マシュマロ・メルト

「スウちゃん、先週から風邪で寝込んでるらしいんだけど」

「多分私にも三分の一くらい責任あると思いますけど、確証はないので睨むのやめて下さい」

 二月十四日、聖バレンタインデー。

 私は銀の月眼鏡店で、恨みがましい目つきをした店主に絡まれていた。

「だから言ったでしょう、南波。こんな風邪とかインフルとか流行ってる時期に、スウちゃんを人混みになんか連れて行くなって」

「そんなこと言ってたら、澄花ちゃんは電車通学もできないわ。まあ、わざわざ風邪シーズンに人混みに誘ったのは良くなかっただろうけどさ」

 ついでにアイスまで食べさせて、体を冷やしただろうとは言わないでおいた。眼鏡屋の中で、私の罪状が積み上がってしまう。

 私とチョコレート売り場へ行ったその週末、澄花ちゃんは熱を出してしまったらしい。ただの風邪とのことだけど、しばらく学校も休んでいたようだ。

「ただでさえスウちゃん人混み苦手なのに、連れまわしちゃって」

「でも澄花ちゃんだって、行ってみたいって言ったんだもん。自分は買わなかったのにさ」

「え、なに。せっかく買い物行ったのに、スウちゃんはなにも買わなかったの?」

 私だって、誘ったくらいで申し訳なくなったりはしない。三分の一ほどの後ろめたさは、澄花ちゃんが自分の分のチョコレートを買わなかったことにある。


「澄花ちゃんは大掛かりなバレンタインの催事場に、行ったことがなかったらしくて。単純に、なんか楽しそうだから見に行ってみたいと思ったけど、チョコは買わなくて良かったんだってさ」

 だから別に、無理やり連れまわしたわけではないけれど。それでもいい大人の方がはしゃぎ倒したことは、ちょっと反省しているのだ。

「そんなことってある?」

 眼鏡屋は首をかしげる。

 実は澄花ちゃん自身は、バレンタインのチョコレートは手作りにするつもりだったようだ。興味で催事場に付き合ってはくれたけれど、買い物はしなかった。

(でも私がネタバラシするのは、無粋ってもんよね)

 ――澄花ちゃんが眼鏡屋に贈るのは、手作りみたいだよ。

 彼女が眼鏡屋に手作りお菓子を贈るのは、初めてのことではないけれど。私がそれをバラしてしまうのは、さすがに無神経というものだ。

「……スウちゃんが楽しかったっていうなら、良いけどさ。風邪は不可抗力だし」

「そうそう。なんだ、わかってるんじゃないの」

 わかってるくせに突っかかりたくなったのは、それだけ澄花ちゃんを気にかけていたという事だろう。ちょっと心配性すぎる気もするが、微笑ましいものである。


「開き直らないの、南波。君、周りを巻き込んで突っ走るところがあるんだから」

「だから、澄花ちゃんも行きたいって言ったんだって」

 微笑ましい……とは思ったのだけれど。

 なんだかやたら面倒くさいこと言うなこいつ。もはや保護者みたいだ。いや、保護者が子を見守るようだなんて言ったら、却って澄花ちゃんは傷ついてしまうような気がするけれど。

(いや、これは)

「ははあ」

「なに?」

 私の半笑いに、眼鏡屋が警戒感をあらわにする。

「私が澄花ちゃんとデートしたもんだから、面白くないんだな?」

 眼鏡の向こうの瞳が丸くなる。

 以前は冷めた目つきをしていた気がするけれど、ずいぶんと表情が豊かになったものだ。

「いやさ、この前、美味しいものを頂いたから、スウちゃんに声かけたんだけど。ちょっと忙しくて、しばらく店には行けないって言われたから。それなのに南波と出掛ける余裕はあったのかなとか、もしかして君が強引に連れてっちゃったんじゃないかなとか考えて」

「自分はフラれたのに、私とはおデートしたのが寂しかったんだねえ」

「フラ……」

 何気にショックを受けている、かもしれない。

 先日、澄花ちゃんに対してのデリカシーに欠けた発言を思い出して、私はそれ以上の追及を止めた。

「突っ走る癖があるのは否定しないよ。忙しい中付き合わせちゃったんだったら、そりゃ確かに悪かったね」

「なにをそんなに忙しくしていたのかは聞いてないけど、疲れでも溜めちゃったのかなあ」

 それは多分、チョコレートの試作をしていたためだと思われる。

 とは、やっぱり言えないけれど。


「……ん?」

 不意に、眼鏡屋が店の入り口を振り返った。カラスの白夜が、扉の向こうで一声鳴く。

 驚いたように瞬いてから、眼鏡屋はその目元を和ませた。

「こんにちは」

 ゆっくりと入口の扉を開く。

 木目の扉の向こう、学校帰りの澄花ちゃんが遠慮がちに佇んでいた。

「風邪はもう大丈夫?」

「はい。熱も咳もおさまったし、学校も二日前から行ってます」

 澄花ちゃんは分厚いコートの胸元を握りしめる。

「……だから、新淵さんに風邪をうつしたりは、しないと思うので」

「うん。いらっしゃい」

 澄花ちゃんの顔が、安心したように緩んだ。

 澄花ちゃんが脱いだコートやマフラーを、傍らの眼鏡屋が受け取ってポールハンガーへ掛けていった。彼も一応接客業なので、それぐらいは私にもしてくれるけど、妙にかいがいしく見えてしまう。一方で澄花ちゃんは、先ほど和らいだ表情を再度曇らせてしまっていた。

