第4話 殺し屋
鼠顔の男が突然座卓に突っ伏してしまったことに狼狽していた俺に、向かいに座っていた父が落ち着いた声を掛けて来た。
「おまえは何も心配せんでええ」
父は何を言っているのだろう。
息子が人を殺したと聞かされた上に金をゆすり取られ、さらにその脅迫していた奴がこんなところで意識を失っている。
どう考えても落ち着き払っていられる状況ではない。
「さて……」
腰を上げたのは母だった。
母は座卓の端に綺麗に畳んであった布巾を手に、濡れてしまった畳を丁寧に拭いた。
そして、そのままテーブルの上を片付けていく。
母がテーブルを片付け終えると、今度は父がずっと痛めている腰に手を当てながら席を立った。
「よっこらせっと……」
父はそのまま座卓を回り込んで、突っ伏したままの男の頸動脈に皴だらけの指を当てたあと、ジャケットを探り、金の入っている封筒を取り出した。
「高志、ちょっと手伝ってくれ」
理解の追い付かない俺に、それから父は言葉少なく男を担いで庭に出ろと指示した。
俺は父に言われた通り、掃き出しの窓を開けて男を外に出すと、さらに父に指示されるがまま裏の古い物置小屋へと運んだ。
十平米ほどの小さな物置小屋には、十五年ほど前まで父と母が働いていた時に使っていた仕事道具が仕舞ってあるらしい。
母に手元を懐中電灯で照らしてもらい、父は錆びついた鎖を留めてある南京錠の鍵を開け、物置小屋の戸を開いた。
真っ暗な小屋の中に入った父は、そのまま古いアルコールランプに火を灯し、男を担いだままの俺に中へ入るよう手招きした。
「ここへそいつを寝かせろ」
かび臭い独特の匂い。
嗅いだことのあるような、どこか吐き気を催させるすえた匂いに、俺は小さく咳込む。
いったい何をする気なのだろう。
アルコールランプの灯りに浮かび上がった父の表情はいつもと変わらない。
言われるがまま、俺は男を冷たいコンクリート製の床の上に横たえた。
「あの……」
俺が口を開きかけると、背後にいた母がいつもと何も変わらない声で、俺にこう言った。
「高志、あとはお父さんと私に任せて、おまえはお風呂にでも入っておいで」
母の手の中には、いつの間にか先の尖った布切りはさみがあった。
ぼんやりとランプの灯りに少し目が慣れた俺は、約六畳ほどの小屋の中を見回した。
隅っこには見慣れない箱型の機械があり、幾つかある金属製の棚には禍々しい形状の金属製の器具が幾つも並んでいた。鉄骨剥き出しの天井の梁からは、何かを吊り下げるフックがぶら下がっており、その真下には大きな排水溝があった。
俺は昏倒したままの男のことを忘れて、この狭い物置小屋の異様さに、得も言われぬ恐怖を感じてしまっていた。
「さあ高志、早く背広を脱いで、お風呂に入っておいで」
母の声はいつもと何も変わらない。しかし、ランプの灯りに浮かび上がったその姿は、見知らぬ邪悪な何かにしか見えなかった。
一刻も早くここから出ていきたい。
ぼんやりとした頭で、俺は母に言われるがまま、後ずさる様にして物置小屋を出た。
そして、建付けの悪い戸がギシギシと音を立てながらゆっくりと閉まっていく。
戸が閉まる間際に俺は見てしまった。
あの棚に並べられてあった道具の中から、父が手慣れた手つきで、気味の悪い形状の器具を手に取ったのを……。
あれから一週間が経った。
鼠顔の男はまるで最初からそんな男は存在していなかったかのように姿を消し、決して我が家の話題に上ることは無かった。
父と母は相変わらずだ。
腰痛を抱える父は、時々腰を押さえつつ、家の中でダラダラと日がな一日過ごしている。
身体を動かすことが好きな母は、今日も家事の合間に庭に植えた植物の世話をしている。
