第3話 追いかけてくる闇

 事件になることもなく、あの一件は終息した。

 相変わらず大勢のサラリーマンが乗車する満員電車に揺られて、俺は会社を往復している。

 変わったことと言えば、長年通勤で使っていた道を通らなくなったことぐらいだ。

 どこにでもある中年男の日常へと戻った俺は、その退屈で忙しい日々を過ごす中で、いつしか事件のことを少しずつ忘れて行った。


 夏に差し掛かろうかという六月の終わり、しつこく降り続いていた梅雨の雨が止んだ日の夜にそれは起こった。

 喉の渇きを覚えて帰り掛けに立ち寄ったコンビニ。店の前で炭酸飲料を喉に流し込んでいた俺に、スマホ片手にじっと視線を向けてくる男がいた。

 何見てんだ?

 まだ二十歳そこそこの感じだ。適当に伸ばした髪の毛を部分的におかしな色に染めている。見るからにあまり関わりあいたくない男だった。

 俺は男の不躾な視線を避けて、その場を立ち去ろうとした俺に、気味の悪い男はゆっくりと近づいてきた。

 近くで見ると、何だか鼠のような顔つきの男だ。いきった服装で自分を大きく見せているみたいだが、実際は俺とさして変わらないくらいの背丈だった。

 男は、なにが面白いのか俺の顔をまじまじと見てくる。

 因縁をつけてきたとしても、人の出入りのあるコンビニの前だ。大きな騒動になることは無いだろう。

 

「薮田をどこへやった」


 睨むような目で男はそう聞いてきた。

 俺は質問の意味が全く理解できずに、絡んできた鼠顔をしばらくじっと見る。


「薮田は消えちまった。てめえがどっかやったんだろ」

「何のことだ?」


 鼠顔に相応しい少し高めのかすれた声で、しつこく的外れなことを口走る男に、俺は不愛想にひと言で応えた。


「しらばっくれるなよ。てめえが鞄で殴ったんだろ」


 こんな顔だったか。

 あの夜に因縁をつけて来た片割れの顔を、俺はすっかり忘れてしまっていた。

 会いたく無い奴に再会したことと、路上から忽然と消えた男が三か月も経つというのに、今も行方不明になっていることに、俺の頭の中はしばらく混乱していた。


「俺はてめえが薮田を殺ったのを見てんだ。あいつをどこへやった?」


 コンビニの前で殺人に関することを口にした男に、俺の心臓は一瞬跳ね上がった。

 こいつの言っていることはどう考えてもおかしい。あの男は自力であの場からいなくなったはずだ。

 そして俺は、冷静にこの鼠男がどういった輩なのかを想像し、こう言ってやった。


「そんなにそいつが心配なら、警察に行って探してもらえばいいだろ」

「……」


 思ったとおり口をつぐんだ男に、俺は内心ほくそ笑んだ。

 どう見ても脛に傷のある男だ。恐らくこいつの探している薮田というやつも同じ様な輩に違いない。

 つまり警察には近寄りたがらない、そういった連中だということだ。


「そうゆうことだ。じゃあな」


 少しは腹の虫も収まった俺は、鼠男に背を向けてコンビニをあとにしようとした。


「このままじゃ済まないぞ」


 暗い怒りを含んだ声が背中を追いかけて来たが、俺はそれを無視した。

 家路を辿りつつ、俺は頭の中を整理する。

 忽然と社会から姿を消したという薮田という男は、いったいどこへ消えたのだろう。

 そもそも、おやじ狩りをするような連中だ。男の言うことをそのまま鵜呑みには出来ない。


「鬱陶しい奴らだ」


 どこまでも付きまとってくる野良犬に苛立ちを覚えながら、いっそ死んでくれればと、俺は頭のどこかで考えていた。


 それから度々、俺はあの鼠顔の男を見かけるようになった。

 恐らくあの夜に、俺の跡をつけて家を特定したのだろう。

 家の近所をうろつくだけで、殊更何もするわけでは無いのだが、四六時中あの男の視線を感じ、ストレスを感じ始めていた。


「なんだか最近、変なのがうろついてるねえ」


 ある日の夜、眼鏡の奥の細い目をしょぼつかせて、母が不審者の話題を口にした。


「最近、昼間に良くインターフォンが鳴るんだよ。出ても誰もいないし、つまらない悪戯をするもんだねえ」


 精神的に追い込もうという気なのだろうか。

 関係のない両親にまで迷惑がかかっていることを知ってしまい、いら立ちが募った。

 それからしばらく静観していたが、落ち着いてくるどころか、嫌がらせはエスカレートしていった。

 壁への落書き。人殺しと書かれた手紙。そしてある日の夜、それは起こった。


 ガシャン!


