第2話

”「あっ音鳴りだ。今回のはまるで天使の矢のような響きだな」と詩人が気取ったように評した。するとサティは自分の耳たぶを引っ張って「いや、これは鐘が破れた音だよ」と反論した。「君はなんて詩情がないんだ」と詩人は呆れた。そして、サティは鳩尾が苦くなるような感じかがしてお腹の上に手を添えた”

ーーーーある詩人委員の日記ーーーーーー


”たった二つだけ、死と天音だけが万人と万物に平等だと信じられる。罪人も善人も美しいものも醜いものも引き裂かれた恋人同士も刃を交える戦場の敵同士もみな平等に、今この瞬間の甘味な音に心を傾けている。”

ーーーーゴート・ガロー『哲学入門』ーーーー


 ”恋人同士の別れ際、まぶしい音鳴りがした。「綺麗な音鳴り!」と小さな子供がお母さんの手から離れて飛び跳ねた。駅で忙しくしていた人々が、重たい荷物を引く紳士も交通整理をしていた白い手袋の職員もベンチで待人をしているおばあちゃんもみな、時を止めてこの音鳴りに耳を傾けている。窓を隔てて二人の恋人同士が手を繋ぎ合っている。「音鳴りのたびに君を想うよ」男がそう恋人に誓って、馬車は動き出した。恋人は馬車の背が小さくなるまで見送っていたのだがまぶしい光が降ってきて馬車の行く先を眩ませてしまった。”

ーーーーミア『水たまりでの記憶』ーーーー



 無数の見えない鈴が透明な糸でつながれて音を奏でている景色を想像してほしい。それが音鳴りだ。空気のある所ならすべてにこの透明な鈴が存在している。そして、やはり信じられないぐらい細くて物体をすり抜けてしまう糸が鈴たちを結びながら世界中に張り巡らされている。いたずらな天使が鈴を一つでも突っつくとその揺れが糸を通して無数の鈴たちに伝わりそして世界中の生きとし生けるものがその綺麗な音を聞くのだ。


 音の幽霊たちがつなぐ千のリゾーム。


 これは、音鳴りという現象をイメージでつかむためのたとえに過ぎない。実際、音鳴りについて人々は「まぶしい音だった」とか「天使が放つ矢のような音だった」とか「水で溶かした砂糖みたいなべとべとした音だったよ」とか詩情豊かな説明をする。音鳴りは普段聞いたことのないような音だからだ。また、音鳴りは人の聴覚以外の感覚器官を刺激することでも知られている。さらに、音鳴りのことを天音(あまね)や音霊(おとれい)と呼ぶこともある。


 少女は夢を見ている。雫が滴るあの階段の無限のまぶしさに晒されながら少女は誰かの背中のぬくもりに身を預けていた。音鳴りがした。それは至高の甘露だった。甘くてそして、透き通った音が少女の舌を濡らして唾液がとめどなく分泌される。その甘い唾液がのどを通るたびに少女の身体は火照ってもぞもぞとした。

 細目を開けることぐらいはできるぐらいにまばゆさが収まってきた。階段に人影がジグザグに折られている。その人影の主は黄色い傘を片手に持った鬼の少年だった。少年はおでこの尖ったできものを指先でいじくっている。

 「生きてたんだ!」

 少女が手を振ろうと身を起こすと美しい人魚がやってきた。少女は隠れるように身を伏せた。人魚は鬼の少年のおでこの角をボタンみたいに押して艶やかに笑った。そして、だしぬけに少年の首筋に噛みついたのだった。少年が見せた官能的な油断の隙に人魚の手がこっそりと黄色い傘を盗んだ。そして人魚は、さらに深く少年の首に噛みついてその先に起こることを黄色の帳で隠してしまった。ことが終わると人魚の手から黄色い傘が落ちて階段を転げ落ちる。傘は縛り紐が解けてだらしなく羽をびろんとさせる。

 天音が糖度の閾値を超えた。蜜の粘着きが脳をべとべとと侵して少女は狂ったように頭を抱えた。

 「はあっ」と少女が目覚めた。甘露の揺れのような天音が夢と現をまたいで響いている。少女は乱れた息を整えながら天井を眺めた。天井から人形が一体垂れ下がっている。そして、隙間風が吹くたびに揺れてすぐ隣にある青いひし形のカラーパに抱き着いたり離れたり抱き着いたり離れたりを繰り返している。

 少女は目をすがめて人形とカラーパの愛の舞台をにらんでいた。人形の顔がぼんやりと滲んでその表情がはっきりとした像として結ばれないのだ。

 少女の汗が乾くころには天音の甘ったるい演奏会は終わっていた。ドアをノックする音がした。少女は掛け布団を払いのけて「今出るよ!」と言って上着を羽織り玄関へ向かった。ドアノブを開くと外に燕尾服を着込んだおじいさんが立っていた。おじいさんは恭しく頭を下げた。「こんにちわ。私があなたを助けた隕石です。」

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 「はぁ」という少女のぴんと来ないと言いたげな返事と一緒に少女の肩から上着がずれた。それと同時に少女の視界もガラス板がこすれるみたいにずれていく。おじいさんの白髭が蝶々の羽をちぎったみたいに二つに千切れて離れていく。「おい。大丈夫か」と聞き覚えのある声がして二対の羽が再び一匹の蝶々に戻った。おじいさんの背からひょいと現れた茶目っ気のある蜂はギアだった。「ギア、生きてたの?」と少女が目を真ん丸に開くとその瞳の水晶いっぱいにギアの万歳が映り込む。「そうだよ。このじいさんが助けてくれたんだ!」

 「ふぎゅう」というのは妖精が手のひらに食われたときの小さな叫びだ。少女がギアの妖精の身体を枝切れみたいに掴んで目の前に引き寄せたり遠くに押し出したりして目をすがめている。「どうしても、あんたの顔がはっきりしない。顔だけじゃない、手足も腹もそして後ろの爺さんも」と少女はおじいさんを指さした。わたくしとは礼儀である。とでも言いたげなほどねんごろにおじいさんはお辞儀をした。「お嬢さん、どうかわたくし目に目を見させていただけませんか?」「あんた、いひゃなのか?」とギアは少女にもまれながら口を聞いた。「はい。わたくしは医学の知識がございます。」「わかった。じゃあ、頭を下げたままついてきて」と言って少女はドアをくぐって部屋の中へ入った。

 おじいさんはお辞儀をした低い姿勢のまま少女の踵を追った。少女の家のドアは王様だろうが皇帝だろうが神様だろうがドアを通り過ぎる大人なら誰だろうと頭を下げさせてやろうという背の低さだった。もちろん、この家は少女が作ったわけではない。前に住んでいた魔女が作ったのだ。だから、この背の低いドアも天井からぶら下がってカラーパに抱き着いている人形も全て先住者の変わった趣味なのだ。

 おじいさんはドアをくぐって部屋の中を見回した。天井から例の人形がぶら下がっていて青いひし形に抱き着いている。そのすぐ下にベッドがあって少女がちょこんと座って妖精を使ったセルフ視力検査をしていた。

 世の中の物は大体遠くから見れば綺麗で、近くから見れば汚いものだ。山だってそうだ。遠くから見れば花色に色づく三角形も近くで見れば枯れ葉と土汚れの集まりでしかない。絵画だって極限まで近づけば汚い色の粒子の混ざり合いでしかない。しかし、妖精だけは違った。近づけて見てみると、妖精の赤子のような肌に甘い鱗粉が神秘的な調和で乗っている。だが、その美しさもだんだん滲んできて「だめだ。やっぱりぼやけて見える」と少女は妖精を掌から解放した。

 「どれどれ、見せてください」と老人は椅子をベッドに引き寄せて座り少女の差し出された顎を指で引いた。そして、もう片方の指で少女の片目の瞼を開かせて瞳を覗き込む。少女の瞳の水晶の端っこで妖精のギアが申し訳なさそうにもじもじしている。「なあ、真実を知っても怒らないと約束してくれないか?」という口から出た懇願とは裏腹に妖精はおじいさんの背の燕尾服の陰に隠れた。


 

 「ねえ、鬼の男の子はどうなったの?」右目の診察が終わって今度は左目の瞼を開かれながら少女が訪ねた。少女の膝に置かれたこぶしがぎゅっと締められる。おじいさんは少女の左目の瞼を指で優しく開きながら答える。

 「鬼の男の子ですか?見ませんでしたね。」 

 そもそも、あの洞窟であの海で一体何があったのだろう?その疑問がギアの頭から少女にある真実を知られる恐怖を追い出した。ギアは老人の背から飛び出してきて少女の疑問の続きを請け負う。

 「じゃあ、赤ん坊たちはどうなったんだ?あの兵士とエイは?そもそも、あの海はなんだったんだ?浮島は?墓は?黄色い傘は?」ギアの疑問はとどまることがなかった。

 「待ってください。先に診断を下しますから。」そう言って老人は診察を終えて椅子から立ち上がり「はあ」とため息をついた。

 「お嬢さん。あなたは魔法の使い過ぎで視力を損なったようです。二度と元に戻ることはありません」

 その残酷な知らせに少女はしばらく口を開けたままになってしまった。沈黙の痛みに耐えられなくなったのかギアがびくびくしながら弁明を始めた。「ご、ごめんよ。こんなことになるとは思わなかった。俺はただ、」「もう」と冷たい枕詞が妖精のしどろもどろを断ち切った。「もう、二度と魔法なんか使わないから。」少女はそう言って立ち上がり部屋を後にした。ガコンと鈍い音がした。少女がおでこをドアの背の低さにぶつけたのだ。痛々しい気まずさだった。少女は赤くはれつつあるおでこを抑えながらキッと妖精をにらみつけた。その睨んだ対象がぼやけて見えなくなったのが少女に対する追い打ちだった。少女は涙で滲んだ声で「ギア!あんたとは絶交だ!」と言い放って外へと飛び出した。


