第5話 溺愛夫婦?

 夜の帳が降りた頃。シャワーを浴びたティナはしっかりと髪にオイルを塗り込むと、洗いたての瑞々しい肌に筆を乗せた。日頃から体の手入れを怠らないティナは最低限のメイクだけでも十分に映える。ふっくらした唇にほんの少し赤色をのせると、鏡の前にはどこから見ても完璧な美女が立っていた。


(まだあの人の好みはわからないからほとんど素の私になっちゃうけど、反応を探るくらいなら十分よね)


 シンプルな黒のナイトドレスを身にまとい、鏡の前で念入りにチェックする。黒はティナを最も美しく輝かせる色だ。過度な露出や派手な飾りはないが、キュッとくびれた腰と豊かな胸元だけで十分にティナの魅力は際立つ。

 ティナは今からこの格好でレイの寝室に向かうつもりだった。そしてレイのベッドに忍び込む。 

 プロの駆け引きとは言えない、なんの捻りもない真っ向からの色仕掛け勝負だが、今回ばかりは強硬手段を取るつもりだった。

 なぜなら人は突然のことに素が出てしまうものだから。


 

 コンコンとドアをノックすると、部屋の中から「入れよ」と返事が返ってくる。中に入ると、レイはベランダで夜風に当たりながら煙草を吸っていた。ティナの姿を認めると、火をつけたばかりであろう長い煙草をシガーケースに突っ込む。そのまま部屋に入り、ティナに相対したレイは微かに目を細めた。


「急にしおらしくなってどうした。そんな色っぽい格好をして寝室に来る女か? お前は」

「あなたに小細工は通用しないと思ったから、真っ向から勝負を挑みに来たのよ。今から私と一線交えて頂戴。この一回ですべてを決めるから。あなたから情報を吐かせて私はさっさと秘密警察ここを出るわ」

「相当な自信家だな。だがそっちの方が好みだ」


 ティナの意図を察したのか、レイが上着を脱ぎながらベッドに腰掛けて低く笑う。ティナもドレスの裾をさばいて彼の隣に腰掛けた。

 至近距離で赤と紺の瞳が交わる。端から見れば今から睦まじい時間を共にする仲の良い夫婦だ。だが内心ではお互いに気を許していないのが探るような赤い目からもわかる。

 ティナがレイの頬にそっと手を添えると、その上からレイの手が覆うように重ねられた。


「逆に俺に惚れないように気をつけろよ」

「その言葉を吐いたことを後悔するわよ」

 

 耳元で囁かれる低い声を一蹴する。 レイはフッと相好を崩すと、ティナの首筋にそっと唇を落とした。

 予想していたよりも柔らかく優しい感触が肌をかすめる。レイの腰に手を回し、彼からのキスを受けながらティナは静かに相手を分析していた。


(コイツ、見た目に反して意外と紳士なのよね)


 ティナの前では彼が絶対に煙草を吸わないことにも気づいていた。横暴な振る舞いは見えるものの、レイは思っていたよりも嫌なヤツではないのかもしれない。少しだけ彼の印象を修正しつつ、ティナは自分の手の甲にキスを落とすレイの顔を眺めた。

 間近で見るレイは思っていたよりも若かった。路地裏で犯人を追い詰めていた時の彼は、老成した熟練の佇まいを醸していたが、年齢はおそらくティナより少し上、それでも25を少し過ぎた程度だろう。端整な顔立ちは、悪徳警官というよりも俳優アクターの方がぴったりだ。

 手を伸ばしてレイに抱きつき、背中に手を回す。服についた煙草の残り香がティナを包み込み、仕事だとわかっていなかったらさすがのティナもくらりと来てしまいそうだ。

 そのままシャツの下から手を入れて素肌を撫でると、指先にいくつか傷跡があたった。一、二、三……大きくはないがそこかしこに点在しているということは一度に受けたものではなさそうだ。これだけでも、彼が何度も修羅場をくぐり抜けてきたことがわかる。


(先程組織設立当初からいると言っていたわね。この男、なかなか探りがいがありそうだわ)


