教材F

「喜び」「驚き」「恐怖」「絶望」そして「現実逃避」

 

 うん、色々勉強できた。

 そう思うと今週は実りのある1週間だったな。


 12月の寒い夜。

 外の冷たい風によってマンションの部屋の窓も揺れているように見える。

 高層マンションの上の方の階のせいか、風をまともに受けるんだな……


 私は1週間の勉強による満たされた気持ちと自分をねぎらう意味も込め、ホッと一息つくと目の前の椅子に座っている男性に向かい一眼レフのデジカメを向けた。

 すると、彼はまるでつり上げられた魚のように、激しく動いたけど特に問題ない。


 彼はしっかりと縛っているし、このカメラは連写機能が優れているので、確実に撮影できる。

 撮り終わると、私は満足して言った。


「現実逃避の後の生への執着……これって何なんだろう? ねえ、どう思う?」


 彼……確か「結城浩一ゆうきこういち」って言ったかな?

 結城浩一こと「教材F」が泣いてばかりで返事をしないので、諦めてデジカメを持ってパソコンに繋ぐと先ほどの写真を印刷した。


 ボーナスで奮発して買った高性能のプリンター。

 さすがに鮮明に映し出す。

 恐怖に満ちた表情を。毛穴から吹き出す汗や涙を。

 素晴らしい。

 教材には鮮明な絵が欠かせない。


「どう? しっかりと写ってるよ」


 そう言うと、私は壁に彼の写真を貼る。

 ただ、様々な表情を貼ったせいで、貼るところが少なくなってきた。

 とはいえ、仕舞っておくのは嫌だ。

 人の記憶は曖昧な物だから、仕舞ってしまうとその情報の存在が段々薄くなり、忘れてしまう。

 

 私は絶えず勉強したいのだ。

 せっかく私のもとに来てくれた教材をしっかり活用したい。

 そのためには、いつでも目に付く場所に貼っておくのがいい。

 仕事のToDoリストやテスト勉強の知識と一緒。

 情報は目に付いてこそ価値がある。


 そんな思索にふけっていると、それを引き裂くように甲高い悲鳴が聞こえた。


 うるさいなあ、もう。

 考え事くらいゆっくりさせてよ。


 私は舌打ちすると、教材Fに近づき思いっきりビンタした。


「あなたには凄く勉強させてもらって感謝してる。でも、使えなくなった教材はどうなるって言った?」


 教材Fは右頬を内出血だろうか、真っ赤にして首を振る。


「廃棄」


 ※


 私はあくびをして時計を見た。

 もう11時か……

 明日も仕事だし、そろそろ寝ないと。

 大事な会議もあるし、後輩の子に頼み込まれて仕方なく受けた合コンもある。

 合コンなんて面倒だけど仕方ない。

「普通の人」になるためのレッスンだ。


 携帯のニュースサイトをチェックしながら、電気ケトルでお湯を沸かす。

 その間、教材Fはずっと叫んでいる。

 疲れないのかな?


 ミルクティーの準備をして、お湯を入れる。

 そこに小豆をスプーン一杯。

 これが美味しいんだ。

 私はニンマリとして小豆入りのミルクティーを飲んだ。

 ああ……染み渡る。

 仕事と帰ってからの「勉強」の疲れも癒えるようだ。

 そして、寝る前のルーティンである、壁一面の写真を見る。


 様々な表情とそこから滲む感情。

 ずっと学んできたお陰で色々と分かってきた。

 お陰で私も「快楽」と「喜び」については言語化できるくらいにはなってきた。

 おかげでこうして、大好きな小豆入りミルクティーを飲んで笑顔になる程度には「喜び」や「快楽」を自覚できている。

 これも今までの教材のお陰。


「ありがとうございます」


 教材Fにペコリと頭を下げると、ミルクティーを飲みながら隣の寝室に入りベッドに潜り込む。


 あ! 忘れてた!