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 ”僕の小さな弟が天井に手を伸ばしました。僕が人形をつまんで見せると弟は首をぶんぶんと振って「違うやい」と僕の太ももを叩きます。「その横の黄色を取ってよ」と弟は涙ぐみながら人形の真横にある空間の染みを指さしました。僕は困り眉をしながら何度も空気をつかんで見せます。そのたびに僕の手は空間の黄色い染みをすり抜けるのです。「ごめんよ。これは取れないんだ」”

 マヤー『賢者の石』より


 ”カラーパとは何でしょうか?天音に並ぶこの世界の怪奇。空間を彩り汚す幽霊……

 色や汚れは基本的に何もない空間につきません。しかし、色霊(カラーパ)はそれを実現しています。

 木と木の間の空間、四つ辻のつむじ風が巻いているような空間、川のせせらぎが聞こえるか聞こえないかぐらいの高さの空、子供たちが背伸びしてギリギリ届くか届かないかぐらいの天井すれすれ、モグラが寝ているぐらいの深さの地中、ある家の居間に吊るされている人形のすぐ隣、そういう絶妙な距離の空間に絵師のパレットを透明にしたみたいな彩りが浮かんでいます。そして、それは水をかけてもすり抜けるだけで布で拭いても何の手ごたえもありません。空間に永遠に存在し続ける汚れです。人々は飛蚊症を気にしないようにその空間の汚れを気にしなくなっていきます。そして、生活の背景をこの汚れたちが彩るのです。”

 ある考古学者『カラーパについて』

 

 ”何も思いつかない。苦しい。つらい。リンの足元に柔らかい円盤が落ちている。リンは怒りのままそれを窓に投げつけた。すると、円盤は窓で跳ね返ってリンの足元まで戻ってきた。

 「フフっ」とリンは力なく笑いながらその固くない円盤を持ち上げた。円盤の淵が少し凹んでいるのにリンが気が付いたとき音鳴りがした。それは黄金色の音鳴りだ。音も光もすべてを柔らかくそして力強く跳ね返す黄金色の音だった。今この時、川を渡っている木々も空を飛んでいる紙蝶々もいたずら好きの子供も空を旅する湯船も竹籠でできた龍も皆、この音鳴りに耳を傾けている。

 しかし、リンの心は音鳴りでは癒せなかった。リンは円盤をお尻に敷いて膝を抱えてうつむいてしまった。

 「あっ」とリンの口から声が漏れた。自分のくるぶしに当たる砂の一粒ほどのカラーパを見つけたのだ。こんな微細で孤立したカラーパを見たのはリンは初めてだった。誰にも気づかれず興味も持たれないその砂粒のようなカラーパをリンは掬ったがそれは手のひらから透けていくだけだ。”

 

 まるで街に隕石が落ちてくるその瞬間をガラスの中に閉じ込めたような異様な光景。それは、永遠の圧迫で迫る赤い大球のカラーパだった。そんな、時の止まった破壊に対峙するのが丘の上の展望台だ。この展望台は巨人が抱き着いても腕が回りきらないぐらいの太さで赤熱する隕石のようなカラーパに挑んでいる。この、破壊の舞台に仕えるように黄色いカラーパの柱が街をぐるりと柵のように取り囲んでいる。その破壊の神に仕えるように黄色いカラーパの柱が街をぐるりと柵のように取り囲んでいる。実際、街はこの黄色い縦縞のカラーパを草原との境として発展してきた。住宅の集合もこの檻のようなカラーパの弧状の並びを淵としてひしめいているのだ。 

 この街を円く閉じ込める明るい檻と隕石の幽霊を斜めに冷たく貫くのが青いカラーパの線だった。それは倒れかかった塔のように重力に反して聳え街の空に凍った切れ込みを入れ赤い球のカラーパを貫く鋭利な剣だった。

 街はこの対照的な三色と調和するように存在している。そして妖精のギアと絶交して家を飛び出してきた少女が今いるのが展望台の望楼の陰だった。

 少女は螺旋階段の暗い手すりにひんやりと手を滑らせながら望楼の最上階へと上った。 


 望楼の最上階は塔の円周をドーナツ形に刳り貫いた眩い廊下だ。その分厚い壁に半円の窓がぐるりと八方に掘られていて少女は東の窓から見晴るかしを始めた。

 「ふう」少女の温いため息が力と一緒に窓の向こうへ抜けていく。その先にあるのは春の花粉が霞とかかって浅い夢のようにぼんやりとした街の景色だった。

 街の東を大王ウミモグリの抜け殻たちが山と連なり、その背中を無数の黄色いカラーパの槍が大地に杭い抑えている。とくに、殻が崩れてできた崖の地肌に黄色いカラーパが容赦なく突き刺さっているさまは痛々しさすらあった。


 この大王ウミモグリというのは雲を圧倒する巨大な虫のことでその抜け殻は山となって水を蓄え湖を作り潤いを川として人里に流していた。人には決して近寄ろうとせず遠く離れた霞の中をうごめく存在感のある幽霊だった。街の人々にとって山と言えばこれの抜け殻のことであり抜け殻と言えばこれの抜け殻のことだった。


 もっと身近なもので説明しよう。暑い季節に葉っぱの濃緑にしがみ付いているセミの抜け殻を想像の中でつまみ上げてほしい。そして、その抜け殻の背中の破れ目とか鎌のような前足とか扁平な瞳を拡大していく。そうするとそのセミの抜け殻はあなたを踏み潰してしまうほど大きくなりさらに膨張は止まらず屋根を超え山を越えそして雲を阻むまでに大きくなる。そして、それは街の外れの霞の中にぼんやりとした影と消える。それが大王ウミモグリの抜け殻であり、その生きているものが大王ウミモグリだ。


 次に少女は西の窓へ移動した。そこからの景色は、黄色いカラーパの柱たちが支えるべき梁も屋根もなくただただ柵を巡らせて街と草原の境界を分かつのみだ。そして、明るい牢の向こうには地平線のかなたまで草原が広がっている。そのべとつく霞の中を生きている大王ウミモグリの影が時間よりもゆっくりと漂っている。怪獣の亡霊のような彼らは互いに明後日の方へ流れて個人主義的な距離感でさまよう。

 そして、少女は手前の街に視線を移す。街を横切る川に沿って石馬の2部族が互い違いに入れ替わり小競り合いを演じている。馬たちがその剛健な肩をぶつけ合い石ころと砕け散っている派手な戦さも望遠台の高みから見ればアリの喧嘩ほどでしかなかった。


 少女は今度は南の窓へと移動した。南も東と同じく大王ウミモグリの抜け殻が山と連なり、やはりそれらは黄色い柵に背を貫かれ大地に組み伏せられていた。しかし、抜け殻の群れから街に向かって一本の剣が倒れかかってきていた。それは、黄色い柵にもたれ掛かり赤い隕石の幽霊を貫く冷たいカラーパの剣だった。


 そして、最後に少女はもう一度東の窓に移動した。なぜ、北を飛ばしたからと言うと北には何もないからだ。ただただ、春の霞に家々が半分沈みかかっているだけ。そして、あの忌々しい妖精がいるだろう少女の自宅がその家の群れにうずもれている。


 今度は少女は抜け殻の山脈よりもずっと手前に視点を戻した。少女のお腹から東に向かって大きな一本道が敷かれているように見える。その道に視線を走らせるとある障壁に行き先をふさがれるだろう。それは離れ山だった。孤立した大王ウミモグリの抜け殻が豪奢な宮殿を冠といただいている。そして、その道を一本の高架が横切っている。その高架の窓から美しい女の横顔がのぞいた。

 その高架の下を石馬たちが潜りぬけると美女は窓から顔を放した。石馬たちは離れ山よりもはるか向こうの抜け殻の山脈を目指しているのだ。石馬については詳しく説明することは避けよう。この世界のことを一から説明していたのでは、物語が前に進まないから。


 そして、最後に少女は空を見上げた。この街と言えばこれだった。赤い球状のカラーパ。熱を帯びた隕石のようなそのカラーパは展望台のある丘を抑圧する破壊そのものだった。といっても、それは破壊手前で時間を止められて街を脅かすだけで力はない隕石の幽霊た。隕石の中を動くホクロが二つ赤色を斬りながら通り過ぎて少女の孤独を紛らわす。

 「隕石と剣の古戦場」

街の景色を短くまとめた少女の呟きを風が攫った。少女の髪の毛も移り気に靡いた。

 「そういえば、あのおじいさん 自分は隕石だって言ってたな」

////// 

 街の景色が花粉の靄と少女の視力の低下ゆえに限りなくぼやけた。そして、粘っこく甘い花粉が少女の鼻ひだを刺激した。「ハックション!」解像度の下がり切った街に少女のくしゃみが掛かる。咳切虫たちが透明な世界から姿を現して遺伝子を思わせる半透明な紐で文模様を織りなした。それは、ひし形の連なりだった。ひし形の結晶が少女のくしゃみを追いかけて赤と青と黄色による三つ巴へと向かった。そして、咳切虫たちは美しい模様を描きながら少女のくしゃみの滞りをおいしそうに飛び交うのだ。

