第4話 疑惑

 東京の閑静な住宅街に位置する高梨家は、一階が事務所で二階が住居になっている。朝の光がキッチンを温かく照らし、裕也と絵梨香は息子の悠真の準備を手際よく進めていた。絵梨香が悠真の服を着替えさせると、裕也は息子のお気に入りのカバンを持たせる。朝の忙しさの中でも、チームワークを発揮していた。


「裕也がイクメンで有名になったから、どこへ行っても、みんなに羨ましがられるんだ」と絵梨香が会話を振りながら、裕也のシャツの襟を整える。裕也は妻に感謝の表情を向け、「絵梨香と悠真がいてくれるから、俺のステータスチェッカーが強くなったんだと思う。ありがとう」と言い、軽く唇にキスをした。


 支度を終えた悠真は、わくわくした様子で、「パパ、保育園いくよ!」と言って裕也の手を引いた。


「今日も一日、頑張ろう!」絵梨香は会社へと急ぎながらも、玄関で家族に向かって手を振る。


 裕也は悠真を自転車の子供用シートに、しっかりと座らせ、安全ベルトを確認した後、自宅を出発する。彼らが通りを進むにつれ、周囲は朝の喧騒で賑やかになり、裕也は悠真に、大声で今日の保育園での予定を尋ねた。


「今日は保育園で、どんなことするの?」


「今日はね、お絵描きの時間があるんだ!」


「悠真は、絵の天才だからなあ。帰ったら見せてよ?」


 保育園に到着すると、多くの親たちが子どもを送り届けていた。裕也と悠真が保育園の門をくぐると、担任の保育士、理沙が視界に入った。理沙は、いつも通りに明るく、子どもたちを迎えている。裕也たちを見つけると手を振って「おはよう、悠真くん!」と呼びかけた。裕也は悠真の背中を軽く押して、「行ってらっしゃい」と優しく送り出すのだった。



「よろしくお願いします」と、裕也が保育園の門をくぐり抜けようとした、その時、後ろから理沙の声が響いた。


「高梨先生、ちょっと待ってください!」


 裕也は振り返り、駆け寄ってくる理沙を見つめた。彼女の顔には、決意と少しの緊張が浮かんでいた。「これを……」と、理沙は裕也にスマホを手渡そうとした。裕也は、その手を優しく制止し、笑顔で答えた。


「スマホがないと、理沙先生も不便じゃないですか?」


「保育士の待遇改善のためですから、これくらい……」

理沙の声は真剣だった。


 裕也は一瞬考えた後、自分のスマホを取り出し、「ステータスチェッカーで、僕と勝負しませんか?」と提案した。


 二人はスマホを近づけ、通信を開始した。数秒後、画面に結果が表示された。裕也のスマホには「勝利」の文字が浮かび上がり、理沙の目は驚きに見開かれた。


「どうやら、僕のステータスが上がったみたいです。理沙先生のおかげですよ。保育士の待遇改善、任せてください!」

裕也は力強く約束し、その場を去った。


 その後ろ姿を見送る理沙の表情には、どこか寂しさが漂っていた。裕也の熱意と感謝の言葉に嬉しさを感じつつも、自分の役割が終わると感じる、寂しさもあったのだ。


 保育園の教室では、画用紙にクレヨンで自由にお絵描きをしている園児たちの姿があった。理沙は一人一人の絵を見回り、その都度、子供たちを褒めていた。


「素敵な色使いだね!」


「すごく上手に描けてるよ!」

その優しい声は、子供たちの笑顔を引き出した。


 その中で、悠真は両親と自分の姿を描いていた。画面いっぱいに広がる幸せそうな家族の絵を見て、理沙は微笑みながらも、胸の奥に複雑な感情を抱えた。


「とてもいい絵だね、悠真くん。パパとママが、大好きなんだね?」

理沙は、そう言いながら、悠真の絵に見入っていた。


 昼下がり。園児たちが静かにお昼寝をしている時間、理沙は職員室で他の保育士たちと共にステータスチェッカーでの勝負に興じていた。何度も勝負を繰り返すが、理沙を負かす者はいなかった。彼女のステータスは高く、保育士たちの間でも、その実力が知られていた。


