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家猫のノラ

第1話

隣接した国々との緊迫した情勢を鑑みて、厳しくなっている騎士団の稽古中。俺だけが呼び出された。

長い廊下の先にある重い扉を開けると、深い、血のような赤色の玉座に足を組んで座るお前がいた。

俺は跪いて命令の詳細を聞いた。

「キンウ、お前は鳩だ」

最後にお前はそう言った。

「承知致しました。ミツルノ陛下」

この国の王であるお前が死のうとしている。

俺だけにその事実を伝えて。


命令から一か月後、俺は馬を二頭連れて王宮の裏門にいた。

山脈の向こうから朝日が降り注いだ。

「旅の出発にぴったりな朝だな」

お前は吞気にそう言って馬に跨った。

「警備の者には渡された睡眠薬を飲ませておきましたが、いつまで持つかは分かりません。見つかれば騒ぎになります。急ぎましょう」

お前は山脈を眺めていた。

死に場所に想いを馳せているのか。

「安心したまえ。あの薬は俺の一番弟子が調合したものだから」

お前は少し懐かしむように笑った後、手綱を取った。

俺はそれに続いた。


騎士団の掟は二つだ。

一、君主の命令に逆らう又は断ることはあってはならない

二、君主を必ず守り抜く

俺は今から掟に背くことになる。


フードを深くかぶり顔が見えないようにしながら、街を進んで行く。お前の人気は歴代の国王と比べても絶大だ。その整った顔は一度式典などで見ていたら忘れないだろう。

「やはりここは良い国だ。そうは思わないかキンウ」

お前は色とりどりの怪しい小物で溢れた商店を眺めていた。

こういうところが人気の理由なんだろう。そう思いながら俺は山脈を見つめていた。


夜になるころには山脈の麓に着いていた。王宮からはかなり離れていて、人の気配は一つもない。

「ここで一度休息を取りましょう」

俺は馬から降り、火を焚いた。

お前は紙とインク壺、羽ペンを取り出した。

「今俺はお前が届ける手紙を書いているんだよ。鳩くん」

さらさらと流れるように紙に文字が書かれていく。桑でできた紙は少し黒い。

革張りの保管箱から紙がなくなったら、ガラス製の壺からインクがなくなったら、その時はお前が死ぬ時だ。

「星が見たい。火を消してくれ」

記録が終わったのか紙を仕舞ったお前はそんなことを言い出した。

「この辺りには凶暴な野生動物がたくさんいます。火を消しては襲われる可能性を引き上げます。危険です」

火は人間と動物を分ける一番大きな要素だ。

火を恐れないのが人間。

「それでも守るのがお前の役目だろ。騎士くん」

俺は黙って火を消した。


数時間、お前は満天の星空を眺めていた。

死ぬ理由に想いを馳せているのか。

「肉眼で見ることすらできないほど遠くにある星を、俺は利用してやるんだ」

見えないなら火を消す必要なんてなかっただろ。

隣を見るとお前はもう目を閉じていた。


それにしても、厄介な野生動物を引いてしまった。

目の前には空想上の化け物だと思っていた竜がいた。硬い鱗に覆われたデカい蛇のような感じだ。人間はもちろん、馬も吞み込めてしまうだろう。

「陛下は馬に乗って第一の目的地まで行ってください。わたくしめはこの化け物を倒してから後を追います」

剣を抜き、竜に向かって行こうとすると、お前に腕をつかまれた。

「待て。腹に印がある」

お前は丸腰で竜に近づいていく。

「そうかお前が『案内者』なのか」

お前がそう呟いたと同時に竜はお前を吞み込んだ。

俺は剣を投げて竜が口を閉じるのを阻止した。

「素晴らしい投擲技術だな。キンウ、お前も中に入れ。こいつが『英知の火』まで連れて行ってくれる」

俺は鱗を引っ掛かりにして竜の体をよじ登り、口の中に入った。剣を顎から抜くと竜は口を閉じて地面を這いずり始めた。


ぶよぶよとした肉塊に囲まれながら、お前はなお気品さを保ち、寛いでいた。

お前は生まれながらにして王で、王として死んでいく。

「しかしやはり剣だと重さの偏りがあるな。いっそのこと刃のついていない、握りの部分を伸ばしたような武器にしてみてはどうだろう」

俺の投擲によほど感心したのか。いやお前のことだからただの暇つぶしに、お前は新しい武術を考えていた。

「力で押し切るのではなく、受け流すような戦い方はとても面白そうだ」

熱心にアイデアを書き留めるお前を見て、俺はそんなものに紙とインクを使うなと思った。


一日中鱗と地面の擦れる音は鳴りやまなかった。やっと吐き出された時、俺たちは唾液にまみれて随分と滑稽な姿だったに違いない。

しかしそんなこと気にも留められないような光景が目の前には広がっていた。

「この火に飛び込めば良いんだな」

暗闇の中で赫赫と火が燃え盛っていた。薪があるわけでもない、まるでこの世の始まりからそこにあり続けるような風格だ。

お前は火に向かって行った。

俺はお前がここで藻掻き苦しみ灰になっても驚かない。

お前は火に包まれた。


お前はけろっとした顔で俺の元に戻ってきた。

「あの話が本当であるということは確認できました」

お前は俺を面白がるように笑った。

「俺がなんの価値もなく死んでいくと思って悲しかったかい?」

あの話が本当だとして、それはお前にとって価値ある死なんだな。

俺は竜の口の中に入った。


それからは、竜に揺られ、火に包まれるお前を見ることをひたすら繰り返した。


二十八回目が終わった時、次で最後だとお前は呟いた。

「なぜ鳩をお前にしたのか教えてやろう」

お前は相変わらず肉塊を背もたれにして寛いでいた。

「王の素質は二つだ。一つは人に愛されること。俺にはこれがあった。小さい頃から人がどうすれば喜ぶのか、俺のことを好きになるのかが分かった。この能力のおかげで俺は、突然消えたら大半の国民が嘆き悲しむほどの人気を獲得したわけだ」