 その文模様もまた滲んだ。少女は強く瞼を閉じてそして勢いよく目を開いた。さっきよりも、世界は不鮮明になって文模様も背景に溶ける汚れに落ちぶれてしまった。

 「もう!」と少女は手のひらで咳切虫たちに八つ当たりをした。少女の手にはたかれて咳切虫たちは塵尻になって透明に帰っていった。

 ふいに天音がした。潤いのある音だった。思わず少女の瞳を涙が湿らせる。「雫の魂」男の子の声がした。少女が振り返ると内壁の曲がった向こうに影が隠れた。「だれ?」涙が少女の唇を濡らした。花粉交じりの甘い涙だった。

 「僕が詩人委員会だったらこの音鳴りをそう名付けるよ。」

 少女はその甘ったるい涙を手の甲で拭う。「だから、あんたは誰だって聞いているんだ」

ためらいの間に風が入り込む。そして、風が止むとその声が言った。

「僕は咳切虫さ」

「咳切虫はしゃべらないだろ?」

「そんなことはない。君は無知だね」

 この言葉で少女はムッと唇を結んだ。そして、「じゃあ、あんたはどのカケラなの?」と言って窓の外に力いっぱい咳き込んだ。

「ゴホン!」

 本物の咳切虫たちが少女の勢いのある咳を追いかけてあのひものような半透明な体を連ねていく。そして、剣のような結晶の細い集合が出来上がったのだが、少女の低下した視力はその文模様をはっきりととらえることはできない。

 「さあ、さあ。どれなんだい?」少女は機関銃のように咳を連続して吐き出した。「ゴホゴホゴホゴホ……」

 「や、やめてくれ!僕を飛ばさないでくれ!」と男の子が困っているのがおかしかったのか少女はついに笑い出してしまった。霞んだ展望台の空を無数の咳切虫が行きかって半透明なひび割れをあちこちで現象させている。

 「ごめんよ。僕は咳切虫じゃないんだ」

 雲が太陽を隠した。陰と一緒に涼しい風が窓から展望台に吹き込んできた。少女は外壁を背にしゃがみ込んだ。そして、袖口から胸に風の涼しさを受け入れながら「わかってるよ」と言った。

 返事代わりに内壁の円みの向こうから現れたのは暗いフードを深く被った男の子だった。

 「僕はガラス屋の息子さ。君にこれをあげるよ。」そう言ってフードの男の子は暗い袖を少女に差し出した。袖の上には大きな丸眼鏡が乗っていた。少女はその丸眼鏡を受け取った。耳掛けが少女のこめかみのあたりをしばらく戸惑って、彼女の長い横髪に分け入っていく。「うわあ」眼鏡をかけると少女は思わず声を上げた。そして、眼鏡酔いでふらつきながら窓に手を突き街を見晴るかした。

 山脈から手前に孤立した大王ウミモグリの抜け殻が雅な宮殿を冠と戴いている。その冠を飾ろうと雲間から光の帯が降りてくる。光の帯は花粉の霞に滲んで幻想的な雰囲気を宮殿にまとわせる。「きれいだ。ねえ、知ってる?あの宮殿って誰も住んでないんだよ」と少女は後ろを振り返った。フードの男の子はいなくなっていた。ただ、その代わり内壁に立てかけられた黄色い傘が残されていた。「生きてたのか」と少女はその黄色い傘を手に取って布についた染みを撫でた。

//////

 コツコツコツ……少女が階段を降りる時の硬い靴音が暗闇をかみ砕くようだった。螺旋に巻かれた手すりの柱子を鉄琴みたいに黄色い傘で撫でて少女は遊んだ。すると、何か湿ったぬくもりに抱き着かれて少女は危うく足を踏み外しそうになった。まるで、暗がりそのものが少女の肌を嘗めあげるようなじめじめしだ。少女は傘でその湿り気を斬り捨てて展望台の出口から飛び出した。

 少女は逃げるように丘を下った。そして、花壇を曲がって一息つくと再びぬくい空気の塊に抱き着かれた。今度は花粉交じりのべとつく抱擁だった。

 「いい加減にしろ!」

 少女の厳しい拒否にべとつく空気はしゅんと萎んで少女の肌から引きはがされていく。まるで、汗が乾くように呆気なく。

 そして、今度は花壇の花がドミノ倒しみたいに傾いて透明な何かが逃げていく道筋を描いた。

 これは、温度の幽霊だ。犬みたいに人懐っこくて大好きな人に抱き着いてしまういたずらっ子。この温度の幽霊は良く少女に付きまとうのだ。

 「またあんたなの?」と少女は拳を腰に当てて唇を尖らせた。すると、壁の陰に隠れていた花びらが渦を巻きながら光の下へ出てきて少女をからかうように舞を踊った。


 「おーい」と少女を呼ぶ声がする。少女は振り返りざまレンズ酔いでよろけた。「おっと」と少女の肘を支えたのはあの燕尾服を着たおじいさんだった。妖精のギアがはあはあと息を整えるのを少女はじっと待ってやった。

 「あ、あの。ほんとうにごめんなさい」とギアは深く頭を下げて頭を下げすぎてくるりと空中で一回転した。「もういいよ。」と少女は言って眼鏡の淵をつまんだ。「それ、どうしたの?」とギアが恐る恐る少女の肩に近づいた。「もらったんだ」と妖精が少女の肩にちょこんと座るのを受け入れて少女は歩き出す。

 「あ、そうだ」と妖精は許されたうれしさで舞い上がる。「カラーパ狩りに行こうよ」


 「君もいっしょに行こう!」

 少女が叫んだ。街の人たちがいぶかしげに少女を見て妖精が慌てて彼女の髪を引いた。「どうしたのさ。いきなり。」「友達になったんだ」「え?」「鬼の子と」「そうか」と言ってギアは少女の髪の毛をロープ代わりに体を支え思いっきり背を反らせて空気をいっぱいに吸い込んだ。そして、「一緒に遊ぼう!」と妖精らしい明るく純粋な心で叫んだ。街の大人たちは何か害虫を見るような悪意ある目をむけてきたが少女もギアもそんなことはどうでもよかった。


 「お前も来るか?」と少女は踊っている花びらに向かっていった。すると花びらは空中に舞い上がって消えた。そして、花粉交じりのぬくもりが少女に抱き着いてくる。「じゃ、みんなで行くか。」「私もご一緒しても?」老人が杖を持った方の腕を腹で折りたたみうやうやしく頭を下げた。「いいよ。」と少女は黄色い傘を槍の柄のように肩に乗せた。


 「バフン」と激しいくしゃみの音に巻き込まれながら花吹雪が起こった。木に張り付いていた蛭がくしゃみをしたのだ。少女は蛭の柔らかい横腹を傘の先で突っついた。すると、蛭が嫌がるみたいにはらをへこませてその凹んでできた空間に黄色いビー玉みたいな模様があった。色霊(カラーパ)だ。「はい。一個目見っけ」少女は得意げに傘で黄色いビー玉を突っついて胸を張った。「そうだ、チームに分かれて探そうよ」と提案したのは誰だったか「いいね」と妖精のギアが舞い上がった。すると「うわあ」と妖精の声がした。空にエイが飛んでいたのだ。「お前生きていたのか!」と妖精はエイのしっぽを追いかけて空中で舞を踊った。

 

 「じゃあ、俺と爺さんとそしてお前が大人組だ」と妖精は何もない空中に指を突っ込んだ。するとギアの小枝よりも細い腕がふわりと浮いた。ぬくもりの塊が返事をしたのだ。「そして、君と絨毯とが子供組だ。」ギアはそう言って少女とエイを順番に指さした。「お前も子供だろうが」と少女が黄色い傘で地面を突いた。ギアは腕を枕に空中で寝っ転がり小さい体をぬくもりにうずめた。「俺は人間なんかよりずっと長生きだい」と妖精は得意げだ。

 「鬼の子は私のチームだよ」少女はそう言って周りをぐるりと見まわした。レンズの厚い歪みにまだ慣れきれず少女は何度も何度も眼鏡を浮かせて目をしばたかせる。「わかった」少女が眉毛を押して疲れ目を癒していると誰かが返事をした。

 「よし!カラーパ狩り開始だ!」とギアが妖精らしい冒険心で草原のある西へと向かった。おじいさんと温度の幽霊がゆっくりとそれに従った。

 

 花壇に残された子供組のリーダーは腕を組んだ。「さて、どこに行こうか。」と少女が地面に向かって相談すると「宮殿に行ってみたい」と声がする。しかし、その声は少女に届いていなかった。「抜け殻の山脈は遠すぎるか……じゃあ、南の石馬川はどうだ。危ないか」と少女がぶつぶつと言っているとエイが彼女の肩を尻尾で突っついた。「なんだ?」と少女が顔を上げるとエイは尻尾を東へ向けた。エイのしっぽは孤立した大王ウミモグリの抜け殻の頂を貫いている。「わかったよ。宮殿へ行こう」

