── 絶への雫 ──

ミヨ






 およそ少女の背丈と変わらぬ麻葛籠あさつづら弁柄漆べんがらから、そっと抱え出された織物。その袖口からは、見間違いではなく一回りほど小さなからだをした女児の手足が、ぐったりと寝息を立てて安らいでいた。

 表面にはまったくと言っていいほどに傷む解糸ささくれはなく、艶めかしさに乱反した陽射しが、厚い雲間から再び零れて布上にさらさらと萌えている。神々しい絹の波だ。いつくしいという言葉もて、取ってつけたような表現に思う。


「その子は……」


 横たえていた首を起こし、男は徐ろに口を開く。巫女ふじょは付いた両膝をそのままに、長跪ちょうきののち足袋の底をゆるりと天へ召し上げた。所作を逸したその凛々しい正座が、ただ望洋に男のまなこを釘付かせる。少女がひらりと耳殻じかくを向け、


「起きられましたね、具合のほどはいかがですか?」

「はい、だ、だいじょうぶです……すみません」

「なにをです。謝る必要などありません。きっとお疲れだったのでしょう」


 畳の目にさえ気を配るような静けさのなか、抱えていたその子をそっとわら敷き円座に据え置く。紫苑の花香はとめどなく、蒼古そうこにも増して深み経つ。


 神々しい絹に擬態した、長く混じりけのない髪だった。意識なまじに覗き寄って見れば、女児の寝顔は巫女に似て澄んだ容姿をしていた。雪か何か……おそらく頬辺ほほを触れば、いや、触らずとも冷ややかであろうことは確かで、塵ひとつとて舞うこともない息吹に、瞬きすることを忘れて暗澹あんたんとなる。

 巫女が言う。


「凪。……この子の名です」

「なぎ……」

「はい。凪はいま、とても衰弱しているのです。一日のうち、目を覚ましていられるのは日の出からほんの数分間。それも、日に日に間隔は短くなるばかりで……」

「何かの、ご病気……ですか?」

「病気……確かに、そうかもしれません。凪は……」


 男は固唾を拙劣に呑み込んだ。けれどその後に続く言葉はひとつとして聞こえてこない。何よりも随分と淋しそうな声音に、思わず視線を逸らし壁を見仰ぐと、おさ造りの欄間が千本格子に組まれ、この堂屋へやの格式高さを厳にあらわしていた。下げた目線には和紙の原料として使われるこうぞの襖がピタリと閉め切られており、その障子に描かれた幾人かの天女と鬼が、見上げるでも見下げるでもなく、双方互いに呼び唄でもかけているよう鮮やかに映されていた。雲は渦を巻き、帯びる光は絶えず流動している。


「その画が気になりますか?」

「──、」


 我に返り少女を見ると、女児の前額ひたいを撫でていた指先が柔和に止まり、


「もし、その画が動いたと感じたのでしたら、好い兆候だと想います。──光芒こうぼうですか?」


 動いて視えたのは。

 男は目をみはった。なぜ分かったのかという驚きではなく、ただ不思議と、理解してくれるだろうという気でいたからだ。その心情を当てられてしまい、瞠っていた瞳を恥ずかしさのあまり伏せ落とす。そうしてもう一度描かれていた雲間を見ようとしたが、障子のそこにはそもそも画など描かれてはいなかった。


「え、……」

「どうして、というお顔をされていますよ? 視ようとして視るのではなく、意識の中で視るのです。研ぎ澄ますということさえせず研ぎ澄まし、『みる』という感覚を変えて」

「……感覚を?」

「はい。五感のではなく、です」

「?」

「ふふふ」


 笑んだ物音は静かながらに溌剌と見え、男は芯から肩を緩ます。

 それは決して、不穏ではない。むしろ無性な懐かしさに眉間をえぐられている気分だ。不穏とは違う。帰路のようなついだった。






「あの、……」


 程なくして、夜に覆われた。離れの庫裡くりに招かれていた男はそこで、脚式御盆の前に正座し食を眺めて呟く。


「これだけ、ですか……?」

「お気に召されませんでしたか?」

「いや、なんて言うかその、量が……」

「少し多めにしてみました。二種類は増やしてあります」

「は、はぁ……」


 嘆息に深く斟酌しんしゃくし、男はついぞ首を折る。

 豆だ。数種類の豆が、茶碗の底で丸を描くように並べられていた。どう傾けてみても、小さな幾つかのそれのみが空しく底を滑る。一、二、三、四、五……。数えると中には十粒しか入っていない。精進料理どころの騒ぎではなかった。


「初日なので盛大にしてみました」と言う少女の配慮を受け入れられず、男は悄然しょうぜんと器の底を覗き続ける。豆だ。それ以外に何もない。


「もしかして、お嫌いでしたか?」

「あ、いえ……そういう訳では……」

「それでは別の物にいたしますか?」

「え、他の物があるんですか?」

「はい、もちろんです」


 そう言って少女は立ち上がり、豆の入った漆椀おわんを手に取って台所へと戻って行く。古めかしい住居。竹雑木や茅葺かやぶきの匂い、土の匂い。殺風景ではあるが、内は広々としていて隔たりがない。家電の一切もないことを除けば家具は趣に優れており、全体、自然の中に溶け入っているように思われる。外観に連想されるのは竪穴たてあな住居──縄文時代のそれと良く似ていた。


 かたわらの燭台に置かれていた小陶器に、紐糸が樹脂を吸ってその灯りを陽炎のように伝えている。見事な風情だ。心身にさえ聴こえくる、松虫の羽立ての鳴き声が奢侈しゃしを打つ。美しいといって、これほど美しいということもそうはない。


いわんや、人の一生に於いてをや……ですね」


 再び正面に少女が腰を下ろす。対座したその両掌りょうてには先ほどの漆椀が包まれており、男は感傷の耽りから意識を戻した。心酔に捉えていたはずの少女の容姿が、まるで当然であるかのように今は思う。


「とても、綺麗な音色です」

「はい。わたくしもそう感じていたところです」

「いやいや、あなたでしたら当然でしょう」

「いいえ、そのような過大はこの身には似合いません。同じですよ。わたくしも、あなたも」

「そう、でしょうか……」

「はい。ですが時に、慈しみを見出すのは人の慢心であり、人を見出すのが感傷だとわたくしは想うのです」

「人を見出す……」

「はい。なのでその耽りを忘れず、捨てず、どうかお互いに、大事に育てていきましょう」


 ことん。と、御盆へ置かれた代わりの食を男は覗き込む。見た目こそ違えど量に満足するには程遠い。傾け、炒られたように香ばしいものが底でからりと滑り踊る。


「これは……?」そう尋ねると少女は自身の豆に向かって手を合わせ、

「そちらは、南瓜かぼちゃの種子を炒ったものです。少しだけ塩を塗してありますので、熱いうちにお召し上がりください」

「は、はぁ……」


 傷心にぎこちなく、男は黙禱もくとうのなか合掌した。

 燭影に揺れて松虫が鳴く。本当に見事な闇夜だ。





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