第5話 推し
会社のオフィスで働いていた慶太は、ふと時計を確認した。
「研修に参加してきます」
とデスクから立ち上がり、部屋を出た。
背後では上司や同僚たちが、「仕事をサボる口実だろう」と噂しているのが聞こえたが、慶太自身にも、その可能性は否定できない。
会社のホールに到着すると、既に多くの若手社員たちが集まっていた。今日は特別な研修があり、外部から招かれた講師が話をすることになっている。講師として登壇したのは、元アナウンサーで現在は自己啓発の専門家として活躍する、高山美穂だった。
美穂の話が始まると慶太は、すぐに、その美しい声に惹き込まれた。穏やかな口調、そして何よりも謙虚な態度に、彼は魅了されていく。
「皆さん。ステータスチェッカーというアプリは、ご存じですよね?」
と美穂は問いかけた。彼女の声はホール全体に響き渡り、そして静寂が訪れた。
「このアプリが測定していたのは、ネット上の情報ではなく、使用者自身の人間性だったのです」
彼女は少し間を置き、聴衆の反応を見守った。
「SNSで自分を良く見せたり、自慢をすることは、一時的な満足感をもたらします。しかし、それが長く続くことはありません。本当に満たされるためには、私たち自身の人間性を高めることです。謙虚に学ぶ姿勢と健康を保つことが、本当の自信に繋がるのです」
美穂の言葉は、慶太の心に深く響いた。彼女が何かを話す度に、彼は自分を見つめ直していく。
講演が終わると、若手社員たちは興奮気味にスマホを取り出し、ステータスチェッカーで勝負を始めた。
「おい、慶太もやろうぜ!」
と、同僚が声をかけた。
慶太は応じて、スマホを取り出した。普段はステータスチェッカーで負けてばかりの彼だったが、この日ばかりは違った。慶太のステータスチェッカーは、連戦連勝を続けた。
「どうしたんだよ、慶太。本当に慶太?」
と、同僚たちが驚きの声を上げた。
「高山先生の話が、すごく響いたんだと思う。自分を見つめ直す、きっかけになったっていうか……」
慶太は、照れくさそうに答えた。
その日以来、高山美穂は慶太にとって、特別な存在になった。彼は彼女の著書を、すべて注文した。オンラインサロンにも、入会した。彼女の他の場所での講演にも、自費で参加するようになった。自分が変わり始めていると、慶太は感じるのだった。
衆議院議員の高梨裕也は、党の勉強会で保育士の待遇改善の必要性について、データやシミュレーションを駆使して説明していた。プロジェクターに映し出されたグラフや数値を指し示しながら、熱意を持って訴える裕也にとって、このテーマは単なる政策の一つではなく、個人的な使命でもある。
「保育士の労働環境が改善されて、離職率が下がると、子どもたちには質の高い幼児教育が保証されます。少子化対策への貢献、そして経済への影響には、見逃せないものがあります」
裕也は話しながら、驚きを隠せなかった。勉強会に参加した議員たちが、まるで受験生のように熱心にノートを取りながら、彼の話を聴いているのだ。年配の議員たちでさえ、真剣な表情でメモを取っていた。これは、以前の勉強会では考えられなかった光景だった。
お昼になると、出された弁当にも裕也は驚いた。低カロリーでヘルシーな献立が、並べられていたのだ。ご飯は雑穀米、メインは鶏胸肉のグリル、そして野菜たっぷりのサラダとスープ。裕也は政治の世界に足を踏み入れてから、こんな健康的な食事を見たことがなかった。
弁当を食べ終わり、議員会館内を移動していると、いつもは混雑している喫煙所が、ガランとしていることに気づいた。その代わりに、誰もいなかったトレーニングジムでは、たくさんの議員が汗を流していた。スーツを脱ぎ、スポーツウェアに身を包んだ彼らが、真剣な表情でエクササイズに励んでいる光景は新鮮だった。
「どうしたんだ、一体……」と、裕也はつぶやいた。そして、ステータスチェッカーを戦わせている議員や秘書が、ぱったりといなくなっていることにも気づいた。現在のネット上では、「人間性」という言葉がトレンドになっている。政治家たちは、自分の人間性を他人に知られることが、それほどまでに怖いのか。
勉強会で熱弁を振るった裕也は、さすがに疲れた。議員会館内の自室に戻ると、残りの仕事は秘書たちに任せて、ソファで一息ついた。
自分のステータスチェッカーが急に強くなり、世の中から注目されるようになったのは、保育士の待遇改善という目標ができて、人間性が高まったからだろうか。そう思うと、理沙の顔が浮かんだ。