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 少女はエイのしっぽを手綱のように引いて歩いていると高架廊の高い窓から美しい女の人がこちらに目配せをしてきた。その笑顔から隠れるように少女は高架下に潜り込む。高架を支える柱の暗い染みを少女は睨んだ。そして、その柱にこびりついた灰の塊のようなものを傘の先で突っついて剥がした。すると、剥がれた空間に赤い粒粒のカラーパを見つけた。「あったよ」まるで、柱に暗いできものができているみたいだった。

 「こっちも見っけ」と声がした。少女は振り返ってフードの男の子の隣にしゃがみ込んだ。男の子が植木鉢をずらしてできた地面の暗い傷に瘡蓋みたいに黄色い膜状のカラーパが被さっている。「これで、私たちは三個目だ」と少女はポケットからメモを取り出して簡易的な地図のしかるべき場所に×印を二つ付けた。

 少女はふとペンとメモを下ろして、フードの少年の顔を覗き込んでみた。鬼の少年はおでこのできものみたいな角を小さく揺らして喜んでいる風だった。少女が声を掛けようとすると鬼の子の赤暗い肌がメガネのレンズで歪むみたいに潰れた。

 鬼の少年が消えた後も、少女はたった一人で暗い高架の陰にしゃがみ込んでいた。「行こうか」と少女は立ち上がってエイのしっぽを引いて高架下を後にした。  

 日のもとに出た彼女の背で植木鉢がガタガタと高架下の影に戻っていく心霊現象が起きたが彼女はそれを知らない。


 カラーパ狩りの本質的な趣は秘密性だった。例えば、物陰に隠れている赤いカケラとか枝先に貫かれ花に擬態している桃色の染みとか穴に水たまりのように張っている青い円とかだ。そういう秘せられた色を見つけるのがこの遊戯にとって最も大事なことだった。

 「ありましたよ」老人が石ころを杖でどかしてできたくぼみに紫の宝石のようなカラーパが嵌っている。妖精のギアは老人のところに飛んできて「よし、でかしたぞ!」と偉そうだ。すると、今度はぬくもりの塊が妖精を包んでそして剥がれて行った。ギアは肌から離れた温かみを追いかけた。ギアが飛んで行った先には川の落差が作る小さな滝があった。そして、その滝の裏側に赤い水晶玉のようなカラーパが時折しぶきに濡らされながら浮かんでいる。

 「やった!二個目だぞ」とギアはメモを重たく持ち上げて魔法で地図を書き込んでいく。「私が書きましょうか?」と老人が優しい提案をした。「いや、いいよ」とギアはメモの重さを支えるためいつもの倍以上羽ばたきを速めている。

 「わかりました。それでは」と老人はメモに指を添えて何やら呪文を唱えた。するとメモはまるで塵のように軽くなりおまけに浮力までついた。ギアは浮かぶメモの背に抱き着くようにして羽を休める。「ところではあ」とギアがメモの背で片頬を潰したままだらしなく尋ねる。

 「あんた、何者なの?」

 「私ですか?」老人は杖を持ち換えて続ける。「私は、しがない魔法使いですよ」

「魔法使い?」

「ええ、そうです。」ぬくもりが帰ってきてギアの細い枝のような手を持ち上げた。「でもさ、魔法って傷とか痛みとか何か自分の身体を犠牲にしなきゃだろ?あんたの魔法は人間の度を越えているよ」風が吹いて老人の回答を攫って行った。ギアは一回り声を大きくしてもう一度訪ねた。

 「海でのことを聞いているんだ」

老人は風が止むのを待って答えた。

「モナドですよ。」

「はあ?」

「すべては決められたことなのです。」老人はそう言って妖精たちに背を向けた。

「さあ、行きましょう。負けてしまいますよ」

「はあ」と妖精は羽休みを終えてメモとぬくもりを引きながら老人の背を追った。

//////

 少女たちは大王ウミモグリの巻爪を見上げていた。爪は抜け殻のほんの先っちょの部分でしかなかったが少女たちはそれを息を切らしながら登らなければならなかった。爪の丸みを帯びた壁には線状の溝がいくつも引かれていてその溝を手掛かり・足がかりとしてなんとか少女はよじ登った。そのあと少女たちの行く手をふさぐのは大王ウミモグリの節足だった。足と言っても死骸の足だ。それは地面に伏せられた状態ではあるがそれでも、よじ登るには滝のように汗を流さないといけないだろう。

「もういやだ!」と最初に投げ出したのは少女だった。少女は頭上で渦のように旋回しているエイのしっぽを掴もうとして駄目だった。

「なんで乗せてくれないんだ!」と空気を握った拳をわなわなさせて少女は言った。エイは少女をからかうようにとんぼ返りをして見せた。

「もうやめよっかなあ。カラーパ狩り」と少女が丸い地面に腰を下ろしたとき崖の上から「あったぞ」という報告と共に蔓草が降りて来た。少女が倦んだ気まぐれでその蔓草を掴んで引っ張ると地面の丸みから少女が消えて黒い影だけが残された。その影は空へ釣り上げられている少女のものだった。

 「うわあああ」黒い影は見る見るうちに小さくなって消えた。釣り針を噛んだ魚みたいに空へ誘拐されているさなか、少女が唯一感覚したクオリアは展望台のある丘を襲う大火球の赤だった。

 「いてっ」と反射的に少女は痛みを訴えた。

 「大丈夫?」と少女を抱いている者の顔がこちらを覗き込んでくる。「いや、あんまり痛くないかも」と言って少女は鬼の少年の火傷したみたいに赤黒い首に腕を回した。少女は鬼の子の首にしがみ付きゆっくりと降りた。

 「ぐしゃり」と乾いたカケラを踏んだような足ごたえがあった。

 「さあ、ここは大王ウミモグリの脇腹だよ」鬼の子がそう言って手のひらで行くべき道を煽った。

 「ぐしゃり」

 再び少女が踏んだのは日ざらしの死骸の肌だ。

「ぐしゃり」

 再び少女は踏み出す。少女はまるでこの小気味の良い音を鳴らすために歩いているみたいだった。

 風が吹いた。エイが少女と鬼の子のそばを通り過ぎたのだ。エイは断崖にできた三角形の溝を帆のひらひらで撫であげていく。それはずっと向こうで折れ曲がりウミモグリの背中へとつまり山の頂上へと登っていく坂だった。

 「ぐしゃり」という音が汚れと一緒に断崖から転がり落ちてずっと下で風にもまれて消えた。ここから落ちたらひとたまりもないだろう。少女は思わず鬼の少年を抱きしめた。「大丈夫。壁に沿って道を登るんだ」鬼の子の勇気づけを邪魔するかのように天音がした。それは暗闇で口がふさがれたような籠った星の歌だった。歌が持つ鈍い輝きと一緒に鬼の子の姿が断崖の影と溶け合って消えた。


 「ごくり」と少女は喉につばを飲み込んで足元を確かめるように踏んだ。

 「ぐしゃり」と死骸の表皮が乾いた音を立てる。少女は壁に胸をべったり貼り付けるようにしてにじり寄るみたいに断崖の溝を渡る。エイは少女を驚かすように帆で煽ってくる。もし少女が足を踏み外してもエイの助けは期待できなかった。じりじりとした緊張感で少女はついに斜路の折り返しに至った。その時だった、断崖にある風の形の傷跡が少女の手と一緒に剥がれた。そして現れた穴から突風が少女の胸を押したのだ。

 「うわあ」少女はバランスを崩して弓なりに仰け反った。少女の後頭部ははるか下の地面を見た。頭の後ろに目がなくてよかった。そうでないと少女はもっとパニックになって落ちてしまったかもしれない。少女は何とか体勢を持ち直し、膝に手をついて息を整えた。

 「はあはあ」と少女の息がかかる壁の剥がれたくぼみに紅い火を凍らせたようなカラーパが煌めいていた。

 「4つ目」とつぶやく少女には喜ぶような余裕はないだろう。

//////

 「こっちだ」とフードを被った少年が壁を叩くと巨人の欠伸みたいに穴が開いた。大王ウミモグリの脇腹に穴が開いたのだ。風が少女たちより先に穴の中に潜り込む。

 「さあ、腹の中に入ろう。」という言葉と一緒に少年のフードが風にさらわれてしまった。少年が帰り血を浴びたみたいな赤い肌が少女の目にさらされた。すると、まるで壁に空いた穴がろうそくの火を吹き消すみたいに鬼の少年は見えなくなった。今はただ、少年の赤い笑顔が残像のように少女の脳裏に焼き付いているだけだった。その残像を切り裂いて洞窟の中に黒い影が入っていった。エイが少女に先んじて大王ウミモグリの脇腹に入っていったのだ。

 少女は洞窟の淵を掴んでこっそりと中を覗き込む。「どくん」とまるで巨人が銅鑼を力いっぱい叩いたみたいな震動が伝わってきて少女の鼓動を脅かす。少女はその揺れに腰が抜けそうになったが、入り口の淵を握る手に力を込めて再び立ち上がった。

 真っ暗な洞窟の中では黄色い傘が役に立った。海の灯りが傘の布に少し残っていたのだ。少女は傘の先で足元を探しながら暗闇に身を進めていく。「どくん」再びあの震動がした。そして震動を追いかけるように光の波が打ち寄せてくる。波はまるで洞窟を調べているみたいに広がる光の波紋だった。光の波は少女を飲み込みそして背後の闇へと消えた。光の波に襲われている中、少女は少し手前に少年がいること気が付いた。

