下 一秒後に胸を揺らすことのすべて


 木像の中で、分霊は目を覚ました。

 すると、すぐ目の前に一人の少女が立っていたので、人間の体だったら大きく後ろに仰け反ってしまうほど驚いた。


「おはよう。ツゥリッパ」


 少女がにっこり微笑んで、そう言ってくるので、分霊は目を泳がしてしまうほど動揺する。神と分霊の関係は多岐にわたるのだが、この木像の分霊は、神木と離れていても、電話のように神木と「やりとり」が出来る。分霊はすぐに、神木に少女のことと「ツゥリッパ」のことを尋ねた。

 神木は、少女はこの家の一人娘であるパピリオだと教えてくれた。それは納得できたのだが、その後に届いた「ツゥリッパはあなたの名前」という意味が分からない。「他の分霊にも名前があるのか」と念を押してみると、「あなただけ」と言われたので、余計に混乱した。


「ツゥリッパは、紫のチュルバンがよく似合うね。でも、ヤスミおじさんのみたいに、もっと綺麗に巻いた方がいいかな?」


 そんな分霊の様子を知ってか知らずか、パピリオは木像の頭に巻いた布を触ってくる。戸惑いが極致に達した分霊は、するりと木像から抜け出した。

 目に見えない状態の分霊だが、姿は木像と全く同じだ。つまりは、紫のチュルバンもそのままつけた状態で、分霊は歩き出す。


「あ、待ってよ、ツゥリッパ」


 パピリオは慌てて、分霊を追いかけた。この子に霊感がある事は神木から教えられたが、こんなに自分にかまうのは、全く理解できずに、分霊は家の中を歩き回る。

 最初に目覚めた分霊の仕事は、家の構造や家具の位置などを覚える事である。その最中でも、パピリオはずっと分霊に話しかける。もう半分は聞いてはいなかった。


「でね、やっぱりかっこいいなぁと思ったのよ。ツゥリッパは。素敵な男の子だなぁって、一目ぼれ? みたいな感じで」


 男の子? と分霊は首を傾げる。分霊に性別はない。木の枝に雌雄の区別がないのと同じように。顔のことも触れられたが、自分は他の木像と同じ顔のはずだ。手彫りのため、多少の差異はあるにあるが……。

 どうやら、パピリオにとっては、自分はツゥリッパという名前の男の子らしい。それを受け入れたところで、ぐっと分霊は疲れてしまった。丁度家の見回りも終わったので、さっさと木像の中に戻る。


「ちょっと、ツゥリッパ。もっとお話ししようよ」


 パピリオが名残惜しそうに引き留めるのを無視して、『彼』は木像の中に引っ込んだ。そのまま目を閉じて、次の朝まで眠ってしまった。






   ◖◗






「ツゥリッパ、おはよう!」


 起きると、まず最初に分霊に挨拶をする。それが、パピリオの新しい習慣になっていた。

 それが数日続いてから、分霊はやっと自分が「ツゥリッパ」だという自覚が出てきた。とはいえ、パピリオから名前を呼ばれて挨拶をされるのは、まだ慣れずにくすぐったいような気持ちになる。


 チュルバンを巻いたのも、名前を付けたのも、子供らしいごっこ遊びだと思っていたツゥリッパだったが、予想に反して、彼女は自分に飽きることなく、いつも話しかけてくる。

 パピリオは、四六時中ツゥリッパに話しかけていた。その必要性がないため、「喋る」という機能を持っていないツゥリッパは、黙っているだけだが、そんなのは全く気にしていない。


「でね、その石の下にいた虫を触ってみたら、なんと、丸くなったの!」


 いつもパピリオが話すのは、以前に外を探索した時に見つけたものについてだった。ツゥリッパは神木と知識を共有しているため、パピリオが驚いた顔で説明してくれるその虫が、ダンゴムシだという事も知っているのだが、喋れないのでただ無表情に頷くだけだ。

 ただ、パピリオはそんなツゥリッパの冷たく見えてしまう態度に対しても、満足気に頷く。彼女の話はいつも聞き流されてしまうため、向かい合って話を聞いてくれる存在がいるだけでもとても嬉しいのだ。


