第2話 消えた男
風呂にも入らず、そのまま布団を被って朝まで泥のように眠りを貪った俺は、口の中にひどい苦さを覚えながら朝食を摂った。
「ご馳走様」
珍しく両親の顔を見ながら朝飯を食った。
高齢の父と母とは、普段あまり同じテーブルで飯を食うことは少ない。二人とも朝は高齢者特有の早起きが習慣になっているので、朝食はいつも一人で食べているし、夜は大概自分が仕事で遅くなり、結果的に母が作ってくれた冷めた夕飯を日常的に一人で食べている。
俺と一緒に飯を食うのは、おこぼれを狙っている文七くらいだ。
もともと寡黙な両親とはさして話もせずに、俺はそのままトイレへと向かい、ポケットに入れてあるスマホをチェックした。
「もうニュースになっているだろうな……」
見たくない現実を俺はスマホの中で探す。
本当なら昨日そのまま救急車を呼び警察に行くべきだった。
飲み過ぎていた昨晩の思考回路では判断できなかった常識的なことが、今なら分かる。
一般的な社会人ならば、動かなくなった人間を路上に放置していいわけがないのだ。
吐きそうな気分でスマホをしばらく見続けた俺は、いくら探してもそれらしい記事が見当たらないことに、そのうちに気が付き始めた。
「どうゆうことだ……」
逆に焦りを感じ始めて、トイレの中だということも忘れ、ひたすらにあの男の記事を探す。
トントン。
「高志。まだ出んのか?」
トイレの順番を待っていたのだろう。扉の向こうから父の声が聴こえて来た。
「ごめん。いま出る」
スマホを仕舞い扉を開けた俺は、白髪頭の父の頭を見つつ交代する。
昔から寡黙であまり怒られた記憶のない穏やかな父だった。
こんな父でも俺が人を殺したことを知ったら、怒ったりするのだろうか。
こんな時なのに、俺は何故か客観的に父親の心境を想像してしまっていた。
殺人犯が殺人現場に戻って来るという定説は、自分に対しては当て嵌まっていた。
じっとしていることが出来ずに、昼間でも人通りの殆どないあの裏通りに来てしまった俺は、パーカーのフードを目深に被ったままあいつの死んでいた場所へと向かった。
俺は馬鹿なのだろうか。
刑事ドラマに出てくる犯人のようないで立ちで、わざわざ殺人事件の現場へと向かっていることに、我ながら呆れてしまっていた。
これがドラマなら、いかにも犯人役といった臭さに、チャンネルを変えているかも知れない。
殺人現場へと向かいつつくだらないことを考えている俺は、実際のところまともな人間ではないのかも知れない。
長い間サラリーマンを続けて来て、並か並以下程度の人間であると自負していたのだが、その自己評価が疑わしいことを真摯に受け止めるべきだろう。
あの角を曲がれば事件現場が見えるはずだ。
警官の群がっている姿を想像すると、口の中が急に乾いてきた。
不審人物ととられて職務質問されたりしないだろうか。
いや、いっそ、そのタイミングで自分がやったと申告した方がいいのではないだろうか。
ズボンのポケットに入れてきた、娘から貰った財布がこんな時に気になりだした。
人殺しの娘か……まだ高校に上がったばかりなのに、きっと肩身が狭いだろうな……。
普段あまり思い出しもしなくなった、あまり可愛げのない娘の心配をしながら、角を曲がった俺の目に飛び込んできたのは、あまりにも寂しいひと気のない通りだった。
「誰もいないじゃないか……」
拍子抜けしてしまい、思わず漏らしてしまった独り言が雨の降りだしそうな鉛色の空の下で簡単に消滅する。
気持ちの焦りに背中を強く押され、俺は男が死んでいた場所へと急ぎ足で向かった。
「どうなっているんだ……」
確かにここで死んでいた男は、忽然と消えていた。
警察が現場にいた様な痕跡も無い。
そもそも人が一人死んだとなれば、この通りは封鎖されているはずだ。
そして、男の頭から流れ出ていたあのおびただしい血の跡も残っていない。
俺は夢でも見ていたのか。
マナーの悪い飼い主が放ったらかしていった犬の糞が近くに落ちている以外、特段なにも気になるところはなかった。
「あの男……死んでいなかったのか……」
あのあと男は蘇生して自力で帰った。そう考えるのが妥当だった。
酒に酔っていた自分が、よく確かめもせずに死んでいると早合点しただけ。そう考えないと辻褄が合わない。
路上を汚していたあの血溜まりは、眠っている間に降った雨が綺麗に流していったのかも知れない。
「なんだ……びっくりさせるなよ」
張りつめていた緊張が一気に解けて、俺はその場でしゃがみこむ。
「ハハハ」
自然と口をついて出て来た小さな笑い声。
俺はパーカーのフードを上げて、もと来た道を歩き出した。
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