 激しい音に深い睡眠を邪魔された俺は、すぐに布団を出てその音の正体を調べた。

 原因はすぐに分かった。廊下の突き当たりの窓硝子が割られていたのだ。

 飛散した硝子の近くにこぶし大の石が転がっている。

 物音で目を覚ましてきた父と母は、しばらく呆然と荒れ果てた廊下を見つめていた。


「酷いことをするね……」


 腰をかがめて硝子片を拾いながら、母が悲しそうな声で呟いた。

 背中を丸めて飛散したガラスを掃除する母の姿に、これ以上黙っているわけにはいかないことを自覚しつつ、俺はこの一件のいきさつをどう話すべきか、頭を抱えていた。


 翌日の夜、俺は重い足取りで家路を辿っていた。

 この一連の奇妙な出来事を説明するには、あの夜のことから話さなければならない。不可抗力とはいえ俺は他人に大怪我を負わせた。また、あの鼠男の話では、そいつは今も行方不明になっている。

 警察沙汰にしてしまえば、きっと大変なことになる。

 最近キリキリと痛みだした腹部を押さえながら、俺は重い足を動かし続けた。


 会社から帰宅すると、玄関に見知らぬ黒い革靴が揃えてあるのに気が付いた。


「こんな遅くに誰だ?」


 履き潰したような革靴にそう呟いて居間へ行くと、あろうことか、あの鼠顔の男が上がり込んでいた。

 

「やっと帰って来たか」

「ここでなにしてるんだ!」


 一瞬で逆上した俺は、座卓の前で胡坐をかいている男の胸ぐらを掴み、昨日の窓硝子のことを怒りのままに問い詰めた。


「さあ何のことだか」


 いやに余裕のある表情だ。こいつは俺のいない間に、両親に何をしたのだろう。

 座卓を挟んで並んで座っている両親は、特に怯えた様子もない。


「放せよ。あんたの親には何もしてないよ」


 俺は殴り倒してやりたい衝動を抑えながら、鷲掴みにしていた手を放した。

 そして男は、皴になった胸元を直し、いやらしく笑いながらこう言った。


「さっき話は済んだところさ。あんたの両親に話を聞いてもらって、いい返事をもらったよ」

「どういうことだ……」


 座卓に向かい合って座る父と母に俺が視線を向けると、父は黙ったまま小さく頷いた。

 唖然としたままの俺に、鼠顔の男はここでどういったやり取りがあったのかを機嫌よく説明した。


「事情を説明したら、そこのじいさんがちゃーんと誠意を見せてくれてさ。ほらこのとおり」


 男は上着のポケットから封筒を取り出した。

 中身を見なくともそれが現金であることは分かった。

 こいつは義理堅い奴ではなく、行方不明の仲間を金に換金しようとするどうしようもないクズだった。

 虫唾が走るような笑いを浮かべる鼠顔を、俺は睨み返した。


「あいつが死んだとは限らないだろ……」

「ようやく認めたな。あんた、あいつの死体を山にでも捨てたんだろ? 上手くやったもんだ」

「知らない。俺は何にも……」


 いったいこれからどうなってしまうのだろう。

 考えの纏まらない俺の前で、男は金の入った封筒をまたポケットにしまった。


「まあいい。これからもちょくちょく慰謝料を貰いに来るから末永く頼むわ。じいさん、あんまし年金を無駄遣いするんじゃねえぞ」


 いっそ、こいつをここで殺してしまいたい。

 頭の中にそんな衝動が鎌首をもたげた時、立ち上がろうとした男の体がぐらりと傾いた。


「な……んだ……」


 口の端から白い涎を流しながら、そのまま男は座卓に額を打ち付けて、だらりと動かなくなった。倒れた湯呑から、こぼれた少量の緑茶が座卓を伝って畳を濡らしていた。

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