 「ねえ、どこまで行くの?」と少女が聞いた。何かを待つような間の後に答えが返って来る。「光の波の出どころを探そう」少年の返事に合わせるように再びあの震動が光の波を連れて来た。今度は津波のように輝きの軍勢が押し寄せてくる。少年の黒い影が肘を縦に差し出しながら光の軍勢に立ち向かう。

 眩さが脳を直に殴りつけてくるような眩惑ゆえの頭痛に耐えながら少女は少年の影を追った。

 「この先に、抜け道があるよ」光の津波が収まり再び暗闇が少女を飲み込んだ。しかし、少女の眼はくらやみといっしょに光に焼かれて真っ赤に燃えるようだった。少女は膝を抱えてしゃがみ込み目の傷を瞼で癒した。染みるような痺れが瞼の神経を伝って全身に広がっていく。そして、しばらくじっとしていると落ち着いた暗闇が帰ってきた。視界の炎も消えた。少女は黄色い傘を杖代わりにして立ち上がる。

 少女の回復を待っていたかのように少年の声がする。

 「こっちだよ」

 暗闇に刻まれる足音のリズムを追って少女は歩いた。そして、ついにほの明るい裂け目が少女の前に現れた。その裂け目にもたれ掛かるようにして少年が小石で壁を傷つけている。少年は少女に気が付いて小石をこぶしの中にしまった。

 「中を見てみなよ」鬼の少年の下あごのとんがりが裂け目の中を指し示す。少女は裂け目の淵を掴んでその中を覗き込んだ。

 「どくん」と震動がする。少女はその震源に直に触れている。少し遅れて少女の手のひらを光の波が推した。今度はささやかな波だった。「生きているんだよ。この抜け殻は!」鬼の少年の興奮したような声が少女の手のひらを後押した。すると、少女の手のひらが大岩に沈み込みその大岩が熱を帯びて再び震動した。少女は足元から揺さぶられてこけそうになる。その肘を鬼の少年が支える。再び遅れて光の波がやってくる。その光源は少女たちの目の前にある大岩に閉じ込められている。

 「大王ウミモグリの心臓……」そうつぶやく少女の放心したようにさまよう視点は本当にたまたま青い隠れカラーパを捕らえた。それは心臓の収縮を刺し続ける氷の刃みたいな霊体だった。


//////

 一方、ギアは老人の肩に身を預けて羽を休めている。草原の果てしなさがこの妖精から潤いを奪っていた。ギアは舌をだらしなく垂らして水気のある空気を少しでも多く体内に取り入れようとした。

 「見つからはいなあ」と舌を垂らしたままギアが弱音を吐いた。

 「殺風景ですからねえ」と老人がギアに同意した。実際のところは、草原に星空をまぶしたみたいにカラーパの塵は煌めいていたのだが、そういうのは隠れカラーパとは言えなかった。なぜなら隠れカラーパに必要なのは意外性を満たしていないからだ。

 いつの間にか草の背丈が伸びてきて老人は腰まで草陰に浸かっている。風が吹いて草のなびきが波となって押し寄せてきた。擦れあう草の音が風に乗ってやってくる。ギアはその湿った冷たさを全身に浴びてそうして飛び上がった。

 「もうカラーパ狩りは終わりだ!」ギアはそう言って風に逆らうように空へ登っていく。

 「俺にはやらなければならないことがある」ギアを追いかけて来たぬくもりがギアを境に風とぶつかって渦を作った。ギアは渦の眼になってぐんぐん空へ登っていく。

 「墓荒らしを捕まえるんだよ!あの海で見た島の!」

 老人の背の高い帽子が今は緑の波に埋もれる黒い点だった。ギアはそれほど高いところまで舞い上がっていた。黒い点になった老人はついに消えてしまった。と言うのも突如現れた大きな影に草原も老人もギア自身も全てのみ込まれてしまったからだ。ギアは視界から緑を奪った影の主を確かめようとくるりと羽を下に向けた。

 レンガの壁がギアのすぐ上を威圧しながら滑っていく。そして、壁の窓が現れて精神的な吸引力をギアに対して発した。妖精は灯り中毒の蝶々みたいにその窓に吸い寄せられていく。そしてギアがその窓の枠に手を触れた時、「ギア!」と彼の名を呼ぶ声がした。


 

 

//////

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 再び大岩が収縮してその岩の凸凹から青いカラーパがその刀身を露わにした。そして「どくん」と大岩が脈打って固く膨らみカラーパの鋭い切っ先が大王ウミモグリの心臓を刺した。とはいってもカラーパは色の幽霊だから心臓がこの刃で傷つけられることはありえない。しかし、それは妙に痛々しい印象を見る者に与えた。鬼の少年は胸を抑えて壁を握った。鬼の怪力で壁がボロボロと崩れた。

 「どうしたの?」と少女が振り返り光の波を背にした。

 「いや、なんというか。飲み込まれそうで不安なんだ」マグマが炎を焼くように、津波が波を食うように、少年は自分の心臓の小さな鼓動が大王ウミモグリのそれに飲み込まれてしまうような追い詰められた気持ちになっていた。

 「出ようか。ここ」と少女が握った彼の手がぬくもりを受け取って彼の不安を和らげる。

 「どくん」大王ウミモグリの心臓が再び鳴った。それでも少年は自分の鼓動を聞き失わずにすんでいる。

 宙に浮かぶ氷の刃の取っ手から想像上の線を伸ばしていくと洞窟の天井に月のカケラのようなカラーパがあることに少女は気づいた。そして、その黄色いカラーパのすぐ下に青りんごが浮いていてそれを出口が食べる寸前だった。

 「こっちだ」少女は少年の手を引きその青りんごを腹から食って背中から吐き出す。鬼の少年はつんのめりそうになった鼻先にその青リンゴが現れたものだから少しびっくりしてしまったが何とか踏ん張ってこけずに済んだ。少年にとっては少女の手のぬくもりがこの暗がりを照らす道しるべだった。

 少女は傘を開いて少年にその取っ手を握らせた。傘の布に染み付いた海の灯りが暗い壁をでこぼことほの赤らめる。

 少女は少年の手を握って傘を前に傾けさせた。すると、傘の破れ目から黒い石ころが見える。少女が少年のこぶしと一緒に傘を前に突き出すと傘の破れ目をその黒い石ころがすり抜けた。その石ころはカラーパだったのだ。

 その石ころがまるで針金で吊るされているみたいに紫色のカラーパが細く長く上へ伸びている。

 少女は高い暗がりをにらんだ。そしてそのまま傘を閉じようとしたとき小さな抵抗にあって少女は視線を落とした。自分の手のひらが少年の手のひらを固く握りしめている。止まった時間の中、少女の耳だけが海よりも赤くなっていく。少女は少年から傘を奪って自分の耳に押し当てた。色をごまかそうという彼女の気持ちを察して少年はどぎまぎとした。

 甘さと酸っぱさの混じった気まずい膜が少女と少年から空気を奪っていく。「あ、あの。どうやって登ろうか?」と少年がおでこの角を指で掻き、はにかむ。そして少年は二回傷つくことになる。まず最初に、少女の反応が帰ってこなかったから。そして次に鬼と言う種族の呪いが少女から自分の姿を奪ったことに気が付いたからだ。

 少女は首をきょろきょろとして不思議そうにしている。自分を探してくれているのだと思って少年は胸が痛んだ。自分は世界から嫌われているんだと思った。少女の差し伸べられた手が自分の肩に当たっても少女はそれに気づかない。彼女の邪魔をしてはいけないと思って少年は暗がりに身を眩ませる。


 「先に行ってるよ」

 少女は暗闇に言伝を預けた。彼女は傘を畳んでその切っ先で暗がりを突き上げた。どうやら少女の真上は吹き抜けになっているらしかった。

 風がしょっぱい匂いと一緒に降りてきた。もしかしたら、陽が傾き始めているのかもしれない。少女は傘の先で暗い吹き抜けをまさぐった。傘に染み付いた海の光が筒状の壁を赤らめる。

 カラーパだ。壁は巨人の乾いた喉みたいでその凸凹に宝石のような桃色のカラーパが埋まっている。

 少女は閃いたというように瞳を大きくして「兵隊さんだ!」と叫んだ。

 すると、吹き抜けの暗がりから風を切るような音が迫ってきてその音が黒い影と一緒に降りてくる。

 それはエイだった。

 エイがご主人を探しておろおろしている。少女はその背中のひらひらにしがみ付く。エイは傷ついた風みたいな鳴き声で鳴いて身を翻した。少女は振り落とされないように必死でエイの背中に噛り付く。エイは痛みからパニックになって暴れ馬みたいに壁にぶつかりながら吹き抜けを登っていった。

//////

 暗闇から抜け出すと外は思いのほか眩しくて少女は目と一緒に手のひらまで驚くようにあっけなくエイの背から剥がされた。日は三時に傾いて少女の影を斜めに伸ばした。

 少女は目を閉じたまま柱のような丸みのある壁にしがみ付いて立ち上がる。少女は柱に刻まれた複雑に入り組む溝を指でなぞりながら腰のひりひりとした痛みと目のじんじんとした痛みが引いていくのを待っている。

