愛し子(上)

「お勉強、うまくいってないの?」


 ふわりとカーテンを浮かした風と共に、愛しい少女の声がした。カタカタと指を動かしながら、振り向かずに紡希つむぎは答える。


「あなたと会う時に、私がうまくいってた試しは数えるほどかな」

「それもそうかも。久しぶり?かな、ママ」


 どこか甘えるように、少女は言う。


「お話聞こうか?」

「私のは後でいいかな。それよりも、できればその『ママ呼び』はやめてほしい。複雑だから」

「えー、ママが自心を痛めて生んでくれたのに?」

「自分では自分を褒めてないからね」


 紡希は、言いながら苦笑する。わかっていても、会えば嬉しく幸せなのは、どうしようもない。少女も、そんな紡希の本心をとっくに知っているので、誤解もせずに笑って答える。


「はあい、つむぎ。これで良い?」

「完璧です、結糸ゆい

「ふふっ、褒められた」


 心底嬉しそうに笑った結糸は、小皿に乗ったクッキーの袋を開ける。用心深げに匂いを嗅いでからパクリと齧る。笑った顔を見るに、結糸の好きないちごジャムあたりだったのだろう。

 その仕草も、口調もどこか幼い。

 背も並び、家に帰れば夫もいる女性には見えない。それはどこか、歪な紡希との歳の差を埋めているように見えた。ツキリ、と紡希の胸に痛みが走る。

 そう、これは歪なのだ。


「そういえば、彼がね——」


 結糸は、楽しそうに身の回りのことを話した。

 恋人のこと。

 夢のこと。

 何気ない朝の食事や、草を食むヤギのこと。

 紡希との何気ない思い出話。

 流れるように、結糸が語り紡希はうなずく。時には褒め、時には笑いながら。それは、春の日差しにふさわしい明るさに満ちていた。ここには全ての幸せがあって、ここにさえいられればいいと紡希は思っている。


 時折結糸は思い出したようにクッキーを開ける。最後の一袋も、同じように匂いを嗅ぐとパクリと食べる。が、一口だけで顔を顰めた。


「ハズレ?」

「ハズレもハズレだよ。アーモンドだった」


 結糸はナッツ類が苦手だ。顔を顰めたまま、クッキーを飲み込む。



 ふと、結糸が表情を変えた。


「ねえ、うまくいってないのはこれ?」


 どうやら、紡希が後回しにした話題に移動してしまったらしい。結糸は机から落ちていた紙を拾い上げた。そこには、こうプリントされていた。

“進路希望調査書”

 痛みに耐えるように顔を顰め、紡希は、少しだけ現実に戻ってしまった。冷たい風に撫でられたように頭が冴える。最初に思い出したのは、先週の面談だった。



『ちゃんと受験生の自覚はあるの?そろそろ受験勉強に手をつけなければ、落ちますよ』


 それが受験に、なのか、人生から、なのか。はたまたもっと別のものなのかは、紡希には分からなかった。とりあえずで頷くだけだ。


『これ、前回の模試ね。元々の成績を維持できてるってことは、勉強はしてるわね?』

 これにもやはり、紡希は『はい』と答える。

『なら、とりあえずは続けなさい。あと、進路調査も書き直してくること。今の時期に未定なのは、もう少し考えたほうがいいわ』


 『分かりました、今週中には提出できるようにします』


 クラス担任は、書類をまとめ始めたが、答えた紡希の口調に気になったのだろう。顔を軽く覗き込みながら座り直した。


『紡希さん?あなた、大丈夫?』

『?』

『何か悩みがあるのなら聞くわよ?下らない相談も、山ほど聞くのが教師だもの』

 流石に恋愛相談は無理かも知れないけど、と担任は困ったように笑う。紡希もつられてうっすらと笑った。良い先生なのだ、本当に。だからこそ、心配に応える気もない事を申し訳なく思った。



『ピーターパン症候群ってのがあるらしいよ』


 そう唐突に言ったのは、部活の元先輩だった。


『なんですか、それ』

『知らない?空を飛んで影を探すピーターパン』

『いや、流石に知ってます』


 有名なおはなしじゃないか。わからないのは、病気の方だ。


『大人になれない男のことを言うんだってさ。まあ、性別は置いといて。文野ふみのさん、大人になりたくないって、今、言ったろう?』


 だから、思い出したんだよと元先輩は言った。そうか、と紡希は納得した。それは、案外ストンと胸に落ちた。




「私はまだ、大人になりたくないみたいなんだよね」


 紡希がそう言うと、結糸は不思議そうに『ふうん』と言った。結糸にも、実感のないことはわからないのか。あるいは、そんなこと、とっくに知っていたのか。


「つむぎは——ママは、わたしたちと一緒に暮らす気はないの?」

「…………うん、そうだね」

「そっかあ」


 ぽつり、と沈黙が落ちた。


 やがて、現れた時と同じに、結糸はあっさりと花びらのように帰ってしまった。紡希の元に、大きく重い塊を残して。


(死んで欲しくないと言ったその口で、あなたはこんなにも、私を悩ませる)


 どんなに思ったことだろう。

 どんなに願ったことだろう。


 愛しい子と同じ世界を共に生きられたらと。 だって——



(あの子のいないは、こんなにも寂しくて苦しい……)


 いつの間にやら、窓の外の日は下り坂を転がっていた。


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