 ――ついでに女遊びも相当しているみたいね。とこめかみにキスを受けながらどうでもいい情報まで知ってしまったことに内心で辟易する。

 彼の情報をざっくり掴んだところでティナはレイの手の上に自分の手を重ねた。


「もういいわ……次は私が」


 レイの右手を握ったまま身を乗り出し、押し倒すように彼の膝に乗る。レイがティナの体を支えようと腰に手を回したところで――ティナはグイと力任せに引っ張った。


「なっ!?」


 レイの右手ぐんとが引っ張られ、引き寄せられたかのようにベッドの柱にくくりつけられる。ベッドの上に仰向けになったレイの上に馬乗りになりながら、ティナは彼の首にナイフをつきつけた。

 赤い瞳が一瞬驚愕に見開かれたが、すぐに不敵な笑みに取って代わる。


「プロファイリングのプロのくせにリサーチ不足だな。俺にそっちの趣味はないぞ」

「あらそう。なら新しい性癖を開かせてあげるわ。たまにはこういうプレイもいいんじゃない?」

「俺を殺せば情報は遠のくがいいのか?」

「その時はまた別のターゲットを探すもの」


 静かに告げてレイの首にナイフの刃先を押し当てる。もちろんティナとて本気で彼を殺すつもりはないが、こういう駆け引きの時はいかにこちらが本気であるかを示さなければならないのだ。

 だが同時にカチリと硬質な音がして尻に冷たいものが押し当てられ、ティナは内心で舌打つ。


「ナイフと一緒に床入りとは、ベッドでのお作法は完璧だな」

「あなたは思っていたよりも悪趣味なのね」


 お尻に硬い銃口の感触を感じながら、ティナはレイを睨みつけるように見下ろした。右手をベッドの柱に縛り付けられながらも、もう片方の手で銃をティナの尻に突きつけているレイには怯えも恐れも感じられない。ティナは瞬間的にこの勝負に負けたことを聡った。


「情事の最中に気づかれず細工をした手腕は買うが」


 レイが手から銃を離し、ナイフを握るティナの腕を掴む。ティナも咄嗟に抵抗するが、やはり力勝負では男に適うはずもなく。ナイフを握ったまま腕を引っ張られ、レイの腕を縛るロープが簡単に切られた。


「詰めが甘かったな」

「きーー! 腹が立つわ! 必ずあなたから情報と悔しい顔を引っ張り出してやるんだから!」


 腕の拘束を解かれて自由になったレイが身を起こす前に、ティナはベッドから転げ降りる。寝室の床の上に片膝をつくと同時にティナは太もものベルトに挟んであったダガーを引き抜いてレイに向かって投げつけた。


「うおっ危ねぇな!」


 咄嗟に枕を盾にしてダガーを防いだレイがヒュウと口笛を吹く。そのままベッドの上に投げ出された銃に手を伸ばすが、ティナがもう一本のダガーを放って銃を床にはたき落とした。


「やるなお前」

「接近戦なら私もちょっとだけ自信があるの。悪いけど今からあなたを拘束させてもらうわ。組織に連れ帰って尋問すれば、さすがのあなたもボスの居場所を吐くでしょ」

「エッチな尋問を受けるのは俺ってことか? 柄じゃねぇんだよな」


 言いながらレイがシーツを掴んでティナに向かって放り投げる。咄嗟に後退してシーツを交わしたティナが見たのは、寝室を走り出ていく後ろ姿だった。


「逃げるの? 思ったよりも意気地なしなのね!」


 ティナもレイの後を追って走りながら、彼の足元を狙ってダガーを投げる。ティナとていたずらに血を流したくはないが、確実に拘束するには彼の動きを止めるしかない。だがティナが投げたダガーはリビングに飛び込んだレイが咄嗟にローテーブルを倒したことで防がれた。


「あ〜あ、敷金が飛ぶなこれは」

「大丈夫よ。家具は退去の際に新しいのを用意することになっているから。契約時に話を聞いていなかったの?」

「げ。これ全部自己負担かよ。なるべく長く住むしかねぇな。仲良くやろうぜ」


 言いながらレイがティナに向かって花瓶を投げつけた。咄嗟に両腕で庇うが、一瞬視線が花瓶に引き寄せられたせいでレイの姿を見失う。パリンと花瓶が粉々に砕け散る音と同時に背後から抱きしめられダガーを握る右手首を掴まれた。


