後編
山の竜とフローレンスが、その生活に徐々に慣れている間。
はじめは穏やかだった山の周辺も、徐々に騒がしさを増していました。
フローレンスは姿かたちだけでなく気質も美しかったので、とても愛されていたお姫様でしたから、取り戻そうと動く人間がたくさんいたのです。
フローレンスの国だけではなく他国の者も合わさり、多くの騎士や軍隊が山の竜の住処を目指していました。
それでも、山の竜の住処は岩山の連なる特別な場所。
霊峰と呼ばれるほどの険しく荘厳な山頂にあるのです。
もとより人がたどり着けるわけもなく、そもそも霊峰と呼ばれる山に辿り着く前の森や山のあたりで、頑強な獣や魔物に襲われ食べられてしまうのでした。
たくさんの人が傷つき血が流れ、怪我をするだけでなくバタバタと死んでいることを、フローレンスはおしゃべりな風の妖精から知りました。
山の竜と妖精たちは仲良しなので、世界中の色々な話を聞かせてくれるのです。
山の竜の押しかけ花嫁としてフローレンスがやってきたのは、フローレンスを理由にした争いを終わらせたいからでもありました。
それなのに、これでは本末転倒です。
山の竜に戦いを挑むような愚かな真似をされるのも嫌ですが、フローレンスが存在するだけで無用な血が流れるのももうこりごりなのです。
暗い顔で沈みこんでも美しいフローレンスの横顔に、ふむ、と少し考えこんだ山の竜は良い事を思いつきました。
「我が妻よ、新婚旅行と洒落こもうではないか」
少しだけ息を飲んで、フローレンスは目を見開きました。
山の竜はいつも「人間」「人間」と呼ぶばかりで、初めて「我が妻」と認めてくれたからです。
それに、新婚旅行という言葉にも、心が躍ります。
山の竜は大きな翼を広げ、大きな手のひらで大事に抱え、フローレンスの姿を霊峰に向かっている騎士たちにしっかりと見せつけると、悠々と天高く舞い上がります。
竜が飛び去る姿を追いかける人々の声や馬のいななきはすぐに遠のき、あっという間に聞こえなくなりました。
空高く、天に届くほど高く、蒼く澄んだ空の上から見下ろす地上は、とても美しいものでした。
豊かな森も、風にそよぐ草原も、城壁に囲まれた街並みも模型のような小ささで、眼下に広がっていました。
「妻よ。一望できぬほど広い、我の縄張りをすべて見せてやろう」
こうして、山の竜とフローレンスは旅立ちました。
巨大な山の竜が「一望できぬ」と断言するほど、本当に広い広い世界でした。
広い世界の中には、フローレンスの知っている「当たり前」の森や草原や川もありましたが、フローレンスの見たことのない森や草原や川もありました。
虹色の水の流れる河もありました。
七色の花が咲く野原もありました。
満月の夜にだけ現れる不思議な湖もありました。
巨大な山の竜よりも、大きな樹木が連なる聖なる山もありました。
山の竜にとってはそこにあるのが当たり前のものでしたが、フローレンスにとっては想像もできないほど美しく荘厳な風景の連続でした。
同じ場所でも、季節が移ろえば違う景色が見える事を、山の竜は知っていたので、フローレンスに自分の知っている美しいものを片っ端から見せてやりました。
妻と認めたフローレンスが終始キラキラと瞳を輝かせ「素敵だわ!」と華やいだ笑みを見せるので、山の竜も同じ風景を見て満ち足りた気持ちになりました。
退屈であくびが出そうなほど見慣れていた景色ばかりなのに、清々しいほどに美しいと思うのが不思議でした。
山の竜はひととおり自分の縄張りを見せ、ついでとばかりに空や海の竜にも「我が妻」を紹介し、フローレンスに衣服や食事を献上してくれる妖精界にも足を延ばしました。
山の竜の縄張りはとても広い世界でしたが、それでも旅の終わりはくるのです。
霊峰と呼ばれる山の頂にある、山の竜の巣穴に帰り着きました。
「どうだ、妻よ。我が縄張りは、なかなかのものであろう」
「ええ、ええ。旦那様の治める世界の美しい事と言ったら! とても素敵な新婚旅行でしたわ」
誇らしげに胸をそらす山の竜に、フローレンスはクスクスと鈴が転がるように笑いだしました。
なかなかのものどころか、とんでもなく広い世界だったので、巣穴に帰り着くまでに数十年かかっています。
わたくしもすっかりおばあちゃまね、と思いながらも、フローレンスは優しい眼差しで山の竜を見つめるのでした。
それからの生活は山の竜の住処の中で、とても穏やかで優しいものでした。
寝て起きて食べて、山の竜と穏やかに語らい、眠れぬ夜には子守唄を歌い、長く驚きに満ちていた新婚旅行の思い出を振り返り、共に笑う。
