山の竜と押しかけ花嫁
真朱マロ
前編
人には人の王がいるように、山や海や空にもそれぞれを統べる竜が居ました。
竜からしてみれば、王のように君臨するつもりも支配する気もありませんでしたが、竜は悠久ともいえる長い時を生きるうえに、力も強く神秘の力を持っているので、いつの間にか統べる者として認識されていたのです。
生物として突出した存在であるがゆえに、小さな他種族から頼られることが多く、些細なことから少し手のかかる事まで願われました。
そのたびに竜たちは、こまごましたその願いを良く聞きとり、知恵を授けたり力を貸したりと助力を惜しみません。
なにせ、悠久に近い時を生きるのです。
寝て起きて自分の縄張りを見て回ること以外にすることがないので、自分に関わりのない願いに付き合ってでもいなければ、退屈で退屈で仕方ないのです。
だからと言ってなんにでも関わるのは愚か者のすることなので、たまに小さき者たちの懇願に付き合う以外は、のんべんだらりと息をするか寝るぐらいしかすることのない毎日を送っていました。
それでも、時に思わぬことが起こります。
身じろぎすることも控えて大きな体をできるだけ小さく丸めながら、山の竜は困惑したまま、目の前で岩に座ってくつろいでいる人間を見ました。
今も猛々しい竜の前にいるのに鼻歌交じりで、機嫌よく自分の長い髪を梳かしています。まるで舞踏会にでも行くような空色のドレスを纏い、竜しか見る者はいないのに小奇麗に身だしなみを整えている最中でした。
初めて会った時からふてぶてしいまでに動じない人間でしたが、人間はたいそう見目麗しい乙女の姿をしています。
ある日突然。
大きな荷物と一緒に、険しい霊峰の入り口に置き去りにされた娘です。
大勢の騎士たちと一緒に岩山に登ってきて、霊峰の手前で一人ポツンと取り残されるものだから、これは捨てられた人間かと心配して舞い降りた竜の心情をまるで無視して、意気揚々と名乗りを上げた変わった娘でした。
「はじめまして、旦那さま。わたくしの名はフローレンス。あなたの花嫁として参りました」
どこまでが真実かはわかりませんが、王国の末姫だと自己紹介をしながら優雅にカーテシーを披露するので、さすがの竜も言葉を失いました。
花嫁というのもよくわかりませんが、山の竜の住処である岩山は人間が暮らすには適さない場所です。
邪険ともいえる雑な仕草で「帰れ帰れ」と追い払おうとしましたが、変わったお姫様は図太いのでコロコロと鈴が転がるように笑うばかりでした。
「嬉しいわ、まともにお話が出来そう。わたくしと目が合うと、人間は皆、魂が抜けたように腑抜けるばかりなのですもの」
邪険にされても嬉しそうな顔をするので、山の竜は困ってしまいました。
言葉ぐらいは雑にくり出せますが、小さくかよわい人間の娘など、竜の身動き一つでプチッと潰れてしまうこと間違いなしです。
それに「わたくしに帰る場所はありません」と涙で潤んだ瞳に嘘の光はなく、無理やり追い払えば野垂れ死にしてしまうでしょう。
竜の縄張りの中はもとより、縄張り以外のどこか遠くに捨てるわけにもいかず。かといって娘の故郷の王国まで運べば大きな騒ぎになる事も目に見えるようで、押しかけ花嫁を受け入れるしかありませんでした。
とりあえず山の竜は、自分の巣穴にフローレンスを運びました。
ゴツゴツした岩山が連なる中でも、特に見晴らしの良い山頂付近にある大きな巣穴です。
竜が自分で集めたやわらかな植物だけではなく、山の竜を頼ってきた諸々が御礼にと持ってきた鳥の羽や毛皮などの肌触りの良いものが敷き詰めてありました。
魔法でたびたび浄化しながら一番心地よい状態で保持してある、清潔でやわらかな巣穴はフローレンスも気に入ったようでした。
フローレンスは巣穴の片隅に自分の荷を広げ、悠々自適に過ごし始めました。
竜が寝転んでもプチッとつぶれない片隅に、勝手に荷物を広げ、毛皮や羽毛で寝床を作り、岩の段差や溝を棚代わりにして持ち込んだ小物や本を並べます。
