殺し屋
ひなたひより
第1話 人を殺すということ
人間は簡単に死ぬ。
今の今までこんなあっけないものだとは知らなかった。
薄暗い街灯の下で、ピクリとも動かない見知らぬ男。
明かりが暗すぎて良く分からないが、頭部を中心におびただしく広がっているこの黒い液体は、この男から流れ出た血液なのだろう。
こいつは明らかに死んでいる。
そして、殺したのは俺だ。
見知らぬ男は、天を仰ぐように冷たく硬いアスファルトの上で、大きく目を開いたまま横たわっていた。
俺は、ハッとして周囲を見渡す。
街灯の乏しい静まり切った路上には、人の姿どころか猫一匹いやしない。
その寒々しさからか、俺は頬に触れる空気の冷たさを思い出す。
三月のこの時期はまだ冷える。
両手の指が小刻みに震えているのは、少し戻った寒さのせいなのだろうか。
花粉症のせいで一日中つけていたマスクの中がやけに息苦しい。
呼吸をする度に、しなびた使い捨てマスクが、膨らみ、萎む。
最高に不快な気分だ。この息苦しいマスクも、だらしなく路上に転がる男も。
こんな簡単に死にやがって。
唾を吐きかけて、頭を踏み潰してやりたい気分だった。
俺がこいつに会ったのは約十分前。
それはでは一面識もない男だった。
会社を退職する上司の送別会に義務的に出席し、我ながら酒臭い息を吐きながら帰宅していた時に、出くわした男だった。
相手は二人組だった。
死んでいるこの男は、その一人だ。
最近は聞かないが、多分これがおやじ狩りというものだったのだろう。
ひと気のない住宅街の裏通りを歩いていると、前からやって来たこいつらに道を塞がれた。
「おっさん、どんだけ酒飲んでんだ?」
足元がふらついていたのだろう。道を塞いだ男の一人がそう声を掛けてきた。
街灯が暗すぎて殆ど相手の顔は判別できない。声の感じから、若い男であろうとかろうじて察することができた。
「道の真ん中歩きやがって。酔っ払いのくせに偉そうに道塞いでんじゃねえ」
道を塞いでるのはこいつらだったが、酩酊状態にあった俺は、あまりに面倒くさくて、道をあけてやった。
「財布置いて行けよ。クズ野郎」
ほう、そういうわけか。
この二人の目的がはっきりしたので、俺も自分が何をすればいいのかはっきりした。
大して中身も入っていない財布だったが、娘が誕生日にくれたものだ。こんな奴らの汚い手で触らせるのは受容しがたい。
胸ぐらをつかんできた男の鼻面に、俺は思い切り頭突きを叩き込んだ。
骨がへしゃげる音。嫌な感触だ。
長いことこういった荒れごとをしていなかったので、久方ぶりだったが、やはりいい気分じゃなかった。
男は顔を押さえてうずくまった。
「てっめええ!」
仲間がやられたのを見て逆上したようだ。こんなクズでもいっぱしに仲間意識はあるらしい。
男は俺の顔面に向かって拳を飛ばしてきた。
その拳を、俺は体を捻って避けた。そのつもりだったが、拳は俺の頬にきっちり届いていた。
バシッという音と、痛みがやって来る。
男のパンチ力が大したことないのか、それとも酒のせいで感覚が鈍くなっているせいか、思ったほどの痛みは感じなかった。
口の中にぬるりとした感覚がある。
どうやら頬の内側が切れたようだ。
調子に乗って二発目の拳を振り上げた男の顔面に、俺は手にしていた鞄を走らせた。
バン!
持ち帰って仕事を終わらせようと、鞄に入れていたノートパソコンが、男の顔面を首ごと持って行った。
脳震盪でも起こしたのか、男は全く踏ん張らずにそのまま脚をもつれさせながら、仰向けに倒れて行った。
ゴッ
何だか嫌な音がした。今のは多分、何か固いものにぶつかって骨が割れる音だ。
俺は薄暗い街灯の中で目を凝らし、その音の正体を確認する。
「ひいっ」
何だか情けない安物の笛のような声を上げたのは、もう一人の男だった。
そいつは寝っ転がっている仲間を置いて、脱兎のごとくその場を逃げ出した。
滑稽な走り方で逃げていった男をしばらく眺めたあと、俺は路上でおねんね中の男に目を向けた。
腰をかがめるのも面倒くさい。そう思いながら男の状態を確認する。
「ふざけるなよ……」
脈拍と呼吸が無いのを確認し、俺は呪いの言葉を吐きだした。
遅くに帰宅した俺を迎えたのは、飼い猫の文七だった。
文七は父親が拾ってきた雑種猫で、黒と茶の入り混じった何だか汚らしいまだら模様の猫だった。
「にゃー」
それでも人懐こさだけはあるので、俺はこいつのことが好きだった。
離婚して実家で暮らしている今は、早寝早起きの年老いた両親とはそれほど話す機会もない。
この文七だけが、俺の相手をしてくれる。そんな生活がもう何年も続いていた。
「こいつともお別れか……」
俺は路上に放ってきた忌々しいあの男を思い出しながら、すり寄ってきた文七の頭を撫でてやった。
「おかえり、遅かったね」
トイレにでも行きたかったのか、廊下の照明を点けて、そう声を掛けて来たのは母だった。
「ただいま」
俺は俯き加減に顔を斜めに向けた。
さっき殴られた頬を母に見られたくなかったからだ。
「一応晩御飯、置いといたよ」
「ああ、明日の朝でも食べるよ……」
上手く誤魔化せただろうか。俺はそのまま自分の部屋に入って、戸を閉めた。
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