*



 黒く圧したよどみのなかだった。

 瞳を凝らして視ても何もない。

 真っ暗闇くらな空間。そこに彼は立ち竦んでいた。


 地に立っている。という感覚はあるが、上を見ても下を見ても、これが地面であるという確信は一切得られず、右腕を伸ばしおどおどと歩みを進めてみても、前進しているつもりがどんどん後ろへ吸い込まれて行くようで、不吉だった。


 耳を伝う、太鼓に似た音。重苦しく耳の奥で鳴り響き、大きく近づいたり遠く離れたり、消えては鳴って、鳴っては消える。

 意識が朦朧もうろうとし出すと、次第にどこからか獣の咆哮が弾けて、ただ真っ暗闇な空間だった辺りは鏡の断片を散らした。

 勢いよく轟々と降り注いで視えたが、それは音もなく衝撃もなかった。


 ただ破片は舞い、幾万の輝きを放ちながら彼の周囲に留まり、揺れる。眼の前でこちらをどこかへいざなうよう左右に振れ、残像を帯びている。螢火のようやわらしく視界の闇を彩るその丹色にいろともりに意識を酔わされながら断片の中を覗くと、列を成して山の頂きに登る人々の群れが映っていた。三つの門と、竜のような姿をした生き物が頂上に座している。銅像や彫刻ではないとはっきり分かるほど、確実に座して動いているのだ。

 空は絵に描いたように青々としていて雲ひとつ、流れてはいない。


 またある断片には、巨軀きょくな姿をした怪異の群れに、始終襲われている男が映し出されていた。深閑としていたもりの闇に、巨軀怪異な人外にんがいどもの禍々しい表情が、独りの男を仕留めるべく這うように迫っていたのだ。

 杜の木々は逆さに生え、葉は色褪くすみ地に広がる。根は幹から曇天に向かって荒々しく伸び、震えていた。


 彼は人外どもの残酷な表情から眼を逸らせず、悪寒をもって見入っていた。火傷でただれたかのように前額ひたい頬辺ほほが破け、または剥がれ落ち窪んで、内の筋々が血を滲ませ粘りながら、流動している。

 それが故の猛りか、或いは男を喰らいたいという欲からか──糸引く尖歯きばが怒号を吐く。


 おぞましい……。

 おぞましい……。

 ただそれだけの負の感情に飲み込まれそうで、逸らすことも出来ずに食い入るしかない。


 けれど、恐ろく奇妙なほど、狙われているはずの男は冷静に佇んでいた。およそ人の腕より長い鋭利なつめが幾度も地面をえぐはすに捉えようとするが、一つ、また一つと、ゆるやかにかわしていく。


 そうして己が携えていた刀をひと振りする度、人外が奇怪な断末魔をあげ崩れてゆく。

 水のようしとやかに舞う剣戟が最後のそれを倒し終える様に眼を奪われていると、男が一瞬、威嚇するようにこちらを睨みつけてきた。紫黒しこくの髪。血を喰らったかのような、歪な眼光だった。


 彼はその眼に気圧され後方へと退いた。すると断片の輝きは瞬く間に止んで、再び黒く圧する澱みが視界を遮る。


『……きひ、きひひひひ』


 不意に何者かの潜み声がして、彼は後退りする身体を止める。


『……お前の世界が、消滅するよ』


 辺りを見渡し警戒したが、視界は深い闇ばかり寄せていた。


 嘲笑ちょうしょうを含むしわがれた不気味な声が、空間に反響し何方向からも聞こえてくる。

 出所の分からないそれが太鼓のように低く太い音を鳴らしながら、ゆっくりゆっくりこちらに歩みを進めている気配に、背の皮を花枝かしの棘で叩きむしられたような衝撃が走ってゾッとなった。


 ──きっとあの化物だ。いま見た化物が、今度は自分を殺しに来たに違いない。


 彼は逃げようと試みた。しかし足にまったく力が入らなかった。耳を塞ごうにも、指と耳との距離がつかめない。目蓋を閉ざそうにも、開いているのかそうでないのかさえ、判然としなかった。


 鼓膜をつんざくようなその声の余韻が、段々、空気が重くなるのと並行して、至る所から確実に迫り来ている。


 ──来るな──来るな!


 頭の中で必死に念じた。

 動悸がその不自然な楽器の音を拒絶して、嗚咽に似たつっかえを生む。


 ──死にたくない!


『……くははははは! おびえているのかい?』


 どこからとなく向けられていたはずの声は、怯えている間に、もう振り返れば視える距離にいるのは明らかだった。


 布切をずるような足音を新たにひきつれて、鼓動が速くなるにつれ、そいつが走ったり止まったり跳ねたりしているのが分かる。確実に、距離を縮めている。

 時折不気味にくすんだわらい声を混ぜ、太鼓の音と布の這う音が濃く軋む。

 それが遂にピッタリと背後で立ち止まったとき、──耳元で獣の臭いがこだましていた。



  *



「────!」


 脩耶しゅうやの右手が何かを握り締めたとき、それが自身の身体に被さっていた布団であることに気づいたのは、今のが夢だった、と理解したのとほぼ同時だった。


 上体を起こし、両掌りょうてで顔を覆う。けれども前額の上で微かに震える指先の感触に恐怖心が募って、胸の辺りに落とし込む。


 ──渇いた汗。獣の臭い。


「……今のは、いったい……」


 夢にしては生々しい。余韻が気鬱を漂わせ、夏の冷気が汗をめる。

 茅葺き屋根の天井を仰ぎ見れば、いまだ静寂の中にいた。


「……ふう」


 頚椎くび筋に汗の伝う感覚があって、そこでやっと大きく息を吐く。



 ──わたくしの元へとお返しください。



 ……俺は、鬼……なのか……?

 大袈裟に吐けばきっと忘れられる。そうしなければ自分が無くなるようで、不安だった──。





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くじゃくのなか 川辺いと / 代筆:友人 @Kawanabe_Ito

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