この何も分からない世界
京野 薫
私は何も分からない
人には悪魔に魅入られる瞬間があると思う。
例えば、駅のホームで電車を待っているとき。
電車の来るアナウンスを聞いていると、ふと目の前の人の背中を見て
(この人を線路に突き落としたらどうなるかな)
と思う。
そこまでではなくても、楽しそうに笑っているカップルを見たとき、彼氏彼女どちらでもいいけど、私の手に持っているハンバーガーを、この日のデートのために用意したであろう服に思いっきり投げつけたら。
その後の事は容易に想像できる。
前者は響き渡る悲鳴と共に、私は一躍時の人。
何ならその場で、某人気アイドルの主演したサスペンスの名前でも叫んで
「アイツのドラマのマネしたんだ!」とかヒステリックに言えば、あら不思議。
突き落とした人だけでなく、特に興味も無いドラマに関わる誰かは確実に不幸にできる。
後者は……あんまり面白くないな。
せいぜい私が訴えられるくらい? そこまで行かないか。
どうせ女の子がワンワン泣くんだろうけど、そもそもそれが分からない。
着ている服が汚れただけなら買い直せばいいじゃない?
なんでこんな事を考えるかと言うと、別に殺人衝動があるわけじゃ無い。
私は殺人鬼じゃ無い。
ただ、知りたいのだ。
人の感情という物を。
物心ついたときから、周りみんなの行動には分からないことだらけだった。
何で、犬猫が死んだら悲しむの?
ただ、内蔵と筋肉と脂肪の塊が生命活動を停止しただけじゃ無い?
代わりならお店でいくらでも売っている。
それが買えないならまあ分からなくも無いけど、おもちゃ屋に行ったらもっと面白そうなオモチャは一杯あるじゃ無い?
何でパパやママに怒られて泣いてるの?
言われた事を確実に直せばいい。
って言うか「怒られる」って何?
相手が自分の思うようにしたくて発する言葉や行為の事だろうな、とは思うけど直すことで自分の利益になるなら直せばいい。
不利益なら聞いたフリしておけば、貴重な時間を相手もそれ以上無駄にしてこなくなる。
何なら泣いておけばより効果てきめん。
「悲しい」は不利益。
「嬉しい」は利益。
「怖い」は、自分の安全が脅かされる事への拒絶……かな?
この「怖い」が未だによく分からない。
だって、みんなが怖がるのは居もしないお化けとか、先生や親に怒られる事とか、ピアノのレッスンで叩かれることとか。
でも、痛みなんて永遠に続くわけじゃ無いのに。
殺されるなら分かる。
楽しいことが続けられなくなるから。
でもそうじゃ無いのに?
試しに、小学生の頃に私を何度もからかってきていた男子を、二人だけの時お腹を何度も殴ってみた。
空手をしているので、効果てきめんで彼は苦しそうにしてた。
でも、分からないのがなんで怖がるの? と言うこと。
たかが痛みくらいで。
でも、これはすぐ分かった。
生物の本能で、彼は私をボスと見なしたんだ。
逆らうと自分の生命を脅かされる相手、と認識した。
なるほど、スッキリした。
もう用はなかったけど、媚びを売るためかやたら関わってきて面倒だったので、前々から録音してた彼の私へのイジメの内容を、職員室で先生方に聞かせ、その場で号泣してみると彼は転校していった。
掃除完了。
話は戻り、それを知りたくて仕方なくなった私は、高校1年生の時ついにある実験をした。
私はどうやら可愛い女の子なようで、ニコニコしていると勝手に行為を持たれる確率が高い。それを生かして、私に好意を持っているクラスの男の子と仲良くなった。
あ、この「好き」もよく分からない。
種の保存になる生殖活動につながるためのプロセスだから、大事にしてるのかな?
の、割には一緒に遊園地行こうとか無駄な気がする。
私は、万事にスッキリしたい。
モヤモヤした物をそのままにすることが耐えられない。
そこで、彼と一緒に放課後に近くの公園を歩いているとき、周囲に人が居ないタイミングを見て「ねえ」と声をかけた後、彼を石段から突き落とした。
その時の彼の驚きに満ちた顔。
それから石段を転げ落ちる、出来の悪いお人形みたいな姿。
落ちた彼は、必死に動いていた。
それがまるで、外国のモーターで動く人形の動きに似てて、思わずじっと見てしまった。
ふう、良かった。
生きてる。
今回の実験では死んでもらっては困るので。
そのためにバッチリの場所を選んだのだ。
私は彼の元に駆け寄って「ねえ」と声をかける。
すると、彼は恐怖に満ちた顔をして必死に私から逃げようとする。
腰が抜けたのかアキレス腱が切れたのか、歩けなさそうだ。
ふむ。
私は彼に近寄ると、髪の毛を掴んで私の顔まで引き上げた。
「ねえ。まだ私の事好き?」
その後の彼の行動は素晴らしかった。
勢いよく首を横に振ったかと思うと、何かに気付いた感じの表情になって、慌てて今度は縦に振った。
どっちなのよ。
ほんの30分前まで世界の幸せを独り占めしていたような彼が、今は顔を青くして震えながら……失禁している。
ふむ。
これが「恐怖」か。
「愛」と言う生殖活動に繋がる超重要イベントの本能を凌駕するくらいの感情。
自分の身を守るための本能。
よし! 恐怖の中でここだけは理解した。
「恐怖」は「愛」を上回るんだ。
そして、私は身体の芯から心地よい震えを感じた。
これは……寒い日に家へ帰って湯船に入った時みたいな快感。
これは……何?