カバンの中から、理沙から渡されたスマホを取り出す。これが他人のスマホ、それも若い女性から手渡された秘密のスマホだと秘書たちが知ったら、何と言われるだろう。こんな人に言えないことをしている自分の人間性が、本当に磨かれているのだろうか。
裕也はスマホを見つめながら、ふと考え込んだ。彼女は何のために再び、このスマホを渡したのだろうか。 疲れている頭を、さらに働かせて、理沙の意図を探ろうとする。裕也は、深い思索に沈んでいった。
ステータスチェッカーでズルをするために、理沙のスマホを借りていた時は、それ以外のアプリには触れなかった。信頼を、裏切るわけにはいかない。しかし、ステータスチェッカーの仕組みが分かってきた現在、他人のスマホに、中を覗く以外の使い道があるだろうか。もしかしたら、彼女から自分に伝えたいメッセージがあるのかもしれない。
メッセージがあるとしたら、メモアプリではないか。裕也は初めて、他人のスマホの中を覗いた。メモアプリを開くと、コミカルなイラストと共に、
乙女のスマホの中を見ーたーなー
と、裕也を揶揄うようなメモがあり、思わず吹き出してしまった。パソコンで作業をしていた秘書たちが裕也に注目したので、咄嗟に咳払いで誤魔化した。
罪の意識が薄れた裕也は、他のアプリもタップしてみることにした。写真アプリを開くと、保育園での仕事風景や、他の保育士たちと写った写真が並んでいた。大写しではないが時折、我が息子の悠真も写っており、その無邪気な笑顔に心が温まった。
次に、ノートアプリを開いてみると、理沙が日々の出来事や思いを綴った日記が見つかった。そこには、保育士としての苦労や喜びが赤裸々に書かれていた。
今日は新しい子どもが入園してきた。最初は泣いてばかりだったけど、少しずつ笑顔が増えてきた。これだから、この仕事はやめられない
高梨先生が来るたびに、保育園の空気が少しピリッとする。でも、彼が真剣に子どもたちや私たちのことを考えてくれているのが分かる。いつか、保育士の待遇が本当に良くなる日が来ると信じている
さらに、メッセージアプリを開いてみると、理沙には慶太という恋人がいることが分かった。しばらく前に遡ってから読んでみると、最近の二人の間には微妙な空気が流れているように感じるのは、気のせいだろうか。
裕也は理沙のメモに続けるように、文字を入力した。他人のスマホでフリック入力をするのも、初めての経験だ。予測変換に出てくる単語も、理沙の日常生活を想像させる。
保育士さんの仕事や生活が良く分かって、とても参考になりました。ありがとう。こちらはというと、党の勉強会で保育士さんたちの待遇改善についてプレゼンしたところです。一緒に頑張ろう!
一旦、帰宅して、裕也は自転車で保育園に向かった。息子の悠真を引き取りながら、彼の今日の様子を理沙から伝えられる。裕也は、こっそりとスマホを理沙に返した。こちらも、何もなかったかのような表情で。理沙の顔は、ドキドキしたような顔から、残念そうな顔へと変わっていく。それを裕也は、心の中で楽しんだ。明日の朝は、どんな顔で迎えてくれるのだろうか。
理沙は慶太に誘われて嫌々ながら、自己啓発セミナー講師の高山美穂の講演を聴きに行った。会場は満員で、聴衆の期待が、ひしひしと伝わってくる。理沙も、その場の雰囲気に圧倒されながら、美穂の話に耳を傾けた。
「SNSで自慢ばかりしている人は、意識が自分にばかり向かっているのです。それでは、いつまで経っても人間性は磨かれません。意識を自分ではなく、周りに向けましょう。そうすれば自然に、もっと自分の人間性を磨いて、追いつかなきゃという気持ちになります。人間は他者への尊敬が、あるかないかなんですよ?」
高山美穂の声は、柔らかくも力強く響き渡った。慶太は、美穂の美声に聞き惚れているのか、言葉に感銘を受けているのか。理沙は、そんな慶太の姿を横目で見ながら、少しの嫉妬を覚える。
大盛況のうちに講演が終わると、慶太は隣の理沙にステータスチェッカーでの勝負を挑んできた。
「初めてだよね?」と、理沙は驚いたが、慶太の提案を受け入れた。
スマホを取り出し、通信を始めると、数秒後に結果が表示された。理沙のスマホ画面に敗北が伝えられ、さらに驚かされた。
「俺、先生のお話を聴いた直後は、ステータスチェッカーで誰にも負けなくなるんだ。人間性が磨かれるんだと思う」
「その状態を、ずっと維持しろよ」
理沙がツッコミを入れると、二人は笑い合った。言われてみると、最近の慶太は、自信がついたように見える。理沙は、そんな彼の新たな一面を発見して、嬉しくなった。