「やっぱり、理沙先生にはかなわないね……」と、他の保育士たちが口々に感心する。理沙の心には、裕也の言葉が蘇った。


「保育士の待遇改善、任せてください!」


 理沙は、これからの未来に希望を抱きつつ、同時に裕也との秘密の終わりに複雑な思いを抱えていた。園児たちが目を覚ますまでの静かなひととき、彼女は心の中で自分自身と向き合い続けた。



 夜の静けさが家の中に満ちる中、理沙はスマホをホルダーに取り付けて、画面をタップした。少しの待ち時間の後、画面には慶太の笑顔が映し出された。


「お疲れさま、理沙。今日も大変だったんだろ?」

慶太は、恋人に労いの言葉をかけた。


 理沙は微笑みながら、「ありがとう、慶太。今日は色々あったけど、なんだか吹っ切れたって感じかな?」と、意味深なことを言った。慶太の眉は少し上がり、興味をそそられたようだ。


「何があったのか、気になるから教えてくれよ?」


「秘密。推理してみて?」


「ヒントなさすぎだろ!」


 理沙は慶太と言葉で、ふざけ合いながらキッチンへ向かい、遅い夕食の準備を始めた。


「面白いデートでも企画してくれたら、教えてあげようかな?」

理沙は野菜を切りながら、慶太を揶揄い続ける。


「今度、国会議事堂を見学しようか?」


 振り返った理沙の目が、輝いている。それを、慶太は見逃さなかった。


「いいね。行きたい!」と理沙は快諾し、慶太は「よし、じゃあ予約を入れるね」と答えた。理沙は疲れた様子も見せず、軽やかに料理を続けた。彼女の手はリズミカルに動き、キッチンからは心地よい音が響いていた。


「今日は何を作ってるの?」と慶太が尋ねると、理沙は「簡単な野菜炒めとスープだよ」と答えた。さっきまでとは違う、楽しそうな声だ。


 慶太は明るい声で話しながらも、理沙の様子を注意深く観察していた。彼女が何かを隠しているのではないかという疑惑が、彼の心の片隅に、ずっと残っていたのだ。


「今日は子どもたち、どうだった?」

慶太が、話題を変えた。


「みんな元気だったよ。お絵描きが得意な悠真くん、家族の絵を描いてた。本当に幸せなんだろうな……」


「悠真くんって、例の政治家の息子だろ?」


 不自然なところで、会話が止まってしまった。


 野菜炒めとスープが出来上がり、理沙は盛り付けた料理を運びながら、「私には慶太がいるから、頑張れる」と感謝の言葉を添えた。


「俺こそ、理沙がいてくれるからだよ」

慶太は、優しく答えた。


 慶太は、食事をしている理沙を眺めながら、会話を交わすことに幸せを感じていた。その一方で彼の脳裏には、理沙が見せた一瞬の目の輝きが消えずに残っていた。



 休日の午前中、清々しい陽光が降り注ぐ中、慶太と理沙は国会議事堂の見学にやって来た。ガイドに連れられ、他の見学者たちと共に厳かな建物に足を踏み入れる。広々としたホールには歴史と権威が漂い、理沙は、その壮麗さに圧倒されつつも、どこか落ち着かない様子だった。


 ガイドは衆議院議員の出席を示すボードの前で立ち止まり、詳しい説明を始めた。理沙は、その説明に耳を傾けるふりをしながら、ボードにびっしりと並んだ名前の中から、裕也の名前を必死に探した。その様子を観察していた慶太が、ふとボードに目を遣ると、ある名前に目が留まった。


「これじゃね? 高梨裕也……」


 理沙の心臓は、一瞬でドキッと跳ね上がった。慶太が指差す方を見た彼女は、「あ、ホントだ」と平静を装いながらも、その目は揺れている。


 見学者たちは、議員たちの部屋が並ぶ廊下を進みながら、名札を確認していく。理沙も歩きながら、一つ一つの名札に目を走らせた。慶太は、その隣で理沙の様子を複雑な気持ちで見守っていた。