 話疲れたパピリオが黙った隙に、ツゥリッパは自分の仕事に勤しむ。分霊としての主な仕事、人間の手の届かない家のあちこちを掃除するのだ。

 ツゥリッパは棚や箪笥を通り抜けて、その裏へ回ったり、壁に入ったり、天井から顔を出したりもできる。そして、背中の方から見えない雑巾やはたきを取り出すと、埃を払ったり拭ったりする。


 地道で細かな作業だが、パピリオはそれをじっと見ている。先ほどまで喋り続けていたのとは正反対に、今度は黙り込んだまま。ツゥリッパは、時々、どっちが本当の彼女なんだろうと分からなくなる。

 ツゥリッパの掃除が終わると、またパピリオのおしゃべりが再開する。彼女が食事や入浴や就寝中の時以外は、それを何度も繰り返していた。二人の一日は、そんな風に過ぎていく。


 変化が現れたのは、ある春の初めの朝だった。「おはよう」と挨拶をした後、食卓に向かったパピリオがなかなか戻ってこない。ツゥリッパが木像を抜け出し、食卓を見に行くと、すでに彼女の姿はない。

 家中探してみても、パピリオの姿は見つからない。仕方ないので、ツゥリッパは掃除の仕事を始めたが、絶えず気もそぞろで、いつパピリオが戻ってくるのかが気になっている。ただの分霊には、ありえない心境であった。


 正午近くになって、玄関の開く音がして、木像の中で休んでいたツゥリッパは、それを待ち構えていたかのようにパッと目を覚ました。

 しばらく待っていると、パピリオが自室のドアを開けて入ってきた。服はくしゃくしゃで顔に泥もついているが、にこにこ笑っているのを見ると、ツゥリッパの中に安堵の気持ちが広がった。


「原っぱでね、たくさんの若葉が芽吹いていたんだよ」


 そう言ってパピリオが、土のついたままの両手を、ツゥリッパの鼻先に近付ける。瑞々しい葉の香り、温かい土の香り、そして、ほのかに漂うパピリオ自身の汗の匂いに、彼はひっくり返りそうなほどの衝撃を受けた。

 神木から知識を貰っているとはいえ、この若葉の香りは、ツゥリッパの「初体験」であった。同時に、この体験はこの家の外には出られない分霊にとって、ありえない経験でもあった。


「いい匂いでしょ? 葉っぱを摘んだらいけないけど、ツゥリッパにも嗅いでほしくて」


 笑っているのに、なぜだか泣き出しそうに目を細めて、パピリオが言った。この土地の掟を固く守りながらも、こちらへの優しさを忘れない彼女の心に触れたツゥリッパは、深く彼女に感謝した。こんな気持ちも、初めてのものだ。

 「ありがとう」と、喋れたら伝えられるのに。そんな、歯痒い気持ちも、自身の大本である神木に対する恨めしい気持ちも、彼は初めて抱いていた。


 この瞬間が、ツゥリッパにとって最初の「胸を揺らすこと」であったのだが、パピリオも本人も、まだ気付いていない。

 ただ、パピリオが母親に昼食に呼ばれるまで、二人はそのままでいた。






   ◖◗






 それから時々、パピリオは脈絡もなく外へ出かけるようになった。ツゥリッパが神木に尋ねると、元々外で遊ぶのが好きな子供だったと教えられた。

 帰ってきたパピリオは、ツゥリッパにお土産を持って来ていた。珍しい形の石や綺麗な陶器の破片、木工職人がたわむれに作った風車、朝露の載った葉、外の土地の果物、色とりどりの布切れ、父が持ち帰ったの雪などなど、やはりくだらないと言われそうなものばかりだったが、ツゥリッパには全て新鮮だった。


 石や陶器の硬さ、風車の開店、朝露の美しさ、果物の香り、布切れの鮮やかさ、雪の冷たさなど、多種多様なものに見聞きし、触れて、ツゥリッパは学んでいった。普通の分霊にはありえない経験は、彼に知識以外のものを与えていた。