 天使の内緒話が聞こえる。耳がこそばゆくなるような温かくてまぶしい声。天音だ。

 ギアやおじいさんやぬくもりの幽霊もエイもそして暗闇に閉じ込められた鬼の少年も万人が筒抜けの内緒話に耳を傾けているだろう。きっと少年は生きている。

 少女の眼が光に慣れた。少女が抱きしめているのは柱の蔓草文様だった。蔓の出っ張りを下になぞると柱が床に埋まっている境目に一匹の牛が絵の草を食んでいる。その牛を見つけた時、世界の全てをくすぐる天使の声が止んだ。

 少女は牛の背中を撫でた後床の石畳の継ぎ目に指を這わせる。継ぎ目の溝には乾いた砂が挟まっていてそれは少女の人差し指の腹で転がっていく。そして、少女は指の潤いにくっついた砂粒を指鳴らしの要領で遠くへ投げた。砂たちは思いのほか遠くへ飛んだが固くて大きな何かにぶつかって落ちた。砂がぶつかったのは大きなアーチ形の鉄扉だった。扉に空いたわずかな隙間に赤い宝石のようなカラーパが覗いている。まるでそのカラーパから重力でも発されているように風が扉の隙間に入り込んでヒュウヒュウと擦れるような音を立てている。肌寒い塩っ気が風に運ばれてきた。少女はその風と一緒に鉄扉の隙間に身を差し込んで宮殿の中に入っていった。


 入ってすぐの円形のエントランスに青い宝石のようなカラーパが浮かんでいる。そして二対の鎧がそのカラーパを挟んで向き合っている。まるで、この円い玄関を舞台に決闘でも始めるかのような光景だった。

 「美女の魂だ」少女はぼんやりとした呟きでその青い宝石を名付けた。

 少女は右の方の鎧の頭を黄色い傘で突っついてみた。すると、鎧がみしみしと音を立てて揺らいだ。 

 だから少女は反射的に鎧に抱き着いた。

 「ふう」

 少女が支えた甲斐もあって鎧は倒れずに済んだ。しかし、バリィンとガラスが破れる破滅的な音が少女を脅かして心臓を突かれたみたいに少女は叫び鎧を手放した。すると、重たい鎧が前に倒れて青い宝石に頭突きをくらわす。鈍くて重たい音と一緒にガラスのかけらが落ちてくる。少女はとっさの判断で黄色い傘を開いた。傘の布をぶすぶすとガラスのかけらが突き刺す。そうしてできた裂け目から黒い影が狂ったように空中で踊っているのが見えた。

 地獄のワンシーンのような破壊的な音がようやく収まって少女は傘を傾けて惨事の後を覗いた。倒れた鎧が残した空間に黄色い骨のような質感のカラーパが浮かんでいてその尖った先が階段を指している。そして、立ったままの鎧が勝者の威風で敗者を見下ろし”美女の魂”を抱いているようだった。そのすぐ上をエイがぐるぐると渦を巻くように旋回している。

 階段はエントランスを円く抱くように二つに分かれている。少女は黄色いカラーパの指すほうつまり負けた鎧が塞いでいた階段を上っていった。上がり切ると今度は半円の入り口が壁に空いていてそのずっとむこうまで廊下が伸びている。まるで、半円の入り口が舌を限りなく延ばしているみたいに赤いじゅうたんが廊下のずっと奥まで敷かれていてその上を色とりどりの宝石が等間隔に続いている。それらのカラーパがつなぐマイルストーンをたどるようにして少女は赤いじゅうたんに踏み出した。

//////

 少女はまず青い勾玉のようなカラーパを踏んだ。次に少女は浮かぶ桃を腹から食って背中から吐き出す。その次には少女は黄色いアーチを潜った。廊下はまるで少女を楽しませるカラーパの展覧会だ。

 ふと、窓から滲んだ光が差し込んできてしょっぱい匂いを赤いじゅうたんに焼き付けている。陽が傾いてきたのだ。風が香りの粒子を少女の鼻腔に運んでくる。そして、天音がした。それは陽を浴びる花びらの歌だった。少女はまるで笛の中に閉じ込められた小人だった。

 天音が止むと少女は再び歩き出す。緑の三角形が窓から差し込む夕日で黒ずんでいる。その横を通り過ぎて少女は紫のカラーパの前で立ち止まった。ついに廊下も突き当りだった。紫のカラーパは肋骨みたいな形をしていてその開いたとげが少女の行く手を阻んでいるようだった。少女は体を屈ませてその紫色の肋骨に触れないようにくぐった。

 そして、突き当りを曲がって右に琥珀の宝石のようなカラーパが浮かんでいる。少女はその蜜のような妖しい魅力に引き付けられるように廊下を右に曲がる。少女の屈まった背の後ろで何か黒い影がうごめいた。少女はその気配に気づくこともなくあたりをきょろきょろと見まわしている。少女は天井から壁そして床へと視線を落とし何かを探した。

 「カラーパはもうないぞ」

 暗くて重たい声がする。擬人化された死はこんな声を出すのだろう。ぎょっとするように少女は振り返る。廊下の暗がりに誰かがいる。その誰かは言葉をつづける。

 「形あるものはいずれ壊れる。」

 少女はそのセリフの虚無的な意味を振り払うように黄色い傘で紫の肋骨を薙いだ。

 「破滅の時が来る」

 声の主が暗くせき込む。咳切虫が咳を追って作った樹状の文様ごと少女は黄色い傘で闇を薙ぎ払った。傘に染み付いた海の灯りに照らし出されたのは鉄の兜だった。兜の下にしわくちゃの顔が虚ろな笑みを浮かべる。それは脚のない兵隊だった。

 「生きていたのか?あんた。」と少女が傘の先で兜をずらした。現れた二つの瞳が海色を帯びる。

 その時だった。地鳴りがして廊下が少女を大きく揺さぶる。紫の肋骨が少女の背中に何度も抱き着いては離れてを繰り返す。少女は傘にしがみ付いて倒れないでいるのがやっとだった。黒い影が少女の頭上を通り越して足のない兵隊の方へ向かった。

 「時が来た!モナドの時が!」

 エイが主を背に乗せて窓の外から飛び出したのだ。

 兵隊の狂気の叫びが遠ざかっても揺れは一向に収まらなかった。天井がミシミシ泣いて塵を少女の背中に降らせた。「ズシン」と激しいひと揺れで少女の背はあっという間に天井に叩かれてそうしてすぐに廊下に落とされた。それから、震動は穏やかになった。

 「ゴホゴホ」と少女が痛みと一緒に吐き出した咳をひし形の連なりが追いかけて消えた。少女は背中に手を回して痛みをかばいながら黄色い傘を杖代わりに廊下の突き当りに戻った。紫色の肋骨が少女の胸に埋もれたがそんなことを気にしている場合ではなかった。再び揺れが強くなり窓から刺し込まれる夕日の線が剣のように少女をけん制する。

 再び少女は傘にしがみ付いて揺れに耐えなければならなかった。歯を食いしばり屈まっている彼女の胸を緑色の三角形が貫いた。少女の瞳孔が大きく開いた。その瞳の丸い鏡の中でこの世の理が壊れていく。不動をその本質とする色霊たちが意志をもって動き始めたのだ。

 黄色いアーチが動けないでいる少女を無理やりくぐらせてやはり背後の壁に溶けて消えた。

 今度は浮かぶ桃が少女の胸を貫いた。まるで少女は血も痛みもなく色霊たちに殺され続けているみたいだ。

 最後に青い勾玉が廊下を滑ってきて少女の足の裏にゴキブリみたいに潜り込んでそして後ろへ捌けていった。

 そして、揺れは穏やかになった。少女は窓にしがみ付く。外の景色がカラーパと同じように流れて去っていく。世界の理は壊れていなかった。動いているのは世界ではなく少女の方だった。大王ウミモグリが動き出し宮殿ごと少女をどこかへ運び始めたのだ。


//////

 花の歌のような音鳴りは類的な恨みに沈む少年の心を幾分か癒した。少年は甘ったるくべとつく鼻水を人差し指で拭った後おでこの角を指で触った。角の発する温もりだけが暗闇で冷えた少年の身体を和らげる。それからしばらく少年は角を両手で覆っていた。まるで、風から灯を守るみたいに。

 そうしてしばらく少年は暗闇を背負って屈んでいた。すると、「どくん」と震動がして光の波が暗闇を薙ぎながら押し寄せてくる。光は空間を隅々まで調べ終わると消えた。暗闇が戻ってくると間を空けず「どくん」という震動が続いた。

再び光の波がやってくる。「どくん」光が空間を調べ終わる前に第二の波がやってくる。

 「どくん」「どくん」「どくん」「どくん」

 光の波がどぷどぷと間断なく押し寄せて暗闇は息継ぎするタイミングを失った。暗闇は光の海におぼれてしまった。まばゆいしぶきが鬼の少年の眼球を焼く。

 「どくん」「どくん」「どくん」「どくん」「どくん」「どくん」「どくん」

 少年が目を閉ざす最後に見たのは氷の刃が自分の胸を痛みも血もなく貫く一こまのクオリアだった。

******

 震動に揺さぶられ続けた少女の足腰はもはや片膝をついてうずくまることすらできなかった。少女は赤いじゅうたんにしがみ付いて廊下に突っ伏している。大きなひと揺れが床を介して少女の胸に突き上げてきて心臓の鼓動を止めようとした。

 びりびりと嫌な音がして少女は宙ぶらりんになった。少女がつかんでいる赤いじゅうたんが破れてしまったのだ。廊下そのものが時計回りに大きく傾いて少女の身体を回転の中に滑り落とそうとしてくる。