「くっ……ちょっと、離しなさいよ!」

「ダガーを持った相手にこっちは丸腰なんだ。ハンデをもらったっていいだろ」

「女相手にそんな生温いことを言っていていいの? あなた男でしょ」

「確かにこれはいい眺めだな」


 背後からティナの腰と右手を拘束しながらレイが口笛を吹いた。背の高いレイからだとナイトドレスの胸元から覗くティナの谷間が丸見えなのだ。どこまでも舐めた態度のレイに、ティナがワナワナと肩を震わせる。

 

「いっぺんでいいからあなたの悔しい顔を見せなさいよ!」


 背後から拘束されたまま股を狙って右足を後ろ向きに蹴り上げると、ティナの狙いを察してレイが慌てて拘束を解く。一瞬体勢を崩したのを狙ってひじ鉄を食らわせると、レイの体がダイニングテーブルに突っ込んだ。


「おいそれはマズイだろ。子供ができなくなっちまう」

「お生憎様。護身術的にも男相手に股間を狙うのは正解なのよ」

「とんだ鬼嫁だなまったく」

「そんなのん気なことを言っていていいの? そろそろチェックメイトじゃない?」


 倒れたダイニングテーブルと椅子を背に、床に尻をついたレイにダガーを向ける。ティナとて手荒なことはしたくないが、組織に彼を突き出すなら今ここで足の腱を切るくらいはしなければならない。

 だがティナの一瞬の迷いを感じ取ったのか、レイがニヤリと笑ってティナの足に自身の足を引っ掛けた。


「きゃあっ」


 レイに足を引っ掛けられ、ソファの肘掛けに後ろ向きに倒れ込む。慌てて起き上がろうとするもレイがティナの足を抑えながら馬乗りになった。

 ダガーを投げようと手をあげるが、レイがティナの両手首をクロスさせた状態でソファに縫い留める。


「さっきの続きといくか? 俺はまだまだイケるぜ?」

「あっ……! ちょっと、ソファに押し倒すなんて反則だわ! この変態!」

「へぇ色っぽい声も出せるじゃねぇの。もっと聞かせろよ」

「あなたにだけは死んでもごめんだわ!」


 真正面から赤い瞳を睨みつけるが、両手を拘束された上でソファに押し倒されれば女のティナには勝ち目がない。おまけに両足の上に馬乗りされているので足技を使うこともできず。

 

「まったくとんだじゃじゃ馬姫が嫁に来たもんだ。これはお仕置きしておく必要があるな」

「エッチな尋問をするのはあなただったってオチにはさせないわよ」

「いいねぇ。拘束された状態で吠える女は好きだぜ」


 そう言いながらレイがティナのドレスの裾から手を入れる。おそらく他に道具を隠し持っていないか調べるつもりなのだろう。だが彼の手がティナの太ももに触れた瞬間、レイの目が僅かに見開かれた。その赤い瞳にはいつもの余裕が消え、驚愕の色が広がっている。

 その時。


 ピンポーン


 ピンポンピンポンピンポーン


 夜中にも関わらずドアのチャイムが連打される。ソファの上でもみ合ったまま二人は玄関の方に視線を向けた。

 どちらからともなく体を離して身を起こし、身支度を整えながら二人して玄関口へ向かう。


「はーいどちら様ですかー?」


 にこやかな笑みを貼り付けてドアを開けると、そこにはカーラがいた。ナイトキャップをつけたまま、腕組みをしてこちらを見ている。


「あらカーラさんこんばんは。こんな夜中にどうされたのですか?」


 努めて明るく言うと、カーラが訝しげな視線を寄越してくる。


「どうも何もあったもんじゃないよ。この家からドタンバタンって大きな物音がしたって話があったからねぇ、心配になってきてみたんだよ」

「あらわざわざありがとうございます。でも見ての通り、私もレイも無事ですわ」

「強盗が来たわけじゃなくてアンタ達が無事なのは安心したけど、じゃあさっきの物音はなんなんだい。何が家具が倒れたりガラスが割れる音が聞こえたっていうけど。まさか夫婦喧嘩をしていたんじゃあるまいね?」