 パピリオが外から帰ってきた時は、何を出してくれるのだろうとワクワクして、それを素直に楽しんでいた。胸が揺れるのはずっと変わらないのに、しかし、そこに今までとは違う感情が含まれているのに、ツゥリッパは戸惑っていた。


「やっぱり、ツゥリッパも一緒に出掛けたいよ」


 その感情を代弁してくれたのも、パピリオだった。

 いつも元気いっぱいで、駆けまわったりおしゃべりしたりしているパピリオが、この日は妙に静かだった。午前中はずっと、ツゥリッパの隣に膝を抱えて座り、寝ているのか起きているのか、分からないほど大人しい。


「地面から生えている花や葉っぱは、もっと鮮やかな匂いがするんだよ。地面の湧き水も、職人さんが物を作っている様子も、お母さんの機織りも、直接ツゥリッパに触れさせてあげたい」


 パピリオは、顔だけ動かして、ツゥリッパを見た。


「一人で遊ぶのは平気だったんだけどね、初めて寂しいって思ったんだ、ツゥリッパと出会ってから」


 木像の中でも、ツゥリッパは飛び上がるほど驚いた。口の端だけで笑ったパピリオの表情と共に、「寂しい」という言葉を瞬時に理解したからであった。

 驚きが去った後に、風の無い草原に立つかのような静かな心持ちで、ツゥリッパは「そうか、寂しいんだ」と噛み締めた。そして、この家を守る分霊の役目として、自分は決してこの外へは出られない、その運命を強く恨んだ。


 また黙り込んでしまったパピリオをツゥリッパは眺める。膝の上に重ねた腕へ、さらに自分の顎を載せている。改めて見つめるパピリオの横顔は、初めて会った時よりも大人びたように感じた。

 流れている時間は、幼い少女を成長させる。外へ出て、新しい何かと出会い、自分が見えないところで、大きくなっていく。ツゥリッパは、それを意識すると、また自身の中に新しい感情が芽生えたのを意識した。彼は知らなかったが、それは「悔しさ」だった。


 今の僕も、君と同じで寂しいよ。そして、なぜだか、黒い棘がチクチク心を刺しているんだ。この気持ちの名前は何かな?

 ツゥリッパは心の中で話しかける。パピリオにそれは届いていないはずなのに、彼女は唐突にこちらを見て、ツゥリッパのチュルバンに触れた。


「このチュルバンをくれたのは、ヤスミおじさんって旅人だったの」


 パピリオが、懐かしそうに目を細めて言った。

 ツゥリッパは、「ヤスミおじさん」という単語をどこかで聞いたことがあると思い、記憶を辿る。そういえば、ツゥリッパが目覚めたばかりの頃、チュルバンのことを「ヤスミおじさんのみたいに、もっと綺麗に巻いた方がいいかな?」と悔しがっていた。


 この家が出来る前に出会ったヤスミのことを、パピリオは話してくれた。時空間を越える力を持っていて、右足を二回鳴らすとパッと消えてしまったことも。

 念のため、ツゥリッパは神木にもヤスミのことを尋ねてみる。「人となりとは別に、その力は注視すべし」というのが、神木によるヤスミへの評価だった。


 そんな人物に対しても、臆せずに話して仲良くなったパピリオは流石だ。そんな感想が真っ先に出て、ツゥリッパは苦笑してしまう。分霊ならば、この土地を脅かすかもしれないヤスミ自体を警戒すべきだというのに。

 このように、自覚している部分やそうでない部分と含めて、ツゥリッパは他の分霊とは違う特色が少しずつ増えていた。治める土地の中に存在するすべてに対して、絶対平等であるのが、神の基本方針なのだが、ツゥリッパはそれから外れつつある。それがどういう理由なのかも知らずに。


 じっと考え込む彼の様子は見えないので、パピリオはぽつぽつと、ヤスミから聞いた他の世界のことを語り始めた。又聞きであるため、曖昧で謎な部分も多かったが、ツゥリッパにもそれらの世界がとても魅力的に思えた。