会場を出た後、二人は並んで歩きながら、講演の感想を語り合った。
「美穂先生のお話って、何回聴いても、何か気づかされるんだ」
「私も良かったけど、同じ話を何回も聴いてるの? まるで慶太の推しみたい……」
「俺にも推しができたから、理沙に推しがいてもいいよ?」
「別に私に推しなんていないけど、ありがとう……」
二人の間の距離が、以前のように縮まったのを感じた。やっぱり慶太は、一回りも二回りも大きくなっていると、理沙は思った。
その時、理沙のスマホが振動した。ポケットから取り出して画面を見ると、裕也からのメッセージが届いていた。
緊急連絡。また明日ね
という、つまらないギャグだった。
緊急なら、今言えよ
と、素早く返してやった。
理沙はスマホを操作しながら、複雑な感情が胸に込み上げてきた。慶太には言えない秘密が、重くのしかかってくるように感じた。
「何かあった?」
と、慶太が心配そうに尋ねた。
「ううん、何でもない。ただの仕事の連絡」
と、微笑んで答えた理沙。その笑顔の裏の葛藤を、慶太には悟られないようにと願った。
人気ユーチューバー、ヒカルマジックの動画が配信された。今回の実験の被験者となったのは、30代くらいの二人の女性だ。彼女たちは、まずステータスチェッカーで対戦する。勝者は監視カメラ付きの部屋でサスペンス映画を鑑賞し、敗者は別の監視カメラ付きの部屋でペットの犬と自由に遊んでもらうという趣旨だった。
「では、最初の対戦です。勝者は怖い映画を観て、敗者は愛犬と遊んでもらいます」
と、ヒカルマジックが説明する。
緊張の中、二人の女性がスマホを取り出し、ステータスチェッカーを開始した。
「勝者は……こちらの女性です!」
と、ヒカルマジックが発表し、勝った女性は映画鑑賞の部屋に、負けた女性は愛犬の部屋へと案内された。
30分後、再び二人をステータスチェッカーで対戦させると、なんと結果が逆転していた。勝者と敗者が入れ替わってしまったのだ。
「面白い結果が出ましたね?」
と、ヒカルマジックは笑顔で語る。
「この結果から考えると、ステータスチェッカーはスマホの持ち主の愛を測定しているのではないでしょうか?」
と、新たな仮説を発表したのだった。
理沙の部屋でタブレットを見ていた理沙と慶太は、この動画に興味を引かれ、どちらからともなくスマホを取り出した。
「愛かあ。理沙たち保育士が、強いわけだ」
「この前は、それでも慶太が勝ったよね?」
「またやってみる?」
「うん」
二人はステータスチェッカーで対戦を始めた。数秒後、結果が表示され、理沙が勝者となった。しかし、理沙は勝ったのにもかかわらず、少しも嬉しそうではなかった。
「美穂先生の講演会の後は、慶太が勝ったよね? これは、どういうこと?」
「それは、あの日は理沙と並んで勉強をするのが嬉しかったから……」
「美穂先生への愛が、測定されたんじゃないの?」
「こんなアプリ、ただのオモチャだろ?」
と慶太は必死に弁解しようとするが、理沙の怒りは収まらない。彼女は再びスマホを慶太に突きつけ、無言で再戦を要求した。
こんなに怖い顔で見つめられたら、逆に愛がなくなってしまうのではないかと、慶太は思った。
「ごめん俺、明日早いから、もう帰らなきゃ……」
「逃げるのか卑怯者、浮気者!」
理沙の言葉が、慶太の背中に突き刺さった。
帰りの電車の中で、慶太はカバンから美穂の著書を取り出し、表紙の彼女の顔を眺めてみた。彼は美穂の講演に感銘を受け、その言葉に励まされてきた。恋愛感情などでは、決してない。しかし、先ほどの理沙とのやり取りが心に重くのしかかり、彼は深いため息をついた。
慶太は、車窓に映る自分の顔を見つめた。理沙との関係は、このままでいいのか。 愛とは、何なのだろうか。美穂先生に、聞いてみたい。こういう気持ちをステータスチェッカーは、愛と判定しているのだろうか。
理沙は自分のことを、普段、見せている態度よりも愛してくれていたのだろう。自分は理沙を、もっと愛さなければいけない。大変な時代になったものだ。
駅に着くと、慶太は重い足取りで改札を抜け、夜の冷たい風に吹かれながら、自宅へと向かって歩き出した。駅前の広場では、たくさんのカップルがスマホを付き合わせては、大騒ぎをしている。
ステータスチェッカー 石橋清孝 @kiyokunkikaku
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