#3


 あれから一週間が経ち、インターン初日の朝を迎えた。

 人工太陽の光がカーテン越しに差し込み、部屋の空気をぼんやりと温めている。ダイニングテーブルでは、ルナと母が向かい合いながら朝食をとっていた。


 こんな時でも母の過保護ぶりは変わらない。目の前に並ぶのは、栄養バランスを考えた「脳に良い」とされる料理ばかり。野菜がたっぷり入ったスープに、ナッツ入りの雑穀パン。ルナはスプーンを持ったまま、苦々しげに皿の端に寄せられた青菜を睨んでいた。


 少しでも野菜の少ない部分を狙いながら渋々口に運ぶが、すぐに母の鋭い声が飛んでくる。


「ほら、また好き嫌いしてる……。ちゃんと野菜も食べなきゃダメよ」


「えー、パパだって野菜嫌いだったし、いいじゃん」


 ルナは口を尖らせ、ぶーぶーと不満を漏らした。


「パパはパパ、ルナはルナ。変な影響、受けちゃダメです」


 母は呆れたように首を横に振る。


 ルナはため息をつきながら、スプーンを置いた。そして、ふと目を伏せたまま母に問いかける。


「……ねえ、パパならインターンのこと、どう思ったかな? パパは、ボクがヒーローになりたいって言ってた頃しか知らないでしょ」


 母の手が、一瞬だけ止まった。


 静かな間が流れた後、彼女はゆっくりと箪笥の上に置かれた遺影に視線を向ける。その横顔は、どこか寂しげだった。


「心配しなくていいわ」


 やがて、母は穏やかな声で言う。


「パパは、きっと今のルナを見て安心してると思う。自分と同じ、間違った道を歩まなくてよかったって」


 ルナの胸が、じくりと痛んだ。


「……やっぱり、パパのやろうとしてたことって、間違い?」


 そう呟いた瞬間、幼い頃の記憶が鮮明に蘇る。


『偽善だっていいじゃないか!』


 駅前のショッピングセンターに、シャイニングラブの決め台詞が響き、観客の声援が飛び交っていた。


 それは、月に一度のヒーローショーだった。ステージの上でポーズを決めるシャイニングラブを、ルナは父の肩車の上で夢中になって見つめていた。彼女の小さな目は、憧れに満ちておりキラキラしていた。


『ルナは、本当にヒーローが好きなんだな』


 肩車の下から聞こえる父の声は、今も鮮明に耳に残っている。


『うん! シャイニングラブ、大好き!』


『……パパよりも?』


『もう、いじわる〜! パパも大好きだってば!』


 父が笑う。その笑顔は、どこまでも優しかった。


『そうか。じゃあ、パパはもっとルナに好きになってもらえるように、シャイニングラブみたいなカッコいいヒーローを目指すよ。そしたら、ルナがピンチの時は絶対に助けに行くからな。約束だ』