確かめてみようと思い、彼にキスしてみる。
特に何も感じない。
次はどうしようかと思い、今度は真逆を試したくなり彼に思いっきりビンタした。
その途端、彼は泣き叫びながら這いずって逃げようとする。
ん?
私は何かを掴みそうに感じ、彼にわざと逃げる時間を与えるようにゆっくりと近づいた。
そして、もう少しで公園の入り口に行こうかと言うとき、早足で近づくと彼の髪を掴んで、元の場所に引きずった。
その時の彼の声。
聞いていると、またあの湯船に浸かった時の気持ちよさが……
やっぱりだ。
「ねえ。死にたい? 死にたくない? どっち」
私の問いに彼は泣きじゃくりながら「助けてください」と繰り返す。
「助けてあげるけど、今回のことは誰にも言わない事。言ったら、あなたの家族も同じ目に遭わせる。そして……あなたも次は無い。私の言うことを聞きなさい」
私の言葉に彼は嬉しそうに何度も頷く。
うん、これだ。
人間にとって最も尊いのは生命。
命あってこそあらゆる物が出来る。
そんな命によって作られるのが人生。
そんな人生を、赤の他人の私が思い通りにコントロールする。
気分1つで、害虫のように踏み潰す事が出来るとしたら。
よく分からなかった「感情」の中でやっと1つ自分の中に落ちた。
「快感」と言う感情が。
私がいる限り、その人は「無限の可能性を持つ人生」なんかじゃない。
だって、その人の可能性は私のさじ加減1つなんだから、無限じゃない。
これって凄く気持ちいい。
特に、幸せの絶頂から突き落とす時こそ、コントロールできてる感が凄い。
それからの私はこの実験に夢中になった。
誰かの人生をどこまでコントロール出来るか。
それはまるシミュレーションゲームのような刺激だった。
私って感情を持てるんだ。
公園の彼を使って、担任の先生を手懐けてみた。
放課後の教室で泣きながら色仕掛けをしてみたところ、驚くほどアッサリと。
いいのかな? 奥さん居るんでしょ?
まぁ、その方がこっちも実験になるけど。
先生と何度か会って、深い関係になった後、彼……紛らわしいな。公園の彼に撮らせておいたその場面の写真を、私の顔は加工して分からないようにした後、教育委員会に匿名で送りつけた。
先生は懲戒免職になったらしい。
ただ悔しかったのは、その瞬間の顔を見れなかった事。
人が積み上げた物を全て失う瞬間の顔を見たかった。
公園の彼ではイマイチ物足りなかった。
先生こそ、まさに全てを失った人なのだから。
「本物の絶望」を見る機会って、ありそうでない。
今の日本でそれを感じる事って、案外多くないんだよね。
これこそ最高のコントロール。
っていうか、私がまるで神様になったよう。
人の人生っていう一度しか無いものを踏みにじることが出来る。
自分の詰めの甘さに悔しくなり、公園の彼を散々殴りつけたけど気は晴れない。
まあいいや。
また別の素材で勉強しよう。
そんな事を考えながら夜の公園を歩いていると、突然背後に足音が聞こえた。
何気なく振り向くと、目の前に大きな黒い影が迫り、次の瞬間お腹に鋭い痛みを感じた。
あれ?
見ると、お腹から血が。
これマズいかも。
もっと勉強も実験もしたいのに。
急いで逃げようとすると、今度は横から見慣れた影。
公園の彼だった。
彼は手に持った石で私の頭を思いっきり殴りつけた。
痛い!
そう感じると共に、目が回り意識が遠のき始めた。
もう一人は予想通り先生だった。
あ、これいいかも。
私は今、自分が感じている感情「恐怖」を理解するため、カバンからメモ帳を取り出そうとした。
メモしとかないと。
そっか。
公園の彼はずっとこれを感じてたわけか。
面白い。
でも、メモを取り出そうとした私に先生は馬乗りになると、今度は背中にナイフを突き刺した。
あ、これダメだ。
ああ、私バカだった。
実験のためにはもっと賢く立ち回らないと行けなかった。
刈り取っても支障の無い相手に問題ない形でやらないと行けなかった。
完全に人形にしないと行けなかった。
ああ、神様。
もう一回だけチャンスを下さい。
今度こそは完璧に進めますから。
うっかりしてた。
勉強になったけど、ここで終わりかな……
人の感情って他にもまだあったんだよね。
生命が生き残るために、外敵と戦うために必要な感情。
「憎しみ」が。
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