 ただ、それは子供であるパピリオに向けた優しいお話だったのだろう。神木の加護の外では、辛くて苦しくて悲しいことも起きるのだと、ツゥリッパは知っている。


「ヤスミおじさんによるとね、一つの魂は、死んだ後もどこかの世界に別の生き物として生まれ変われるんだって。その世界でも、ツゥリッパといっしょだったら、私はどんなことが起きても平気な気がする」


 照れているのか、顔を赤らめて、まっすぐ前を見て言ってくれたパピリオ。この上なく嬉しい一言であるのだが、ツゥリッパは、どうしようもなく虚しい気持ちになってしまった。

 もしもこの先、パピリオが亡くなっても、分霊であるツゥリッパは、この家を守らなければならない。何かしらの理由で木像が壊れてしまえば、彼はその役目から解放されるが、その時は単純に、神木の中に戻っていくだけだ。パピリオもそれを知っているはずなのに、今の一言は戯れだったのだろうか?


 と、その時、パピリオの母親が彼女を呼んだ。昼食が出来上がったのだという。

 パピリオは、「ご飯だ!」と嬉しそうに立ち上がり、パタパタと部屋から出ていく。いつも通りの無邪気な表情に戻っていた。さっきまで物憂げだったのは、単純にお腹が空いていたからなのだろ、そうツゥリッパは結論付けた。






   ◖◗






 時間は流れ、村にも夏が訪れた。

 この土地は、神木の影響で気温の大きな変化はないものの、太陽の軌跡を見て、季節を定めていた。そして、夏は一日中太陽の沈まない白夜がある。


 白夜の日は、全ての村で祭りを行っていた。普段は粛々と自身の仕事に勤しむ大人たちも、この日はお休みで、沈まない太陽の下で飲み食いをし、歌ったり踊ったり大騒ぎする。

 それぞれの村ごとに伝わっている歌や踊りは異なっている。子供たちは祭りの準備の一環として、その歌や踊りを一生懸命覚える。パピリオも例外ではなかった。


「今日はね、夏風の踊りを覚えたよ」


 帰ってきたパピリオは、自分の部屋で分霊状態のツゥリッパと向き合い、嬉しそうに語る。そして、彼女はさっそく身に付いたばかりの踊りを披露した。

 ふわふわと腕を揺らしたかと思うと、唐突に素早く一回転する。夏の吹く風のように、爽やかで気まぐれで、眩い踊りだった。


 踊りが終わって、パピリオがスカートのすそを摘まんで一礼すると、ツゥリッパは大きな拍手を送った。正直なところ、振り付けを間違えた個所もあったのだが、彼はそれを知らずに、心からの称賛を送った。

 白夜の踊りや歌のことを、ツゥリッパは神木に尋ねずにいた。パピリオが見せてくれるものを、まず最初に目にしたいと思っていたからだ。一秒後に、彼女が自分の胸を揺らすのを、ツゥリッパは何よりも楽しみにしていた。


 そして、大きな変化がもう一つ。ツゥリッパは満面の笑みを浮かべるになっていた。今もこうして、パピリオが照れてしまうほど、笑ってあげている。

 分霊としては、ありえないほどの異常ではあったが、ツゥリッパは少しずつ表情を覚えていったので、彼自身も、いつも向き合っているパピリオも、そのことに気付いていなかった。笑顔の他にも、悲しみや寂しさも、彼は表情として出せるようになっている。


 ここまでなってしまうと、普通の分霊とは全く違う。分霊と一つの魂の中間というべきなのか、そのようなものに、ツゥリッパは変貌しつつある。

 もう、後戻りできない道を、二人は手を繋いで歩いているのと同義であった。しかしなぜだろう。二人とも非常に幸福そうであった。


 さて、とうとう迎えた白夜の日。パピリオは母と共に、玄関を出て行こうとしていた。一度振り返ったパピリオは、玄関まで見送りに来たツゥリッパへ振り返り、「行ってくるね」と笑って手を振る。

 手を振り返した後、前を向いてドアノブを押す彼女に背中に、ツゥリッパはふぅーと、息を吹きかける。主にパピリオの父に行う、無事に家へ帰って来れるようにという幸運のおまじないだった。