『うん!』


 あの時は、何の疑いもなく、その約束を信じていた。


 けれど――

 一年後、父は亡くなった。


 その約束は、果たされることはなかった。


 箸を握る手に、わずかに力がこもる。

 父のやろうとしたことは、立派だった。でも、火の中に飛び込む前に、自分たち家族のことを思い出してほしかった。

 彼はヒーローになろうとした。でも、ヒーローである前に、一人の父親であってほしかった。

 後先を考えない行動をしたこと、それだけは、許せなかった。


 それでも愛していた。今でも大好きだ。だけどそれと同時に、やっぱり怒りが拭えなかった。


「それは違うわ、ルナ」


 母の強い声に、ルナははっと我に返る。


 顔を上げると、母はじっとこちらを見つめていた。その瞳には、怒りとも悲しみともつかない、複雑な感情が滲んでいる。


「パパは、ヒーロー役の役者になりたいと言っていた。でも、それに囚われて、そんな力もないのに子供を助けようとして死んだのよ」


 声がかすかに震えていた。


「他人を助けるより、まず家族を守ることが大事なのにね……」


 今にも泣きそうな母の声が、彼女の無念さを物語っていた。

 ルナは何も言えなかった。ただ、セーラー服のスカートの裾をぎゅっと握りしめる。


「あの人を失った時……もし、ルナがいなかったら……」


 母はふっと視線を落とし、かすれた声で続ける。


「私には、何も支えがなかった」


 静寂が降りた。

 母はそれ以上言葉を継がず、そっと湯呑みを手に取る。冷めかけたお茶を一口飲み、深く息を吐いた。


「パパはね、やりたいことをやって、結果的に私たちに迷惑をかけたの。だから、大切な娘には、同じ道を辿ってほしくないはずよ」


 決めつけるような言い方だった。怒りと哀しみと心配と、いろんな感情がごちゃ混ぜになっている。


「ルナ、これだけは覚えておいて」


 母はルナの綺麗な髪をそっと撫でた。


「地道に、普通の日常を生きることのほうが、よっぽど大切なのよ。決して、無茶をしちゃダメ」


 その瞳には、切実な願いが宿っていた。

 ルナはしばらく黙ったまま、母の目を見つめていた。そして、ゆっくりと頷く。


「……うん」


 母は少し目を伏せ、その手を離した。


「……ルナ」


 名前を呼ぶ声は、どこか脆く、儚げだった。


「お願いだから、あなたは正しい道を歩んでね」


「……分かってるよ」


 ルナは短く返すが、心の中で『正しい道って何?』と小さく反発した。

 そしてそのまま、スマホの時計をちらりと見て立ち上がった。


「そろそろ時間だから、行くね」


 母は何か言いたげだったが、それを飲み込み、小さく頷いた。


 ルナは鞄を肩にかけ、リビングの扉に手をかける。心の奥がざわつくのを感じながらも、それを振り払うように扉を開いた。


「結局野菜残してる……」


 母はわずかに肩を落とし、ルナの背中を見送った。残された野菜が、まるで自分の届かない想いみたいにそこにあった。



 ルナは額に手をかざし、見上げた。

 未来都市の中心にそびえ立つイフ・タワー。ナノテクによって構築されたその塔は、昼間でも輝きを放ち、眩しすぎて目を細めるほどだった。近未来の象徴ともいえる光景に、胸の奥がざわつく。期待と不安が入り混じり、吐き出せないまま喉の奥に滞留していた。


 受付で顔認証を済ませ、IDを受け取る。エレベーターで上層へと運ばれる間、心臓が次第に速く打ち始めた。扉が開くと、ラボの内部が目の前に広がる。

 金属製のテーブルには、最新鋭のタブレットやメカの組み立てツールが並ぶ。壁面のネオンは赤、黄色、緑、青と、一定間隔で色を変えながら無機質な光を放っていた。天井付近では、ドローンが小さな羽音を響せ資材を運んでいる。


 ルナは支給された白衣をセーラー服の上にぎこちなく羽織る。すでに集まっていた四人のインターン生たちは、まるでここが自分の家みたいに談笑していた。一人がタブレットで何かを熱心に説明し、別の子が頷きながらメモを取る。別のテーブルでは、白衣の袖をまくり上げた子が器具をいじり、「これ、最新型だろ」と呟くのが聞こえた。みんな落ち着いていて、賢そうで、ルナとは全然違う。自分だけが浮いてる気がして、ルナは白衣の裾を握り潰した。

 普段なら、気後れすることなく自分から話しかけるのに、今日はなぜか声が出ない。ただ、インターンが始まるのを待つしかなかった。


 ほどなくして、壇上に一人の男が現れた。金髪に白衣をまとい、整った顔立ちに鋭い眼差し。まだ三十歳になるかならないか、くらいの若い男性だ。彼の姿が目に入った瞬間、ラボ内がざわめいた。


