くじゃくのなか

川辺いと/松元かざり

第一章 御贄の器

── 導きの巫女 ──






 ──御神かみ在座ます鳥居に伊禮いれば、

   此身このみより日月ひつきの宮とやすらげくす──




 美しさだけを持ちより、神の座す域に入る。結界で隔てられた門前に佇み、穏やかな心身で巫女ふじょ一揖いちゆうを捧げると、蛙鳴蝉噪あめいせんそうとした一帯を弾くかのように、三本の紙垂しでが男の眼前ではらりとはためいた。


 清廉潔白──純白なその千早衣ちはやを背ごと畳む少女を固視こしすると、緋袴※ひはかまの底から小さな足袋と草履ぞうりが切を以て地に揃われている。背格好からして十やそこらの歳に思われる少女を、心中に写して目を瞑る。

 ならうように揖拝ゆうはいを終えた男が、


「ほ、本日は……お招きくださり大変感謝いたします……」


 緊張を纏わせた声で少女の背に向けそう告げる。結界内に差し入った少女は振り返り、その者に目線を逸らしたまま会釈して見せた。


「お招きしたのはわたくしではありません。それに、泥濘ぬかるみは誰にでもございますよ。たとえ御仏でも御神でも。ですがそのような、乞われようとなさる心情のまま敷居を跨ぐのはやはり好まれませんね。ここは元来救いを求める場ではないということを、どうか御承知おきください」


 淡々と気品さを呈す巫女に頭を下げたのち、男は鳥居を仰ぐ。その額束がくづかには『鬼取毒枯神社』と記されている。


 おに……とり……。


「どっこ。と、お読みします。正式名称としましては、『牛頭鬼爾ノごずきのみの涸疫祓之祠こどくはらいのやしろ』と申します。わずらわしく想われるため、来られた方々からは鬼毒きどく神社と呼ばれていますが」

「鬼の毒、ですか……」

「ええ」


 その彫字を目にし、或いは鈴のような声から聞こえきたその不気味な語調にゴクリと喉が上下した。朱塗りの額束に白く彫られ、聳える鳥居は熾黒しこく色。おぞましいほどの歪な鳥居に潜る頚椎くび筋がヒヤリとなる。まだ昼過ぎだというのに曇り空のせいか辺りにはどんよりとした気の根が張り、頂上が分からぬほど長く急勾配なさざれ石段の参道を見すくめる。わきに群生する杉松のもりも、険しく太く高く、揺らす葉音に暗影をそよがせている。凝らして眺めてみると葉のひとつひとつさえ黒々として見えた。


 びゅるびゅるとすさ虎落笛もがりぶえあとわず、巫女は依然、沽券こけんとうとく静観し、


「参ります。さ、気圧けおされませぬようお足許にご注意ください」

「あ、ああ……はい」


 一段づつ、三つ編みを下げ再び参道を登り始める。男も見惚れながらに意を決して踏み出したが、一歩ごとが地面からグッと掴まれているように重く息苦しい。長年様々な神社を巡って来たが、ここは異様な空気が障りを引き起こしているようだ。






 噂に調べた通りだ。遊び半分で来るにはあまりにも不敵すぎる。そろそろ中間辺りだろうと登った跡を男は覗き込んだが、己の双眼が潰れているのかその焦点は定まらず、黒渦のような濁りが真後ろであまねいているように見えるばかりだった。おそろしくなり、先を行き続ける少女を半端な声で呼び止める。緩やかな一歩。姿勢。常として腹部下辺に添え置かれている両手は背越しで見えないゆえか狂おしく、また、自分がこれほど額から汗を這わせているというのに、その少女からは息継ぎひとつ聞こえてこない。引力に逆らっているかのように、袴の擦れる音さえ耳に遠い。明らかに様子がおかしい。普通じゃない。まさか幽霊ではないかと疑念したが、歩く段に影があるので不都合はなかった。


 彼女の足許から後頭部までをジッと観察していると、たった指一本の一関節分、彼女の周りが何かに透けているように見えた。放つ、と言えばしっくり来るだろうか。燐光体のように時折幽かにもやを忍ばせ、ほんの一瞬だが、視界に揺らぐのだ。かと思えば消え失せて、また、何かを弾くかのように纏いなす。


 ──ツと、少女が立ち止まる。粛然しゅくぜんとして半身返り、


「あまり、ないほうが好いですよ。負荷を掛けてしまいますから」

「え、」

「慣れぬものを慣れぬまま意識すると、返って御身を害されます。目下は深い呼吸のみに集中なさってください。数えながらでしたら尚、落ち着くことでしょうから」

「は……はい……」


 判然と、しないわけではないのだ。けれど、どうも属する世界が違う気がしてならなかった。

 男は言に努めて三度みたびか石段に足を掛け、しばらくは何も考えず空に歩く。曇天の四囲しいは夏に隠れていやに涼しい。背後に見えた渦を忘れようと、瞑るように脳裏を遮断させた。







   ──


    ※ひはかま……

      正しくは『ひばかま / ひのはかま』と表記します。

      意図については次話のコメント欄に説明書きがありますが、

      本作内で記載することはありません。





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