 この一日ほど、ツゥリッパは長く感じたことはなかった。掃除をしても、身に入らず、気が付くとどこかの窓から外を見ている。

 村の通りは、いつもよりも人が多い。そして、大人も子供も笑顔だった。ガラス越しでも分かるほど、明るい音楽が常に流れ続けていて、色とりどりの旗がはためいている。


 見ているだけで、わくわくするような光景だった。しかし、ツゥリッパはすぐ切なくなる。手の届かないものに対する羨望もあったが、それ以上に、パピリオと一緒に村を歩きたいという願望が強かった。

 木像の中、ツゥリッパは想像する。パピリオと一緒に、屋台を覗き込んでいる自分を。それぞれで同じ種類の飴を買って、舐めている自分を。音楽に合わせて、彼女の手を取り、踊る自分を……。


「ツゥリッパ」


 うとうとと夢見心地だったツゥリッパを起こしたのは、静かなパピリオの声だった。はっと意識を上げると、外は一日ぶりの日暮れで、ぼんやりした橙色に染まっている。

 パピリオは、ツゥリッパの真向かいにいた。窓の外から入ってくる夕日を浴びて、顔が赤くなっている。そして、彼のことを呼びかけたにも拘らず、目線を下に反らして、もじもじと所在なさげにしている。


 どうしたのだろうと、ツゥリッパは不思議に思いながら彼女の様子を見ていた。普段のパピリオだったら、堰を切ったかのように、祭りの様子を自分に話してくれるはずなのに。

 一瞬、彼女は疲れているのかなと、ツゥリッパは思った。だが、パピリオの様子はそれとは違う。なんだろうかと、久しぶりに神木に尋ねようとしたツゥリッパの目を、パピリオは急に真っ直ぐ見つめた。


「私、ツゥリッパのこと、どう思っているのかやっと分かったの」


 何? と、ツゥリッパは心の中で尋ねる。凪いだパピリオの瞳を眺めながら、ツゥリッパは、その答えを聞きたいような、怖いような、複雑な心境に苛まれた。


「最初に会った時は、弟みたいなものだと思っていた。でも、全然違うの。おじいちゃんの家にいた分霊さんには、抱かなかった気持ちが、確かにあった。ツゥリッパのことは特別。名前やチュルバンをあげたいくらいに。でも、その特別の理由が、ずっと分かっていなかった」


 そこまで語ったパピリオは、急に目を逸らした。また顔が赤くなっている。夕日のせいだけじゃないと、ツゥリッパはやっと分かった。


「お祭りでね、誰にも見られていないような場所で、近所のお兄さんとお姉さんが……しているところを見たの。びっくりしたけれど、でも、でも、良いな、って思っちゃった」


 益々頬を赤らめて、パピリオが下を向く。今、ツゥリッパの視点からでは、彼女のつむじしか見えていない。

 パピリオが見てしまったものが何か、肝心なところはよく聞き取れなかった。不思議に思っているツゥリッパの顔を、またパピリオが見据える。今度は、この上なく真剣な表情で。


「ツゥリッパ」


 彼女が、自分の名を呼ぶ。それだけなのに、もしも心臓があったら、高鳴るような興奮を覚えた。

 そして、パピリオはツゥリッパの両肩に自分の手を置く。一秒後。胸を揺らすような何かをしようとしている。パピリオが顔をゆっくりと近づける。


 いけない。ツゥリッパのどこか奥底で、警鐘が鳴った。しかし、それ以上に彼は待ち望んでいる。彼女がしてくれることを。それが何か分からないのに。

 そして、パピリオの唇が、ツゥリッパの唇に触れた。


 家の中に、雷が落ちたような轟音が響いた。自分の木像が真っ二つに裂かれた音だと、ツゥリッパは遅れて理解する。

 直後、彼の時間は、限界まで引き延ばされた。一日をかけて、目の前のパピリオが一度息を吸って、吐くまでを行っている。そんな世界の中で、分霊としてのツゥリッパが、為す術もなく、後ろへと引き離されていく。


 儀式が成立したのだ。ふいに、彼は悟る。

 チュルバンという分かりやすい目印を持つこと、他者と識別する名前を得ることに続く儀式。それは、特定の誰かと心が通じ合うこと、そして、愛を確かめること。


 これにより、見えなくとも存在していた神木との繋がりは、完全に断たれた。そして、ツゥリッパは一つの魂として、独立する。

 今はその別離の最中なのだ。彼はこれから、輪廻転生の輪に加わり、永い永い旅に出る。




   パピリオ!