 少女は絨毯の破れ目に傘の柄を引っ掻けてぶら下がる。空間の傾きが大きくなって少女の足が投げ出されると同時に赤いじゅうたんが裂けていく。絨毯はまるで疲れた犬の下みたいにベロンと垂れ下がる。

 婦人の背中を開くように赤いじゅうたんが裂けるのと一緒に少女は降りた。今や壁こそが床であり床だったものが壁になった。宮殿の廊下が90度回転したのだ。床になった壁は自身を下顎、重力を上顎とし少女の足腰を噛んでやろうと待ち受けている。

 少女のつま先が床とキスするかしないかのギリギリで空間の傾きがくるりと転回した。少女のつま先は床を接点として鋭く弧を描き天井に投げ出される。そして、赤いじゅうたんは少女の描く遠心力で引っ張られ膜のように天井に向かって膨らんだ。今や床が天井で天井が床だった。赤いじゅうたんが少女の重みに加わる重力で大きく膨らみやはり裂け目も広がっていく。少女は黄色い傘にしがみ付いて揺れていたのだがその足先は床となった天井を何度もかすめていた。ビリリィと赤いじゅうたんが破れて黄色い傘の柄が外れても少女は思いのほかすんなりと着地した。不思議なことにもう揺れは収まり少女は廊下を自由に歩くことができた。

 天井となった床から赤いじゅうたんが舌のようにベロンと垂れている。少女はその舌を黄色い傘で掻き避けて窓の外を覗いた。逆さになった離れ塔のとんがり屋根がカラーパと暗い地面を引っ掻いている。そうしてできた地面の破れ目を赤い光が塩っぽく焼いてそこにいる者を照らし出す。それは、少年だった。まぶしいのか肘で目を隠している。

 天音がした。氷を解かす春のような温かい音だった。天音が止むのを待って少女は窓から身を乗り出し叫ぶ!

 「手を伸ばせ!」

//////

******

 瞳の火傷のような痛みが和らぐのを少年は待っていた。壁に腕を突っ込んで激しい揺れから体を支える。鬼の怪力で少年はピクリとも動かずに体を固定した。壁の中はなんだか生暖かい。埋もれたこぶしがその温かさに包まれて一体化していくような錯覚を少年は覚えていた。天音がした。温かい音で鬼の少年と壁は共鳴した。このまま全身を壁に預けて沈んでしまいたかった。音が止むと、ずしんと大きな揺れがあってそのすぐ後に声がした。

 「手を伸ばせ!」

 少年が瞳を開くと眩しさを掻き分けながら花が開くように手が差し伸べられた。少年は埋もれていない方の手でその手を掴んだ。すると、少年の壁に埋もれた腕が雑草みたいにあっけなく壁から引っこ抜かれ少年の足は暗闇から浮いた。少年はそのまま空へと飛び出した。自分の手を握って空へと引っ張り上げているのは少女だった。

 「もうやばいかも」という少女の身体が窓枠からずるりと滑る。少年はまだ生暖かさの残る手で窓枠を掴んだ。「もう大丈夫だよ」と少年は少女の身体をおでこで押し返して自分も窓の中へ這いあがった。

 少女と少年は膝を抱えて窓の下を覗き込んでいる。「いったい何が起こったんだ?」と鬼の少年は熱く火照るおでこの角を撫でながらそうつぶやいた。 肩に出来た角の形の凹みに指をうずめながらその凹みの間隔が均されていくのを待っている。


 「大王ウミモグリが動き出したんだよ」

 暗い地面が徐々に遠く小さくなっていく。そしてついに大王ウミモグリの隆起した背中がその相貌を窓の枠内に収められる。

 「僕たちがいるのはどこなんだ?」と少年があたりを見回した。天井から赤い布切れが垂れてきていて吹き込んでくる風になびいている。鬼の少年はその暴れている布切れの先を捕まえて千切った。布切れが窓から吐き出され小さい点になってその赤色は景色に埋もれた。

 「宮殿だよ。なんでか浮いてる。」

 「宮殿?」

 「そう。空飛ぶ宮殿」

 山のように隆起した大王ウミモグリの背中にある裂け目から暗がりがいくつかちぎれて飛び出してくる。その影たちは鳥の群れのように街へと流れ込んだ。

 窓はついに街の大部分を枠内に収めた。それほど少年たちを乗せた宮殿は高く浮かび上がたのだ。かつて、この宮殿を冠と戴いていた大王ウミモグリが街を轢き殺しながらこっちを追いかけている。大王ウミモグリの触覚がこちらに延ばされたが少年たちにはそれはまつ毛ほどの長さもなかった。

 「ほっ」と少女が息をつき垂れてきている布切れにしがみ付いた。「あんたもこれにつかまっておいた方がいいよ。」少年が角を縦に揺らすのを少女は目で追った。少年は少女よりも少し高い位置を掴んだ。少年の息が少女のおでこの髪の毛を揺らした。

 「ごめん」と少年が後ろに退こうとする手を少女がつかんだ。

 「君、名前はなんていうの?」少女の息が少年の鎖骨にかすかに触れる。少年は布を少し引き寄せて少女に息がかからないようにする。同じ布を掴んでいるから必然的に少女は少年に引き寄せられた。

 「僕は名前がないんだ」

 少女の瞳が開いた。少女は布と一緒に少年を引き寄せる。

 「じゃあ、私が名前を決めてもいい?」二人の今にも触れ合いそうな肌の隙間を星型のカラーパが一つ通り過ぎた。

 「ラセツだ。ラセツにしよう」

 「ラセツ……」と自らの名を少年が唱えた時大きな揺れが二人を揺さぶって少女が窓の外に投げ出された。少女の足の先がはるか下の街を何度も蹴りつける。少女がしがみ付いている布に裂け目が入ってその裂け目が広がっていく。がくんと少女が一瞬重力に足を引きずられた。少女の手をぎりぎりでつかんで少年は窓枠をもう片方の手で掴んで力んむ。


 少女は少年の腕にしがみ付きながら宮殿の壁を見た。離れ塔と宮殿をつなぐ連絡路が撓んで今にもちぎれそうだった。

 

 「手を強く握るんだ!」

 そう言って少年が少女を窓の内側に引っ張り込んだあと「離れ塔に移るんだ!」と少女は彼の手を引いて窓枠を蹴り廊下を曲がった。



//////

 「ラセツ……」と自らの名を少年が唱えた時大きな揺れが二人を揺さぶって少女が窓の外に投げ出された。少女の足の先がはるか下の街を何度も蹴りつける。少女がしがみ付いている布に裂け目が入ってその裂け目が広がっていく。がくんと少女が一瞬重力に足を引きずられた。少女の手をぎりぎりでつかんで少年は窓枠をもう片方の手で掴んで力む。

 少女はラセツの海色の腕にしがみ付きながら宮殿の壁を見た。離れ塔と宮殿をつなぐ連絡路が撓んで今にもちぎれそうだった。

 「なんか変だ!宮殿が壊れ始めている!」

 少女が危機をラセツに伝えた時危機に見舞われたのは少女の方だった。少女は足首を何かに捕らわれてはるか下へ引きずられているのを感じた。まるでいきなり少女が何百キロも太ったみたいに重たくなってラセツと少女がつなぐ手が千切れそうになる。

 「やばい。何かにつかまれてるよ!」と歯を食いしばりながら少女が自由な方の足でもう片方の足首を蹴りつける。少女の踝を掴んでいるのは舌のような質感の紐だった。その紐は少女の足のはるか下の大王ウミモグリまで繋がっている。

 ラセツは鬼の怪力で少女をつなぎ留めながらもう片方の手で傍らにあった黄色い傘を掴んだ。そして、その黄色い傘を少女の踝のすぐ下に投げつけた。傘の鋭い先が舌のような質感の紐に突き刺さり紐は少女から解けて焼かれた蛇みたいに踊った。そのすきにラセツは少女を引き上げる。

 少女がラセツの助けを借りながら窓の中に這いあがった時、はるか下で今は芋虫ぐらいの大きさの大王ウミモグリが立ち上がってもう一本の触覚を持ち上げた。その触角ははじめ産毛ほどの細さだったのが砂漠の残酷な太陽みたいに圧迫感を伴って伸びて来た。

 「危ない」とラセツは少女の手をさらに引いて窓枠を蹴って廊下の奥へと隠れた。さっきまで少女の足があった窓枠に舌のような質感の紐が這い上がってきて獲物を探している。少女とラセツは息を抑えて気配を消した。

 大王ウミモグリの触覚は結局少女たちを見つけられずに引き上げて行った。それは一瞬少女の眼鏡に触れるか触れないかと言うところまで迫ってきたがどうやら視覚は持っていないらしかった。

 「ふう」と息をつく間もなく激しい揺れがやってくる。ミシミシと四方から音がして塵くずが二人に降ってくる。少女は別の窓から頭を出して外の様子をうかがった。大王ウミモグリの触覚が大蛇のように宮殿にまとわりついて屋根やら壁やらのあちこちを締め付けている。そして、離れ塔だけが宮殿を置いてこの大蛇の毒牙から逃れようとしていた。宮殿と離れ塔をつなぐ連絡路は今やちぎれかけのへその緒だった。

 「離れ塔へ!」

 少女はそう叫んでラセツの手を引いて走り出す。さっきまで少女たちがいた廊下の突き当りがズシンと言う音を立てて潰れ顔のない大蛇が現れた。大王ウミモグリの触覚だ。触覚の先には少女の黄色い傘がいまだに突き刺さっていて傷口から血が脈打ちながら流れている。

