イ
*
黒く圧した
瞳を凝らして視ても何もない。
真っ
地に立っている。という感覚はあるが、上を見ても下を見ても、これが地面であるという確信は一切得られず、右腕を伸ばしおどおどと歩みを進めてみても、前進しているつもりがどんどん後ろへ吸い込まれて行くようで、不吉だった。
耳を伝う、太鼓に似た音。重苦しく耳の奥で鳴り響き、大きく近づいたり遠く離れたり、消えては鳴って、鳴っては消える。
意識が
勢いよく轟々と降り注いで視えたが、それは音もなく衝撃もなかった。
ただ破片は舞い、幾万の輝きを放ちながら彼の周囲に留まり、揺れる。眼の前でこちらをどこかへ
空は絵に描いたように青々としていて雲ひとつ、流れてはいない。
またある断片には、
杜の木々は逆さに生え、葉は
彼は人外どもの残酷な表情から眼を逸らせず、悪寒をもって見入っていた。火傷で
それが故の猛りか、或いは男を喰らいたいという欲からか──糸引く
おぞましい……。
おぞましい……。
ただそれだけの負の感情に飲み込まれそうで、逸らすことも出来ずに食い入るしかない。
けれど、恐ろく奇妙なほど、狙われているはずの男は冷静に佇んでいた。およそ人の腕より長い鋭利な
そうして己が携えていた刀をひと振りする度、人外が奇怪な断末魔をあげ崩れてゆく。
水のよう
彼はその眼に気圧され後方へと退いた。すると断片の輝きは瞬く間に止んで、再び黒く圧する澱みが視界を遮る。
『……きひ、きひひひひ』
不意に何者かの潜み声がして、彼は後退りする身体を止める。
『……お前の世界が、消滅するよ』
辺りを見渡し警戒したが、視界は深い闇ばかり寄せていた。
出所の分からないそれが太鼓のように低く太い音を鳴らしながら、ゆっくりゆっくりこちらに歩みを進めている気配に、背の皮を
──きっとあの化物だ。いま見た化物が、今度は自分を殺しに来たに違いない。
彼は逃げようと試みた。しかし足にまったく力が入らなかった。耳を塞ごうにも、指と耳との距離がつかめない。目蓋を閉ざそうにも、開いているのかそうでないのかさえ、判然としなかった。
鼓膜を
──来るな──来るな!
頭の中で必死に念じた。
動悸がその不自然な楽器の音を拒絶して、嗚咽に似た
──死にたくない!
『……くははははは! おびえているのかい?』
どこからとなく向けられていたはずの声は、怯えている間に、もう振り返れば視える距離にいるのは明らかだった。
布切をずるような足音を新たにひきつれて、鼓動が速くなるにつれ、そいつが走ったり止まったり跳ねたりしているのが分かる。確実に、距離を縮めている。
時折不気味にくすんだ
それが遂にピッタリと背後で立ち止まったとき、──耳元で獣の臭いが
*
「────!」
上体を起こし、
──渇いた汗。獣の臭い。
「……今のは、いったい……」
夢にしては生々しい。余韻が気鬱を漂わせ、夏の冷気が汗を
茅葺き屋根の天井を仰ぎ見れば、
「……ふう」
──わたくしの元へとお返しください。
……俺は、鬼……なのか……?
大袈裟に吐けばきっと忘れられる。そうしなければ自分が無くなるようで、不安だった──。
くじゃくのなか 川辺いと/松元かざり @Kawanabe_Ito
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