 今の自分の姿は、もうパピリオにも見えない。声は最初から持っていない。それでも、ツゥリッパは叫ばずにいられなかった。

 だが、次の言葉は咄嗟に出てこない。パピリオに、自分からも愛を伝えるべきだ。そう思っている彼の目に、パピリオが、数日かけて、口を動かすのが見えた。




   ま

   た

   ね




 ……何も気づいていないはずのパピリオは、確かにそう言った。ツゥリッパの目を見つめて、微笑を浮かべたまま。

 途端、ツゥリッパの目から涙が、そして口からは笑みが零れた。喜怒哀楽、全ての感情が溢れ出るままに、彼もまた叫ぶ。




  またね!

  パピリオ、またね!




 どんどんと離れていき、小さくなっていくその少女に手を伸ばしながら、ツゥリッパは願った。

 また、パピリオに会いたい。今度は、友として。あるいは、家族として。はたまた、師匠か弟子として。そして、恋人として。


 ……眠気に耐え切れなくなったかのように、ツゥリッパは初めて瞼を閉じる。

 すると、一つの魂となった彼は、この土地から消えてしまった。






   ◖◗






 白夜の祭りから帰宅し、寝室で寝間着に着替えていたパピリオの父・ジュシィと母・カイノは、家の中に雷が落ちたかのような轟音に飛び上がった。思わず顔を見合わせて、今のがパピリオの部屋から聞こえたのだと確かめると、夫婦は慌てて娘の元へ駆けた。

 音の聞こえた先へと雪崩れ込むと、娘が窓辺にぼんやりと立っていた。その先には、頭のてっぺんから足元まで、二つに大きく裂けた分霊の木像が倒れていた。


 血色を変えたカイノは、パピリオの肩を掴み、大丈夫? と、顔を覗き込む。パピリオは、寝起きのような顔をしていたが、怪我らしいものは見当たらず、小さく頷き返してくれた。

 その様子にほっとしたジュシィとカイノは、改めて木像を見る。倒れたばかりなのか、その右半身と左半身は、僅かに揺れていた。頭に巻いていた布も、そのまま裂けている。


 家を守る木像が裂けるのは、この一家に降りかかる災難を肩代わりしてくれたという証である。夫婦は、まだ状況が分かっていない様子のパピリオも促して、神木に感謝と祈りを捧げた。

 ただ、木像がない家で暮らすのは、屋根がない家で暮らすのと同義であるため、パピリオ家族は一時的に、父方の祖父母宅に厄介になった。それから三か月後、新しい木像を迎えて、三人は我が家に帰ってきた。


 最初の木像が裂けてから、パピリオは普通の子供になった。くだらないことを愛する心と見えないものを視る目を失い、一人遊びをしなくなって、近所の子供と遊ぶようになった。

 両親は、娘の変化にほっとしながらも、心のどこかでは、それを寂しく感じていた。






   ◖◗






 ——これが、パピリオ・ブロンマプランという少女と、分霊の『彼』・ツゥリッパの「始まりの物語」。

 一つの儀式を完遂した二つの魂は、永い永い時の中で、必ず出会い、愛し合い、別れるを繰り返してきた。その物語は、きみたちも恐らく目にしてきたのだと思う。


 そして、「始まりの物語」があれば、「終わりの物語」があるのも、道理だ。

 だから、神木は待っている。ここで、二つの魂が、神木の元に帰ってくることを、ずっとずっと、待っている――





















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くだらないことのすべて、一秒後に胸を揺らすことのすべて 夢月七海 @yumetuki-773

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