時に甘えるように鼻面を寄せてくる山の竜の、いかめしい顔を小さな手で撫でてやりながら、フローレンスは「幸せだわ」とつぶやくのでした。
別れの日は、ふわふわとまどろむような、あたたかな光が巣穴に差し込む日でした。
動くこともままならなくなった頃、フローレンスは山の竜に言いました。
「旦那さま。わたくし、永遠にさようならを言わねばなりません」
しわがれた声に、山の竜は動揺しました。
人間の寿命はあっという間に過ぎて消える、流れ星よりも儚いものだと知っていましたし、フローレンスの姿が徐々に歳を重ねていくことにも気が付いていました。
それでも、と思うのです。
「まだ、新婚旅行を終えたばかりではないか。この世界には、まだ見せていない美しいものがあるというのに」
すねたような物言いに、フローレンスは鈴が転がるようにコロコロと笑いました。
すっかり老いてしまい、光を放っていた金髪は白く色褪せくすんでいたし、やわらかな肌も乾いてしわがれ、のびやかだった手足も枯れ木のようになっていました。
ただの人間であるフローレンスにとっては、新婚旅行だけでもとても長い時間でした。
人間にしては、長く生きすぎたと思うぐらい、長く生きたのです。
これが最後だとわかっていましたから、かすむ眼差しで愛しい夫を見つめました。
「この世界すべての中で、私の旦那様はいっとう美しいわ」
そうして、眠るように目を閉じました。
そのまま眠り続け、朝が来ても目覚める事がなく、山の竜の妻だったフローレンスはひっそりと息を引き取ったのです。
山の竜は小さな亡骸を前に、しばらく動けませんでした。
フローレンスは押しかけ花嫁で、望んで娶った妻ではありません。
けれど、確かに山の竜の花嫁で、かけがえのない妻だったのです。
湧き上がってくる感情がぐちゃぐちゃで、しばらくの間、山の竜は茫然としていました。
明るかった日差しが地平に消え、満天の星がきらめく頃に、ようやく動き出しました。
山の竜は巣穴の入り口近く。フローレンスが気に入って腰かけていたあたりの地面を、ガリガリと鋭い爪で掘りました。
亡くなっても愛しい妻ですから、腕に抱いていついつまでも離したくない思いはありましたが、美しいものが好きだった妻が腐敗する自身を良しとする訳がありません。
山の竜は人が人を弔う方法も知っていましたから、そのやり方を習うつもりでした。
それでも。
それでも口惜しいと、山の竜は思いました。
ずっとずっとフローレンスは山の竜のものだったのに、亡骸とはいえ大地のものにするのは、とても口惜しかったのです。
山の竜が竜ではなく、森の獣であったならば。
愛しい妻を血肉を喰らい、小さな骨の欠片ひとつも残さずに、余さず食べてしまえたのに。
そうすれば妻がそのまま、山の竜の血となり肉となり骨となり、山の竜の身体は妻を丸ごと取り込めたはずなのです。
この身が滅びてしまうまで供に寄り添える幸せは、想像するだけで甘美な誘惑でした。
それでも山の竜は、肉を喰らう生き物ではありませんでした。
小さな小さな亡骸がすっぽり入る程度の穴など、山の竜にかかればあっという間に掘れてしまいます。
小さな穴に、小さな妻の亡骸をそっと横たえ、土をかけて埋めました。
山の竜の住まう霊峰は岩山ですが、種を植えれば簡単に花も咲くでしょう。
すっかり見えなくなった愛しい姿に、とうとう耐え切れなくなった山の竜は深く慟哭するのでした。
それから、幾千の昼や夜が過ぎました。
山の竜の暮らしは、押しかけ花嫁がやってくる前と変わりません。
寝て起きて自分の縄張りを見て回ること以外にすることがないので、たまに小さき者たちの懇願に付き合うのもお馴染みのままです。
けれど退屈だと思うことはありませんでした。
目を閉じてまどろめば、瞼の裏に美しく愛しいフローレンスとの思い出が、色鮮やかに浮かぶのです。
「この世界すべての中で、我が妻は他の何よりも美しかった」
フローレンスはいつだって、山の竜のことを「世界でいっとう美しい」と言いましたが、山の竜にとって「世界でいっとう美しい」のはフローレンスでした。
過去も、未来も、きっとフローレンスほど心惹かれる存在は現れないに違いません。
愛しい妻は大地に返りましたが、色鮮やかなあふれる花の姿で、いついつまでも山の竜の傍らに寄り添っていることでしょう。
山の竜の巣穴の入り口では今日も美しい花々が、色鮮やかに風に揺らめいているのでした。
【 おわり 】
山の竜と押しかけ花嫁 真朱マロ @masyu-maro
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