 寝ちゃう前にもう1つ確認したことがあった。

 なんでこうウッカリなんだろう……


 私は自己嫌悪を感じながら慌ててリビングに戻ると、エアガンを取り出し教材Fのお腹に押しつけた。

 彼は顔全体に「恐怖」を浮かべて暴れる。

 自身の生命活動への危機による反応。

 そして……


 引き金を引くと、痛みのせいか暴れだし泣きながら私をにらみ付ける。

「不快感と恐怖による怒り」


 私は教材Fに近づくと、そっと頬を両手で挟み唇にキスをする。

 そして、笑顔を浮かべて言う。


「ゴメンね、こんな事して。でもこれも愛の形。あなたの事が大好きだからいじわるしちゃうの。もうちょっとしたらあなたを解放してあげるから。ね」


 教材Fは喜びを顔全体に浮かべ涙を溢れさせる。

 生への希望による「安堵」と「喜び」

 私は素早くスマホでその顔を写真に撮る。


 明日、現像しよう。

 今日はもう寝ないと。


 ※

 朝、うっかり寝坊してしまった私は慌てて身支度していた。

 やっちゃったな……

 朝ご飯は外かな。

 教材Fが元気すぎて、彼の大声に慣れちゃったからだな。

 携帯のアラームに気付かないなんて、バカみたいなコメディドラマじゃなんだから。


 でも、朝から身体が良く動いたせいかどうにかなりそうだ。

 よし!

 ちょっと時間に余裕が出来たので、会議の資料を確認する。

 しっかり見直すのは駅前のマックに入ってからにしよう。

 新商品も食べたかったし。

 気合いを入れるために、小豆入りミルクティーを飲んで、玄関を出ようとした私はふと教材Fの姿を見て、慌てて戻った。


 うそ、拘束が緩んでる!

 昨夜確認してなかったな。

 アキレス腱を切ってるから歩けないけど、万一這いずって外に出られたら困る。

 とはいえ、拘束を締め直すには時間ないし……

 ああ、どうしよ……

 仕方ない。


 已むなく、キッチンでタオルを濡らすとそのまま教材Fの顔に乗せた。

 その途端、人間とは思えないものすごい跳ね方で動く動く。


「わお……」


 ビックリして思わず動画を撮った。

 ここまで強烈な「断末魔」は見たこと無い。

 人間って奥深いな……

 って!

 そんなことしてる場合じゃ無い


 教材Fが動かなくなるのを目の端で捉えながら、私は急いで外に出た。

 帰ったら廃棄しないと。

 ああ、めんどくさい。


 ※


 急いで出勤したけど、蓋を開けると余裕を持って間に合った。

 ホッとしながら更衣室で着替えていると、先に着替えていた後輩の「幸村ゆきむら すず」が声をかけてきた。


香坂こうさかさん、珍しいですね。こんなギリギリで」


 私は苦笑いしながら彼女に言う。


「ちょっと夜勉強しすぎちゃって」


「マジですか!? 香坂さん、ほんと凄いですよね~。絶対医大入れますって」


「ううん。まだまだだよ」


「でも、香坂さんドクターから凄く評判いいし、師長からも可愛がられてますしね。多分この病棟の中では一番評価高いですよ。いずれ医者を目指してるってのも納得だな。エリートって羨ましい」


「そんな事ないって! はい、もうすぐ業務開始だよ」


「はいはい、あ! 今日の合コン忘れないでくださいね。香坂さん居るとメチャ男子からの受けいいんですよ」


「おい! 私はエサなの?」


 そう言って軽く頭を叩く真似をすると、幸村さんは楽しそうに笑う。

 

 何が面白いんだろう?

 情報というレベルにも値しない「軽口」「おふざけ」と言う行為。

 でも何故かこれをすると、相手は警戒心を解く。

 これはもっと学習しないと。

 そのためにも幸村すずとの関係は維持しないとね。

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この何も分からない世界 京野 薫 @kkyono

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