あのことがあって以来、特に以前と変化のない両親のことを、俺は深く考えるようになった。
よく考えてみると、ずっと俺は父の仕事が食品関係の自営業であること以外、何をしているのかよく知らなかった。
今は物置小屋になっているが、もともとあそこは両親が作業場として使っており、俺が学校に行っている間、二人はそこで仕事をしていた。
普通のサラリーマンがどういうものかを知らずに育った俺は、ずっと家にいる父を、今まで別に不審に思ったことは無かった。
「自営業か……」
きっと父と母は誠実な人なのだろう。子供に嘘は言っていなかった。
自営業にも色々ある。
そうゆうことなのだ。
あの物置小屋の戸は、翌日にはまた鎖と南京錠が掛けられていた。
中の様子を覗くことも出来ず、小屋の周りを一周してみると、裏手に古い一輪車が無造作に停めてあった。
一輪車は最近綺麗にしてもらったようで、あまり埃も被っていなかった。
「これで運んだのか……」
あの男を鞄で殴り倒して殺してしまった日、動揺していた俺に気付いた母は、恐らく靴裏の血の跡から事情を察し、父と二人で深夜に出掛け、この一輪車で死体を運んだのだろう。
そして、この物置小屋の鍵を開けたのだ。
あの鼠顔の男はこの家に来るべきではなかった。
図々しく家に上がり込んで、息子の殺人を匂わせた時点で、あいつのツキは終わっていた。
恐らく母はその道に精通している人間だったのだろう。
庭で育てた、人間の神経を麻痺させる危険な植物の成分をお茶に混ぜて飲ませ、あいつを昏倒させたのだ。
そして父は、あの物置小屋で昔のように仕事をした。
物置小屋に入った時に嗅いだ、かび臭さの中に含まれていたあの嫌な臭い。
まだ幼かった頃に一度だけ、入ってはいけないと言われていた仕事場に、両親に気付かれないように入ったことがあった。
かび臭さは無かったが、かつて俺はそこで同じ臭いを嗅いでいた。
あれは人間を解体した時にどうしても出てしまう、血やその他の匂いなのだろう。
「もう、開けられることもないだろう」
南京錠の掛かった物置小屋の前で、俺はそう呟いた。
少し早く帰宅できたある日。
離婚してから寂しくなった俺の食卓に、今日は両親と、おこぼれを狙う猫の文七の姿があった。
野球中継を観ながらご飯を食べる父。
お代わりするかと聞いて来る母。
俺の膝の上から動かない文七。
ありふれた大して会話のない食卓で、母がささやかな話題を提供してきた。
「
別れた妻が連れて行った娘の話を、俺はあまり歓迎していない。
だが、母にとって娘の早矢香はたった一人の孫であり愛情を注ぐ対象なのだろうと思う。
俺は母の心情を思い、少し付き合ってやることにした。
「今年もプレゼントは送ってやるつもりだよ」
「そう、会ったりはしないのかい。たまには私たちもあの子の顔を見たいけど……」
「まあ、あいつが嫌がるみたいでね……」
元妻の
娘は母親の機嫌を損ねたくないのか、それとも特に父親に会いたくないだけなのか、このところ顔を見ていなかった。
「そうなの……富美子さんが……」
残念そうにそう言って、母はまた箸を動かし始めた。
その時、テレビに顔を向けていた父が口を開いた。
「なあ高志、あの子とこっちで一緒に暮らしたくはないか?」
普段あまり無駄な話をしない父のそんな一言を、俺は聞き流すことが出来なかった。
母は黙ってご飯を口に運ぶ。
迂闊に返事をしてはいけない。
どこにでもある食卓の団らんで、俺は脇に冷たい汗が流れるのを感じながら、あの物置小屋の鍵が再び開けられる予感に震えていた。
殺し屋 ひなたひより @gogotoraneco
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