そして新たに棚が欲しくなると「旦那様、此方にいらして」と呼びつけ鋭い爪で岩を削らせて、クローゼットらしきものまで作らせて、終始ご満悦でした。
何が楽しいのか機嫌よくずっと笑顔のフローレンスに、いいように使われる山の竜は「とんでもない花嫁が来たものだ」と、ひとつため息を落とすのでした。
竜の巣穴で暮らすようになっても、フローレンスは美しいお姫さまでした。
侍女の手伝いはなくても前開きのドレスを纏い、髪を自分で結い上げ、宝石で耳や首を飾ります。
身だしなみを整え、朝や昼や夜といった時間にそぐう行動をしながら、本を読んだり巣穴の中に転がっている諸々のお礼の品々をあさったりと、毎日が楽しそうでした。
フローレンスは際立って美しい乙女であるうえに、仕草の一つ一つに品格を感じるので、王国の姫だと名乗ったのもあながち嘘ではないのでしょう。
長い金の髪は光りを放ち、宝石の輝く青い瞳も鮮やかで、赤く艶のある唇は果実に似て、甘いミルクのように白い肌からは甘い香りがしました。
美醜に興味のない山の竜の目にも妖精族に並び劣らぬどころか、遥かに麗しい美貌に見えています。
だからこそ山の竜の元に、押しかけ花嫁としてやってきたのが不思議でした。
長い時間、数多の人間たちを見てきましたが、フローレンスならば人間の世界で愛を得て幸福になれるはずなのです。
不思議だと考えてしまうと、尋ねたくなるのは竜も人間も変わりません。
ましてや竜は退屈なのです。
なぜ、こんなところに来たのかと、フローレンスに理由を尋ねました。
「そうですね……そう。他人の正気を奪うほどの美しさは『罪』だと、わたくしは思うのです」
つま先に引っ掛けたハイヒールをプラプラと揺らしながら、フローレンスはつまらなそうな表情になり、ため息を落としました。
そうしてしばらく黙り込んでしまったフローレンスの様子を見ているうちに、山の竜も落ち着かない気持ちになりました。
今にも泣きだしそうな表情に気付いても、大きな山の竜の身体ではプチッと押しつぶしてしまうので慰めることすらできません。
そのうちフローレンスは、ポイッとハイヒールを投げ捨てて、面白くない話ですが、と前置きして語り始めました。
際立つ美貌は生まれつきで、幼児期から何度も攫われそうになったこと。
性別や年齢に関係なく魅入られるようで、フローレンスの世話役を巡って争いが起こるのは日常であったこと。
王城の中に居るのは選りすぐりの者ばかりなのに、フローレンスが関わると途端に腑抜けてしまうので、使用人たちに無用の無礼を起こさせないためにも、庭園を歩くどころか食事すらまともにできなかったこと。
年頃になってからは、フローレンスの伴侶の座を巡って申し込みが殺到し、国内だけではなく他国も交えての争いに発展しそうだったこと。
そして、なによりフローレンスを傷つけたのは、ただただ甘く都合の良い言葉が集まることでした。
正しく学びたくとも、黒色を白だと目に見えた偽りを述べても、是の答えしか返ってこないのが、たまらなく苦しくて悲しかったのです。
「誰も、わたくしを叱ってくれないのよ。お父様やお母さまでさえ、わたくしを導けないの。そんなの、ちっとも美しくないでしょう?」
不服の表情で寂し気につぶやき、山の竜の視線に気が付いてフローレンスはニコリと微笑みました。
「ねぇ、旦那さま。旦那様の目に、今のわたくしは、ほんのちょっぴりでも美しく見えますか?」
自分自身が美しいと思うものを正しく見定め、それを追求し深く学び身に着けることは並大抵の苦労ではありませんでした。
どれほど行儀の悪い事をしても、褒められるのです。
知性の欠片もない我儘を覚え、粗野でガサツな行動をとる傍若無人な人物に育っても、誰も咎めない悪魔の住処のように堕落に誘う環境でした。
