愛し子(下)

(なんで……こんなことになっているんだろう)


 理由がわかっているのに疑問に思う。なんて馬鹿なことは、ほんとにあるらしいと紡希つむぎは今知った。理由なんて分かりきっていた。走った後のように息が苦しく、手が石のように動かない理由が。


 彼女は、自分の手が赤い血に染まっているような気がした。それが幻なのは分かっている。あの子は、血の一滴も残さないまま逝ってしまった。


 息が、止められたように苦しくなって咳き込むと、じわりと目尻に涙が浮いた。ぼやけて見える誰もいない部屋は、夕日で赤く染まっている。それは、紡希にはひどく恐ろしかった。まるで、罪を責め立てるようなその赤が、自分の体にまで乗り移るように思えるほど。


(ごめんなさい、ごめんなさい。ごめ……ん。ごめんね……)


 カタカタカタカタ カタカタ カタン


 紡希は、キーボードを打つ手を止めなかった。ひとつキーを押すと、手で愛し子の体を刺しているように感じても。必死に振り払って、唇を噛みながら打ち込み続けた。少しだけ、血の味がした。


 カタカタカタカタ カタカタ カタン


 止まってはいけない、と紡希は分かっていた。止まったら、全部を台無しにしてしまう。幸せだった頃を取り戻したくなる。いつまでも、ここで愛し子と話していたくなってしまう。句点を打つのが、改行のキーを押すのが、ひどく重たかった。


 カタカタカタ カタカタ カタ カタン


 なんで誰も責めないのだろう、と紡希は思った。自分の手は血に染まっているのに。自分が密かに抱いている夢は、もっと自分の手を赤く染めるだろうに。思わず爪を噛んでいたらしいことに、紡希は気がついた。だいぶ前に、苦労してやめた癖だったのに。


 カタカタ カタ カタリ


 最後の文字を、紡希は押した。もう、何がなんでも後戻りはできないように、保存をかけて電源を落とす。そうして、ようやく自分を見た。


 ひどい見た目だった。髪はボサボサと乱れて、噛みすぎた唇にはやはり血が滲んでいる。目は空っぽのうつろで、口端が下がっている。


 死んで欲しくなどなかったのだ。

 生きていて欲しかった。

 けれど、それは許されなかった。

 否——許さなかったのだ。紡希自身が。

 愛しい子を殺してでも進むと決めたから。



(最後に聞いた言葉……なんだっけ)



 消えたいという馬鹿げた願いを振り払ってくれたあの子はもういない。そう思うと、ふと笑いたくなってしまった。


(もういいか)


 目を閉じると、まるで赤い部屋に落ちていくように感じた。紡希には、それが救いなのか罰なのかもわからなかった。





 きっと、と紡希には分かっていた。

 自分が罪を告白しても、誰も何も責めないだろうことを。

 それが、紡希には酷く悲しいのだ。



 いつのまにか、紡希は記憶の中にいた。昔ではない。ほんの、わずか数時間前の記憶だ。




『もう、その日なんだね』

 と、結糸は言った。その時の部屋には、絹のように綺麗な光は射していなかった。まるで息を潜めるように、雲に影ってやけに暗かった。

 紡希は何も言えなかった。何か言ったら、きっと何もできなくなるからだ。

『もう、いいの?』

 答えないことを肯定と取ったのだろう。結糸は、心配する様に訊ねた。


 紡希にも分かっていた。彼女は、幼い自分の夢であり砦だった。小さい頃はただの友達で、大きくなって紡希に生み出されてからは紡希の命綱だった。けれど、その温かく優しい繭を紡希は切ったのだ。


 それは、最初プロットの時から決まっていたことで。


『ママはわたしのことを愛してくれた。ちゃんと知ってる。だから、ママが思っていたように』


 ちゃんと殺してね。


(そんなこと、言って欲しくなんてなかったよ……)

 思わずつぶやいた言葉は、空気を震わせないままに消える。


『——————』



 ふと、もう二度と会えない愛しい子の声を、紡希は聞いた気がした。

 いや、気のせいだったのかもしれない。


 目を開けると日は完全に沈んでいて、窓の外は紺色の夜空だった。電気をつけ、パソコンを起動する。


『わたしが死んでも、彼はしあわせだといいなあ。忘れ形見は遺せなかったけどね』


 あの子自身の願いは、それだけだった。だから、紡希は最後の物語を書いた。名前の通りに、唯一の希望を紡いだのだ。



 あの日紡希が手を染めたのは、罪にか。夢にか。


 それ以降、彼女が担任に進路で注意を受けることはなかった。

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