「風邪がうつるかなんて、気にしてないよ。体調、悪くないんでしょう?」

「それは大丈夫、なんですけど。それじゃ、なくて」

「うん?」

「今日はせっかくの、バレンタインデーなので。本当はチョコレートを持ってこようと思ったんですけど。なんにも、用意がなくて」

 防寒具を預けた後の、空になった手。スクールバック以外に紙袋も手提げ鞄もなくて、澄花ちゃんは肩を落とした。

「風邪をひいちゃって、チョコを作るわけにはいかなくて。買いに行く時間も、なかったんです」

「そっか」

 眼鏡屋は落ちた細い肩を、ぽんぽんと叩く。

「気持ちだけで十分。ありがとうね」

 眼鏡屋の声は今日イチ優しくて、澄花ちゃんは噛みしめるように目を伏せて。

 お互いに報われたのなら良かったなと、そんな風に思った。


「寒かったでしょ。あったかいものを飲もう。用意するから、ちょっと待ってて」

 手伝いのためについて行こうとする澄花ちゃんを定位置に座らせて、眼鏡屋はバックヤードへ引っ込んでいった。

「この前は付き合ってくれてありがとね、澄花ちゃん。風邪までひいちゃったみたいで」

「いいえ。風邪は多分、学校でもらっちゃっただけですから。チョコ売り場、楽しかったですし」

 隣り合った澄花ちゃんの顔色はいいし、声も綺麗だ。順調に回復したようで、私は安堵の息を吐く。

「南波さんは、新淵さんにチョコを渡しに来たんですか」

「んー、まあ、澄花ちゃんが来られなさそうだったから、せめてもの罪滅ぼしというか、慰めに? まあ安物だけどね」

 一応、貴重なお仲間へ日頃の感謝を込めて義理チョコを。催事場に並んでいた中でも、比較的気軽で無難な有名店のチョコレートアソートを渡しておいた。感謝もお礼の言葉も返ってきたけれど、一番の喜びは澄花ちゃんからの贈り物にとっておいてくれればいいなんて思った。

(残念ながら、今年は見送りかもしれないけれど)

 

「おまたせー」

 臙脂のカーテンの向こうから、トレイを抱えて眼鏡屋が戻ってくる。白い湯気をたてるマグカップと、心の踊る甘い香り。

「バレンタイン、男から贈ったっていいじゃない?」

 カップの中を満たすミルクチョコレートの色。浮かんだマシュマロがふんわり溶けて、淡雪のようだった。

「って言っておいて、頂き物なんだけどね。ちょっといいココア。ホットチョコレートなんだからアリかなって」

 言いながら眼鏡屋は、澄花ちゃんの前にココアを置く。

「ハッピーバレンタイン、スウちゃん」

「ありがとう、ございます」

 澄花ちゃんの顔が、マシュマロみたいにとろける。

(そりゃあ、可愛いわ)

 そりゃあ心配もするし、妬くし、手放したくなくなりますわ。

 どこまで自覚があるか、知らないけれど。


「……帰るわ」

「えっ、なんで。せっかくココア淹れたのに」

 ココアに口もつけずに立ち上がった私を、眼鏡屋が引き止める。

「わたくし、そこまで野暮じゃありませんことよ。二人でおかわり分、冷えたらあっため直して、分け合いなさいな」

「あの、せめて飲んでいってからでも……」

 おろおろと見上げてくる澄花ちゃんは、本当に可愛いなあと思う。

 永い孤独にやられているのは、なにも眼鏡屋だけでなく。私だってこの得難い友人のことは好きだ。

 だからこそ、幸せであってほしい。

「私にはホワイトデーに豪勢なお返し、期待しとくわ」

 じゃあねと手を振って、眼鏡屋に手伝わせる暇もなく身支度をして店を出る。

 銀文字の店名が書かれた大窓の向こうに、向かい合ってココアを飲む二人の穏やかな笑顔が見えた。

(愛の告白にチョコレートを、なんて言ったけど)

 バレンタインデーの在り様も変われば、人の在り方も関係も変わっていく。

 愛情の確認なんて、あの二人には今更かもしれない。








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