六時間は登って来ただろうかというこくである。滔々とうとうと流れ出る極小さな水簾すいれんを横脇に、男は項垂れるように膝を折り、その手水舎てみずやを拝観していた。水は確かに藻を映す緑色のように思えるが、見たこともないほどにいてうつくしい。登り終えたところで尚一層、玄奥げんおう深甚しんじんな謝意が込み上げ、胸に竦める気がかりを腹の奥底へ押し流そうと、手水を拝借して作法に清める。するとクスリ、と少女が自身の口許を押さえつつ白衣の側面──身八みやぐちから手拭布てぬぐいを持ち寄り出した。


すいの氣を込めております。たとえ墨を垂らしても、この水処みずどこは一切に濁りを負いません。おそらくは疲弊に伝うその汗も、して問題なく除かれることでしょう」


 男は差し出された蓮柄のそれに手を包み、


「少し、渋い味がします……」

「ふふふ。ええ、そうでしょうね。この清翠しょうすいは内身を調ととのはらうもの。長く俗世に身を置かれていれば、健全な者であってもけがれを吸ってしまうものですから」

「僕は健全……なのでしょうか」

杞憂きゆうがおありで?」

「あ、い、いえ、その……」


 クスリ、と少女は再び柔和に眉根を沈めると「そうでもなければこのような僻地のやしろを、わざわざお選びにもならないでしょうしね」と思い出したかのように合点して見せる。語調に委ねるばかりでは大人びた様子だが、その表情はやはりどう覗いても幼くか弱い。その繊麗せんれいにさえ極めて稀な立ち居振る舞いに、男の胸中はどくりとりょうされた。次第に肩の力がたゆむ。る手前であるような不快な筋の痛みすら、たちまちのうちにきしみを払い、しなうことを強いてもいとわない。翠の氣。多分にその何かが、おそらくは身体の不調を和らげたのだとうなずくに至った。






 ここへ来るにあたり、男はいくつかの掟事おきてごとを約されていた。そのうちのひとつが【半ばに辞すべからず】である。何事かに際している最中、身体不調の渦中においても例外なく、決して結界内から逃れてはならないという結び。さほど広くもない敷地面積──神域──を有している祠ではあるが、それが故に域から外れることも容易となっており、しかし半ばで断念した者は、少女いわくに「ただつるのみ」であるそうだ。故意はなくとも断りなく踏み入れば、精神への気触かぶれれや、身そのものが杜絶とぜつしてしまう者もあるという。それがどこへなりかは頑として報せるに不義があるのか返答はなく、少しの憩いを敷いている最中、男はぼんやりといずくまるに忍んでいた。


「──けれども、このきざはしをたったの六時間と少しで登り終えるなんて、正直に申し上げまして、驚きました」

「たったの? まるで僕が、早く着いたみたいな言い方ですね」

「ええ、もう少し掛かると想っていました」

「何度も引き返そうとしたのは、事実ですけど……」

「けれど進むことを辞めなかった。お強いお方です」

「でも、僕より早い人なんていくらでも、」

「はい、もちろんそうした方々もおられます。ですが、ことに早く到着されるほとんどは、その感が残念にも鈍ってしまわれている方が大多数なんです。感じ取れる靈性が低ければ視るものも少なくお散歩気分で悠々到着できるでしょうけれど、そういった方々は心靈現象やその他の何かを期待されているのかはなはだいかがわしく、運よく敷居を跨げても門前払いが関の山。ですがこの間いらした大柄な僧侶の方などは、感性にたけておられ、夕立も拝めぬままにそちらへ腰を下ろされていました。半日以上経って、やっとというようなご様子で。ふふ」


 なにを思ってなのか、少女は手水舎の横に設けられた朽ちかけの木製椅子を見つめる。笑みを含んだその語尾が気になった。


 運よく……。つまりは平常であれば、故意ですらも踏み入ることのできない力のようなものが働いているということなのだろうか。男は思念して整理にちょっと黙り込む。読心したかのように少女が言葉を紡いだ。


「その『故意』が不欲であれば是。反面、欲あらば否です。はじめに例外はないと申しましたのは、断りを得て事に際している者に限った話です。前言に否とした者に至る次第は怖いもの見たさか或いは馬鹿。第一が、断りを得なければ山奥にあるこんな小さな祠など、感じ取ることも見ることを出来ないのです。あなたのように導かれたのでしたらその限りではありませんが、巡るというのは得てしてそういうものなのですよ」

「ではあなたがその、門前払いの取捨選択を……?」

「いいえ、わたくしではなく、です。取捨選択などという面倒な気概を、わたくしは持ち合わせてはいません」

「地……。地って、この場所のことですか?」

「はい。土地というものは、聖地・み地に関わらず摂理のもと生きているのです。そうしてわたくしは、ただの巫女にすぎません。また、ここが聖地か忌み地か、ということをはかるのは、他者ではなく個人の心情に基づく定義です」

「……」

「難しいことは説明も複雑ですが、要しますに、人やそれらとの触れ合いと同じということです。捉え方の違いとも言えますね」


 ただ嘔気はきけ眩暈めまいおどされ何度も地に伏し、止まらぬ膏汗あぶらあせと込み上げるえつに悶え、振り返るにも来た道歪んで跡もなく、溷濁こんだくに喘いで這いずるように登って来たことなど男はうに忘れ果てていた。のぼりひと旗も立てられていない深閑とした淵の奥。避けるにくなくと思いつつも、はばかりの隙に見渡せば、幻にも余る奇々怪界なもりの影。木々は逆さに生え、葉は色褪くすみ地に広がる。根は幹から曇天に向かって荒々しく伸び、蠕動ぜんどうしているように思われた。しかし或いはと、こけの地畳みが蛍火のように柔らかい。



 呼ばれていたのだ。幼少の頃よりずっと。十年やそこらの歳月をしたためて、煩悶はんもんを絶って欲しさに訪れたのだ。なんの為に……。



 どくん……どくん……どくん────…………



「この地は鬼の地。あなたにつがう稀代の鬼火を、わたくしの元へとお還しください」



 気付けば男は二之鳥居を潜り抜け、拝殿の奥、本殿のそのまた奥に建てられた堂屋へやに赴き、そこでプツリと途切れて横たえていた。目前には巫女の音なき平歩へいほ叉手さしゅの礼。鼻を撫でたその香りはうやうやしい榊花さかきなどの物悲しさなどではなく、安息とした柑橘の穏やかな香りを漂わせていた。



 少女はかしず富麗ふれいに笑む。紫苑しおんの香りだった。





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