お前は自分が発した自虐に乾いた笑いをもらした。

「もう一つは愚かである振りをすることだ。面倒なことには首を突っ込まない。しかし俺は残念ながら頭が良すぎた。好奇心と野心の塊なのさ」

俺はお前の向かい側に胡坐をかいていた。

「そんな俺は毎日悩まされていた。

この山脈を越えた先にある数多の国がこの国の珍しい隕石を狙っていることに。

そこで俺は考えた。大昔の文献を漁った。

すると不思議なことに隕石が落ちてきたのはおよそ六百年前なのに、他国に狙われたという記録があったのは落ちてからの五十年間と近年の五十年間のみ。

さらに不思議なことにその空白の五百年間は隕石が狙われたという記録どころか、他国に関する記録が一切なかった。

あるとんでもない仮説が俺の頭に閃いた。

齢五十を超える祓魔師の女に話を聞いてみたところ大当たり。

五十過ぎた人間なんて耄碌したやつしかいないと思っていたが、悔い改めなければならないね」

お前は全くそんな気はないのにそんなことを言う。

「『五十年前までは山脈を越えられなかった』

そう言ったんだ。これは技術の話じゃない。人知を超えた強大な力が働いていたんだ。

この国を守る、結界、とでも言おうか」

全て一か月前に聞いた話だ。

「だから陛下は人知を超えた力の正体である遠い星の者と接触し、自らを生贄として捧げることで結界をもう一度張り直すのですよね」

明らかに苛立ちの籠った声になってしまった。君主に対する態度ではない。

「お前のそういうところが好きだ」

またお前は笑った。

「俺の能力はなぜかお前には効かない。だからお前は俺の命令を完璧に遂行する。最初は一番弟子のツキを連れて行こうかと思ったんだ。あいつは頭が柔らかいからな。今後の研究に生きる良い学びの機会になると思った。しかし愛があっては鳩にはなれない」

俺ならお前を見殺しにできる。その後冷静にお前がつけた記録を持って帰る、鳩になることができる。

そうなんだろ。


竜の唾液にまみれてもなお美しいお前は、真っ直ぐ火に向かっていった。


お前は消えた。


灰くらいは残るものだと思っていたが、なんの痕跡もなくなった。

俺はお前がつけたこの旅の記録を握りしめた。


俺は竜の中に入り、山の麓についた。

馬は持ってきていた食料を勝手に食べて生きていた。

唾液を一通り落とし、馬に跨って王宮へ駆けた。


王宮に着いてからはもともと整えてあった段取りをこなしていくだけだった。

お前が王宮から自らの意思で去ったことは出発した日に分かるようにしておいたし、次代の王も決めておいた。

応急処置は済ませてある、あとは俺が上手く伝えるだけだ。

鳩として。

「陛下はこの国のためにその身を捧げたのです」

俺はこの首が飛ぶことを覚悟していた。掟を破っていることに他ならないのだから。

しかしお前は余計なことでまた紙とインクを消費したようだ。

『賢者ツキ、およびその一族。騎士キンウ、およびその一族。以上の者に永遠の平穏を与えること』

と記録の始まりに書かれていた。

しかしツキはある日ふらっと王宮から姿を消した。師である王の後を追ったのだろうという噂が流れた。

俺の首は飛びも吊りもしなかった。むしろ鳩としての仕事を完遂するため騎士より高い地位が与えられた。

国民への伝え方や新王の人気向上計画など諸々のことがまとまったのは約一か月後だった。この間他国からの干渉がないということは、結界が本当に張られているということなのか。人を殺めない武術として、お前が暇つぶしに考えたものを広めてほしいという話まで入ってきている。この国は平和らしい。

最後に旅の記録は王立図書館に収められた。

この情報は、お前の遺言により設立される学舎の主、賢者と呼ばれる人間が繋ぐ。

五百年後の生贄のために。


騎士団の寄宿舎よりも遥かに上質になった寝具に俺は横たわる。寝具だけではない、全てが二か月前よりも上質になっている。


『キンウは強いね』

『当たり前だろ俺は騎士団長の息子だぞ』

『僕は王の息子なんだけどね』


『俺は俺がいいから俺って言ってるんだ。キンウの悪影響とか言うな』


『キンウ、俺王になるみたいなんだ』

『俺は騎士になる』

『そうか、騎士か…。それなら、もし俺が間違ったことをしていたら止めてほしい』

『おう』

『約束な』


幼少期の、鳥のさえずりと花の匂いのする風が心地よい秘密の時間。


十歳で俺が寄宿舎に入ってから、王宮の中庭での交流は途絶えた。

次会った時はもう王と騎士だった。

いやお前は紛れもない王になり、俺はずっと騎士になれなかった。


お前が命をかけるほどの良い国なんてない。

お前は利用したんじゃない、利用されたんだ。

俺はどんな死にも価値を認めない。

俺はお前を見殺しにした。


「間違ってるよ」


目を閉じると満天の星空が広がっていた。

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