 やがて、誰もいない参議院本会議場に、ガイドと見学者たちが入ってきた。ガイドはここで、衆議院にはない押しボタン式投票の説明を始めた。「議員の皆さんが、このボタンを押して賛否を示します」と言いながら、ガイドはボタンの使い方を実演した。


「大勢で多数決なんてしないで、ステータスチェッカーみたいなAIが、何でも決めちゃう時代が来るのかな?」

慶太は小声で、理沙に囁いた。


 理沙は、またしても心臓が止まりそうになる。彼の言葉が意図的に思え、慶太が何かに気づいて探りを入れているのではないかという不安が、胸をよぎった。無意識のうちに、理沙は慶太の顔色を覗き込んでいた。慶太の視線は、まっすぐ彼女に向けられており、その瞳には疑惑が確信へと変わりつつあるのが見て取れた。


 見学を終えて、国会議事堂を出た二人。清々しい空気が漂う中、慶太が「どこで昼食を取ろうか?」と尋ねた。しかし、理沙は、これ以上の追及には耐えられないと思い、「ごめん、ちょっと疲れちゃったから帰りたい」と答えた。慶太も理沙の疲れた様子に気づき、「そうか、無理しないで帰ろう」と優しく言った。


「楽しかったよ、ありがとう」

理沙は微笑みながら、慶太に礼を言った。その笑顔には、どこか疲労の影が残っている。


「こちらこそ、付き合ってくれて、ありがとう」

慶太も応じたが、その心には、まだ消えない疑念が渦巻いていた。


 二人は手を繋ぎながら帰路につき、それぞれの心の中に、言葉にできない思いを抱えていた。



 人気ユーチューバーのヒカルマジックの新しい動画が、公開された。ヒカルマジックは興奮気味に、カメラに向かって語りかける。「みなさん、ステータスチェッカーについての新しい発見がありました!」と、彼の声が響く。


 画面には、ヒカルマジックと彼のアシスタントが並んで立っている。彼らは、それぞれのスマホを手に持ち、ステータスチェッカーの対戦を開始する。「では、まず最初に普通に対戦してみます」とヒカルマジックが説明する。数秒後、結果が表示される。「ヒカルマジックの勝利!」とアシスタントが叫び、ヒカルマジックは満足げに頷く。


「次に、互いのスマホを交換してみましょう」とヒカルマジックは提案する。二人はスマホを交換し、30分後に再び対戦を行った。「またもやヒカルマジックの勝利!」と、アシスタントが叫ぶ。


「最後に、僕が両手にスマホを持って対戦させてみます」とヒカルマジックは挑戦的に言う。30分後、彼は、一人で二つのスマホを対戦させた。「引き分けと表示されました!」と、驚きの表情を見せる。「つまり、ステータスチェッカーが判定しているのは、アプリに登録したユーザーのステータスではなく、その時にスマホを持っている人間のステータスだったのです!」と結論づけた。


 その翌朝の保育園。いつものように裕也が、息子の悠真を理沙に預ける。理沙は、笑顔で裕也を迎えた。


「動画を見ましたか?  我々の作戦は、意味がなかったんですね?」

裕也は、笑いながら言った。


 その瞬間、理沙は意を決したように、自分のスマホを裕也のポケットにねじ込んだ。


「だから、意味ないって!」

裕也は、いつもの冗談だと思って笑ったが、理沙の顔は真剣そのものだった。


「意味なくても、持っててくださいませんか?  私のスマホ……」


 裕也は最初は戸惑いながらも、理沙の意図を少しずつ理解し始めた。この行動は、もはや政治家への陳情ではなく、彼女自身の気持ちを表現するものだったのだ。裕也は真剣な表情で理沙を見つめ、「それじゃ、また夕方に……」と言い残し、保育園を後にした。


 保育園の門をくぐりながら、裕也は理沙の言葉と行動を思い返していた。理沙が彼に示したのは、純粋な信頼だったのかもしれない。それでも、自分は彼女にスマホを突き返すべきではなかったのか。なぜ、受け取ってしまったのだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る