手を染める

こたこゆ

はじまり

『ねえ、ママ』


 そう呼ばれることを、心の底で楽しみにしていた。幼い時から私の中にいて、苦労して生み出した愛しい子。


 真っ白なカーテンが春風に揺れて。

 柔らかい太陽の光がフローリングを照らして。

 部屋には、タイピングの音だけが鳴っていて。


 カタカタ…… カタ… カタン


 ずっと前から好きなクッキーとチョコを用意してあの子を待つのが好きだった。

 かじるまで味がわからないクッキー。値段の割に普通の味だけれど、ワクワクするから大好きで。母に頼むのは、いつもこのクッキーとチョコでお決まりになっている。



 あの子は、いつも楽しそうに。そして少し幼くこのクッキーを齧るのだ。


 あの子は私の全てではなかったけれど、私の一部だった。

 あの子の喜びは私の喜び。

 悲しみも、怒りも、まるで自分のことのよう。

 幸せすぎて、涙が出てしまいそうなほど。



 いつでも会えるわけじゃなかったけれど、会える時はたくさんの話をした。

 好きな人の話。

 最近の冒険の話。

 住んでいる家や家族の話。




 いっそ死んでしまったら、と思ったこともあった。ホコリみたいに軽いそれは、払い落とすのも大変だった。


 でも、彼女が止めてくれたから。


 初めて彼女を見た日。

 最後の中学校で、将来の話にも友だちの話にも疲れてしまった日。


 生まれてきたばかりのような光と共に、彼女は私の前にいた。私の中にいた彼女は、いつのまにか彼女としていられるほどにまで成長していたのだ。

 それは、驚きに包まれた小さな寂しさと大きな喜びを連れてきてくれた。



 生まれなければ、死ぬことはない。

 幸せもない代わりに、不幸もなければ悲しみもない。生み出すことは、実は酷いことなのかもしれない。それでも、私は彼女といきたかった。



 私はあなたの幸せだけを願えないけれど。

 きっと、辛い目にも合わせてしまうけれど。

 生み出してくれなければと恨むかも知れないけれど。


 願わくば、あなたが幸せだと思えていますように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る