だから今のフローレンスが持っている、匂い立つような艶やかな微笑みも、品格も優雅さも知識も、涙ぐましい努力の末に得たものなのです。
人間の価値観などまったく知らない竜でさえ、一瞬見惚れるような美しい微笑みを浮かべた後で、フローレンスはパフンと毛皮の寝床に飛び込むと夢みるように遠くを見つめました。
「過ぎた美しさは罪ですけれど、わたくし、それでも美しいものが好きなのです」
フローレンスが暮らしていた王国の城は、山の竜の縄張りの中にありました。
すでに人間の中で暮らすことに辟易していたフローレンスは、ある日、空を翔ける山の竜を目にしたのです。
空を写す白金の鱗に、炎のような赤い瞳。
悠々と翼を広げて、空を征く巨大な体躯。
まるで、舞い降りた神が具現したようなその雄姿。
一目惚れだったのです。
翼ある凶悪な姿の爬虫類だと伝え聞いていたのに、フローレンスの目に映った山の竜の雄姿はただただ美しいものでした。
それからは、寝ても覚めても山の竜のことばかり考えてしまいます。
フローレンスは『自分の運命』だと閃いた直感を疑いませんが、ちゃんと裏付けを取る慎重さも持ち合わせていました。
山の竜についての記述を集め、各地に人をやって調べてみれば、噂のような凶悪さも悪辣さもなく、人間など歯牙にもかけない孤高の存在でした。
人間の中で暮らすことに辟易していたので、流れる星のように美しく過ぎた竜の姿に、フローレンスは押しかけ花嫁になる事を決めたのです。
決めてしまえば、秘密を守れる協力者を探すだけです。
自分の美貌を遺憾なく利用して涙ながらに泣いて縋れば、密やかにフローレンスを霊峰まで運ぶための騎士や暗部の一部など簡単に集まりました。
ひっそりと城を抜け出したフローレンスを山のふもとまで送り届けた者たちは、感謝の口づけを一つ頬に贈ってやると「すべて姫様の願い通りに」男泣きに泣きながら来た道を帰っていったのです。
そんなこんなを思い出しながら、フローレンスはうっとりと山の竜を見つめました。
「旦那様。これまでわたくしが見た中で、貴方はいっとう美しい」
見上げるような巨躯や、鋭い爪。
大きく雄大な翼に、鋼よりも硬く美しい白銀の鱗。
恐ろしく畏怖すべき存在であればあるほど美しいものだと、そんな風に言ったのは誰であったかのか覚えていませんが、言葉だけは記憶に強く残っています。
その言葉を初めて聞いたとき「怖いものが美しいの?」と首をかしげたフローレンスも、山の竜を見れば納得するしかありませんでした。
あの頃は幼くて、本当に何もわからない子供だった事と思い出しながら、フローレンスは山の竜を見つめました。
硬い鱗に覆われた巨大な身体も素晴らしいものですが、鋭い牙を持つ獰猛な姿であっても、思慮深く謙虚で憐れみ深い性質が眼差しからあふれているので、山の竜へと伝えたい感情はたった一つだけなのです。
「愛しているわ、わたくしの旦那様」
山の竜はつらつらと語られる言葉を静かに聞いていましたが、人間のことなど小さくて弱い生き物だという事しか知らないので、フローレンスが何を言いたいのかちっともわかりません。
愛だ恋だと人間が騒いでいるのを見たこともありますが、フローレンスから向けられる愛は、どうやら種類が違う気がして、わかったふりをする気にもなりませんでした。
ただ、山の竜がわからない事をフローレンスも知っていて、それで良しとしていることは感じていましたので、それでいいか、とも思ったのです。
山の竜がそう納得したことをフローレンスも感じたのか、ふふふと笑って「本物の夫婦みたいですね」と頬を染めるので、ちょっぴりくすぐったい気持ちになるのでした。
竜と人間の生活は、異文化交流のようにかみ合わない事も多く、一つ一つが驚きの連続でした。
驚きと違う事ばかりでしたが、穏やかに視線を合わせて笑いあう、慈しみに満ちた時間でもありました。
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