどじゃないですか?これ以外見たことないです」

「うーん、別に特別好きなわけじゃないんだけれどね。高校の時に気に入って、それから何となく選んじゃうのね」

「………」


 妙な間が空いた。


「……高校?」

「………見逃して?」


 チョコは法律に触れない、はずだ。


「まあ、別に告げ口したいわけじゃないですから。それに、先生がヘソを曲げて小説の話をしないのも困りますしね」


 もちろん、私はそんなことをしない。それをわかっていて、小野さんもそんなことを言うのだ。


「改めまして、積希糸織つむぎしおり先生。今回は、新作のお話があると聞きました」

「ええ、今回もお願いできますか」

「もちろんです!私は、積希先生の、ウェブ時代からのファンですから」


『ウェブ時代からの』それは、血に染めた手で、未来を掴むために足掻いていた時期だ。


 今でも思うと、少し痛い。


 そんな胸中を知らない小野さんは、話を続ける。


「先生の魅力はなんと言っても、実在するかのようなキャラクターたちです。前作も売れ行きは上々。安心して大丈夫だと思います」


(大丈夫だろうか)

 ふと、思った。不安はいつもついてまわる。それは、何処にいてもしょうがないことだ。



「私が今回書きたいのは——」

「はい」


 不安を察してだろうか、小野さんは頷いてくれる。ふと、大人である彼女に幼いあの子が重なった。


 そう、私は決めたのだ。誓ったのだ。


「さっき、小野さんが言っていた、小説を……本に、したいの」

「…………」


 小野さんは何も言わない。見ると、ポカンとした顔をしている。

(やっぱり、だめだろうか)


「あの、無理な——「やりましょう!」

「……え?」


 今度は、私がポカンとする番だった。それなのに、小野さんは頬を上気させて語り続ける。


「先生の『祈りの糸』の加筆修正ですよね!私が一番好きなのは、あの物語です!一途で純粋な結糸や、夫の不器用な風太!幼い頃の夢の先で、大切な人を我が身を犠牲にして守る感動ストーリー!」


 小野さんは、まだ話し続けている。けれど、私には、もう何も聞こえていなかった。また後で聞き直さなくてはいけないだろう。


(あぁ、もう一度会えるんだ……)


 愛しい子。


 沢山のキャラクター愛し子たちと出会ったけれど、あの子はいつだって特別だった。



 また会えたら、なんて言えば良いのだろう。

 それとも、もう会えないかもしれない。


(それに会えても——)


 私が知る、あの子とは限らない。


 落胆するかもしれない。


 それでも、会いたかった。




 だって、もし会えたら言いたいのだ。

 あなたを幸せにはできないかもしれない。辛い思いも沢山すると思う。

 それでも——あなたに生きてほしい。


 生きていれば、笑えるかもしれないのだから。

 少なくとも、あなたは私を救ってくれた。ここまで連れてきてくれた。


 あなたがくれた幸せを教えたい。




「先生、大丈夫ですか?」


 いつの間にか泣いていたらしい。ゆっくりと、涙を拭って前を向く。


「大丈夫、懐かしかっただけから」



 ふと、春の日差しの中を声が通り抜けた気がした。

 それは、あの手を染めた日に彼女が言ったことと同じ。


『このさきで、会えるならあなたと会いたい』



 私は声の主を探さなかった。だって、その声はもう過去のものだから。

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手を染める こたこゆ @KoTaKoYu

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