「まぁそんなことはありませんわ。だって私とレイはこんなに仲良しなんですもの、ほら」


 そう言って隣に立つレイの腕に自分の腕を絡ませる。笑顔が若干引きつっている自覚はあるが、この場を乗り切れば問題はないだろう。カーラに気づかれないように肘でレイを小突くと、レイが大袈裟に咳払いをする。


「ご心配をおかけして申し訳ありませんマダム。ちょっと僕達……夜の方のテンションが上がってしまいましたね。気を抜くとつい激しくなってしまって」


(この男、後で殺す)


 あくまでカーラの前ではその設定を貫くらしい。だがこの場においてはそれが最も彼女を早く追い返すものであるのも正解だった。

 仕方なくティナもレイの腕に絡みついてニコニコするが、意外なことにカーラは折れてくれなかった。


「本当にお盛んなだけだったのかい? 前にここに住んでいた夫婦もねぇ、一見普通の夫婦に見えたけど、家の中ではとんでもないことになっていたんだよ。アンタ達、実はさっきまで大喧嘩をしていたんじゃないかい? ちょっと家の中を見せとくれよ」

「あ、家の中は……今ちょっと片付いておりませんので」

「なんだいアタシは大家だよ。家の中をチェックするのも仕事さね。ほら、家の中が荒れていないか確認したら帰るからさ、リビングだけでも見せておくれ」


 そう言いながらカーラがグイグイとティナを押しのけて中に入ろうとする。強引に家の中に入ろうとする彼女をいなしながらティナは内心で冷や汗をかいていた。ダガーが刺さったローテーブルにひっくり返ったダイニングテーブルや椅子、おまけに床には粉々になった花瓶が転がっている。一度今のリビングを見られたらどう言い訳をしても怪しまれるに違いない。

 彼女をどうやって追い返そうか焦っていると、隣に立つレイがフッと微かに息を吐く音がした。

 と同時に大きな手が横から伸びてきて、不意に顎を掬われる。あっと思った瞬間にはレイのキスによって唇を塞がれていた。


(な、な、何をするのこの男は〜〜〜!!)


 内心でのティナの咆哮など気にも留めず、レイが目を伏せてティナの唇を優しく啄む。カーラが両手を目に当てて、頬を赤らめながら指の隙間からガン見していた。


「申し訳ありませんマダム。僕達まだ取り込み中なので……次からはもう少し控えめにするように気をつけますね」

「ま〜〜〜まぁまぁまぁそれはそうよね! あらあらあらあらこれはごめんなさいねぇ。まぁアタシはね、家が無事ならそれでいいのよ。だからね、まぁあんまりお盛んにならない程度に気をつけなさいね。じゃあ後はごゆっくり〜〜〜」


 カーラが高笑いをしながら扉を閉める。パタンと扉がしまった途端、ティナは真っ赤になりながらレイを突き飛ばした。


「あなたバッカじゃないのーーーーー!? これであの人の前ではそういう夫婦を演じなきゃならなくなったじゃないの! 責任取りなさいよね!」

「あの場を切り抜けるのにはこれしか方法がなかっただろ。まぁこうなったら仕方ない。あの人の前でだけ仲良い演技をすればいいだけの話だ」

「カーラさんの前だけよ! 他の人の前では絶対に絶対に仲良い夫婦なんて演じてやらないんだから!」


 だがティナとレイの思惑は大きく外れることとなる。実はカーラは秘密警察の借り上げ住宅を管理する事務員の一人であり、立派な身内の一人なのである。

 次の日には二人の熱すぎる夫婦の様子がまたたくまに署内に広まっていることを、二人はまだ知らない。




※※


現在カクヨムコンに向けて書き溜め中ですので、続きの連載は2024年のカクヨムコンまでお待ちいただけますと幸いです。

今後ともよろしくお願いいたします。

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マリアージュ・ブラン〜スパイとして潜入したら、悪徳警察官と偽装結婚させられました〜 結月 花 @hana_usagi

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