「……沖永さんだ」


「初めて本物を見たけど、やっぱりかっこいい!」


 ルナもよくニュースで目にする顔だった。イフ社のメカニック主任沖永レイ、天才と称される研究者でありながら、その気さくな性格でも知られている人物だ。


 全員が着席したのを、確認すると沖永はみんなを見渡しながら自己紹介を始めた。


「初めまして。俺は沖永レイ。イフ社のメカニック主任だ」


 軽快な口調で切り出すと、場の空気が一気に和らいだ。


「イフ・インターナショナルのラボへようこそ! 今年のメンバーは面構えが違うな。会えて嬉しいぜ!」


 ハンサムなだけではない。その場を一瞬で掌握するカリスマ性に、ルナの緊張も少しだけほぐれた。


「さて、さっそくだが今回のインターンの課題を発表しよう」


 沖永の声に、場が引き締まる。


「もしも三英町で災害が発生した場合、我が社のナノテク『トワライト』を活用し、最適な防衛プランを考え、実際に設計してもらう。これはイフ社の社長である糸杉さんからの直々の課題だから心してかかるように」


 一瞬の静寂の後、インターン生たちはすぐに活気づいた。各々、浮かんだアイデアを言い合い、思考を巡らせていく。


「まずは、君たちのプランを聞かせてくれ」


 沖永が促すと、他の生徒たちが次々と発言を始めた。


「番犬型ロボットで犯罪や災害時のパトロールを強化するべきです」


「ワープゲートを設置し、避難経路を確保するのが最優先では?」


 どれも現実的かつ先進的なアイデアだった。ルナは母の期待を裏切らないためにも、何か目を引く提案をしなければと焦る。


「次は君だ」


 沖永が優しく目を向ける。ルナは息をのみ、元気よくいった。それはどうしても押し殺せなかったヒーローへの思いが滲み出ていた。


「ボクは、ナノテクのヒーロースーツを提案します! アプリで起動して、着脱も簡単! これってすごくないですか!? これさえあれば、誰でもヒーローになれちゃうんですよ!!」


 言い終えた瞬間、誇らしさが胸を満たす。絶対にいいアイデアのはず。評価されるはず――そう思った。


 だが、空気が変わった。一瞬の静寂。


(え? なんか空気おかしくない……?)


 これにはルナも戸惑いを隠せない。やがて、壇上の研究者の一人が鼻で笑う。


「自分で戦う? 今はAIの時代だぞ。そんな時代遅れの発想、どこから出てきたんだ?」


 続けて、インターン生たちも反応する。


「おいおい、誰だよ? ここに幼稚園児連れてきたの?」


「ヒーローねぇ……かわいいアイデアじゃない?」


 嘲笑と、微かな擁護の声が混ざる。

 ルナは顔が熱くなった。


(ちょ、ちょっと待ってよ! なんで笑うの!? 絶対いいアイデアじゃん!)


 これは――あの時と同じだ。

 小学生の頃、「ヒーローになりたい」と言った自分を、誰もが笑った。夢物語だと、子供の戯言だと、馬鹿にした。


 頭では分かっている。今は現実の世界で、最先端の技術を競う場だ。

​​​​ 自分は子供っぽいのかもしれない。でも、それを捨てたら、ヒーローへの憧れを捨てきれない気持ちや父との繋がりまで断ち切れそうで怖かった。​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​


「みんな見る目がないなぁ」


 沈黙を破るように、腕組みをしていた沖永が口を開く。


「時には、こういう純粋なアイデアが科学の進歩に繋がることもあるんじゃないか? 俺はルナのアイディア面白いと思ったよ」


 その言葉に、一瞬だけ空気が和らぐ。

 そのおかげもあり、ほんの一瞬だけルナの胸が軽くなった気がした。でも、すぐに笑い声が頭を支配して、足が震えるのを止められなかった。


「へへっ! じょ、冗談! 冗談だってば! ちょっとふざけてみただけ!」


 無理に笑顔を作るが、喉が詰まり、声が上ずる。

 研究者から「代案を出せ」と促されても、頭が真っ白になって何も浮かばなかった。周囲では、他のインターン生たちが次々と設計図を広げ、話し合いを進めている。


(うぅ……めっちゃ恥ずかしい……もう消えたい……)


 ルナは、ラボの隅で拳を握りしめ、白衣の袖で目を擦った。時計の針が、やけに遅く感じる。心の中のシャイニングラブの笑顔が、遠く霞んで見えた。

 こうして、ルナのインターン初日は、静かに幕を閉じようとしていた。まさかこの日が彼女の人生をもっとも大きく変える日になろうとは誰も知るよしもなかった。



つづく

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