  陽はますます傾いて夕日が空を塩っぽく焼いている。

 少女が少年の手を引いて宮殿と離れ塔の連絡路に来た時、壁や床は穴だらけで天井はボロボロだった。まるで風にさらされた吊り橋みたいに連絡通路は激しく揺れてそしてアーチ形に曲がっている。少女は穴を踏まないようにその廊下の盛り上がりを這い上って向こう岸にわたった。続いてラセツが盛り上がりを超えた時破壊音がしてさっきまで二人がいた宮殿側の天井が崩れ落ちた。少女はラセツを抱き寄せて塔の奥へと入っていく。

 連絡路はちぎれて塔は宮殿から切り離されて空へと登っていく。二匹の大蛇に締め付けられ捕食される宮殿がだんだんと小さくなっていく。ふと、破壊の中で宮殿の壁の時計のすぐ横の窓に明かりがともった。灯りは窓をスクリーン替わりに人影を映し出した。その人影は安楽椅子にでも座って編み物をしているおばあちゃんみたいにゆらゆら揺れた。大王ウミモグリの触角はそのおばあちゃんの影ごと宮殿を握りつぶしてしまった。

 顔のない大蛇の内の一匹が鎌首をもたげてこちらを見上げた。そして次の瞬間には酷暑の光線のような鋭さですぐ近くまで迫る。それは塩っぽく冷えつつある夕暮れ時の空気を切り裂きながら伸びてきて少年の踝を掴んだ。ラセツは蛇の首に突き刺さっている黄色い傘を掴んでその傷口をさらに荒らした。傷が広がり蛇の頭は首からちぎれ首から下は脱力し落ちて行く。少年の踝に残された頭の部分はこれ以上締め付ける力はなかった。

 大王ウミモグリの触覚は宮殿を街へ引きずり落した。宮殿は少女の家ごと住宅街を下敷きにしてしまった。どれだけの人が被害にあったか計り知れない。街は大惨事だった。大王ウミモグリがその破壊で街に大きな道を敷き、その大蛇のような触覚が奴隷に罰を与えるみたいに建物を鞭打ち次々となぎ倒していく。地面や道のあちこちにひびが入りその裂け目から赤い柱がいくつも噴きあがっている。

 少女とラセツはその惨事を塔の狭い窓から見下ろしていた。ラセツが足首に巻き付いた舌のような質感の紐を解いて捨てた。そのしなびた紐は風にひともみふたもみされながら街の惨状へと吸い込まれていく。

 その時だった。網膜に血を塗られたみたいに視界が赤く濡れた。

 「いやあああ」と少女がパニックを起こした。ラセツは少女の肩を抱いて彼女を落ち着かせようとする。突如二人が居させられることになった血色の世界は湿り気も鉄臭さもなくただ、夕方時の乾いた冷たさと塩っぽい星の輝きだけが濃くなっていくだけだった。

 塔の窓に展望台の円形の天井が見えて薄赤い視界の原因が分かった。

 「カラーパだよ」とラセツは少女の赤くにじんだ肩を揺らして見せた。

 「カラーパ?」と少女が窓を見下ろした。窓の血色の枠内を展望台の天井の輪っかが滑っていき窓の真ん中に来た。

 「僕たちはちょうど大火球のカラーパの中にいるんだ」

 ラセツの説明が腑に落ちたのか少女の息遣いが落ち着いていった。展望台が窓の枠外に捌けると同時に潮が引くように赤い世界は退いていった。


//////

 少女と鬼の少年を乗せた塔は街から見る見るうちに遠ざかる。惨劇は今や小さな円に過ぎなかった。塔は草原の空を威圧しながら滑っていく。街もその惨劇も広大な草原にとっては部分集合の小さな円に過ぎなかった。

 街と草原の位置関係は前者が後者に包括される二重丸の論理図だった。その二重丸は当然外側の円の方がはるかに大きい。そして、この草原には街で暴れているのとは違う穏やかな大王ウミモグリが暗い霞の中を夜空の星と同じぐらいの鈍間さで移動しているのだ。

 「ここの大王ウミモグリはさすがに襲ってきたりしないよね?」と少女が窓の外を覗き込み唾をのんだ。少女の瞳は疲れからか穴が開いたようでラセツはその瞳の虚ろに意識が吸い込まれそうになる。

 少女は壁と床の境目に腰をぴったりと押し付けて体を腰でL字に曲げた。少女は微動だにしていないが、少女の足は水平線の方角から空へと蹴りあがる。塔が逆ねじに捩れたから少女のL字の姿勢も閉じの方の鍵括弧に転じたのだ。

 少女は自分の足が蹴りつけている空に星が一つ瞬いたのに気が付いた。塩味星だ。

 「水曜日か」と鬼の少年が少女と同じ窓を覗き込んでそういった。少女の返事はなかった。少女はおへその上で手を組んでつまらなそうに星を見上げている。紫がちになった空の死のような冷たさの中を塩味星の輝きが染みわたっていく。冷たい塩っぽい香りが鼻孔にまとわりついてラセツを息苦しくした。

 「あのさあ」

 ラセツが口を開いた時、塔が再び逆ねじに捩れ始めた。

 「君は名前、なんていうの?」

 少女の足が空から落ちてきて彼女の腰は折り畳まれる。彼女は腿を抱えてひっくり返ったダンゴムシみたいに誰かが自分を転がしてくれるのを待っている。ラセツは赤いじゅうたんのびろびろを掴んで空間の回転に備える。空間の傾きと重力が少女を転がしてその後頭部を壁にぶつけさせた。少女もこれには堪えたらしく「痛ったあ」と涙目になりながら頭の後ろをさすった。少女の虚ろだった瞳に色が戻ってきてラセツは少しうれしくなった。

 「あのさあ、名前はなんていうの?」

「なんであんたに教えなきゃいけないわけ?」

 それはラセツの親しみを裏切るような冷たい返事だった。ラセツの心の傷が生み出した間が塞がるのを待ってから少女は再び口を開いた。

 「名前つけてよ。私があんたにしたみたいに」

 ラセツはうーんと下あごに指をあててうなった。彼は狼狽を心の中に押し返そうとしてその代わりに眼球が少しにゅるっと浮き出ている。少女の瞳が再び穴が開いたみたいに死んでいく。ラセツはどうしても少女の名前を思いつくことができなかった。寝不足の時に頓智や洒落を求められているみたいに、頭の中に霞が掛かって晴れない。そして、いざ無理やりにでも少女を名付けようとしたら上唇と下唇が針金で縫い付けられたみたいに閉ざされて開かないのだ。

 音が炭酸の泡みたいに耳道から抜けていくようだった。ラセツは何も聞こえなくなった。ラセツの心がパニックに溺れていく間に音が帰ってきた。

 「もういいよ」

 少女の諦めがラセツの心をさらに傷つけた。その傷の深さで浮き上がっていた彼の瞳が沈んでいく。ラセツは乱れた息遣いが静まるのも待たずに「ごめんねごめんね」と悔しそうに繰り返すのだった。

//////

 再び塔が回転を始めた。少女はシールみたいに胸から壁に張り付いた。レンガの暗い赤色が少女の心臓を凍らせるほど冷たく感じられる。少女は塔の回転に身を任せ例のごとく動きもせずに立ちから伏せに姿勢を変える。そして、回転が収まると膝をついて背を起こし口に手を添えた。

 「うっ」と少女は嗚咽を堪える。回転する空間のしつこさが彼女の三半規管を蝕んだのだ。少女は身をかがめ下の窓枠を掴んで息の乱れが均されるのを待った。

 その時だった。少女がつかんでいる窓枠に蝶々の羽が生えてきてパタパタと塩っぽい風を切っている。その羽には主が居てそれは明るい髪の妖精だった。

 「ギア!」と少女の瞳は輝いた。ギアは窓枠をよじ登っているところだった。

 一瞬だけ世界を汚す雑音がすべて洗い流されて純粋な時間がもたらされた。それも、すぐに止んだ。

 「あれれ?なんで君がここに居るんだい?」とギアは翼をはためかせ窓から足を浮かせる。ギアは幻でも見たような不思議そうな表情で首をかしげている。

 「街が大変なんだ!」との少女の訴えを賢者気取りの鷹揚で「まあまあ、落ち着きなさい」とギアは羽ばたき少女の肩にちょこんと座った。

 「一人ぼっちの大王ウミモグリが動き出して街をめちゃくちゃに踏みつぶしてるんだ!」との少女の知らせにからかわれていると勘違いしたギアは「またまたあ、カラーパ狩りに負けそうだからってそんな嘘はだめだよ」と言い少女の髪の毛を食んだ。

 「何言ってるの?私たちはすでに10個以上は見つけたよ。隠れカラーパ」

 「じゅっほ?」妖精は思わず口から髪の毛を吐き出してしまった。食べくさしの髪の毛が一本ひらひらと落ちて窓の下の草原の暗がりに吸い込まれていった。

 「とほろでさあ。あの鬼のほはどうひたの?」

 妖精は再び少女の髪の毛を食み始める。ギアは小さな小枝の先みたいな手で少女の髪の毛を三本も束ねて一気に頬張る食い意地の汚い妖精だ。

 「ラセツならここに居るよ。」と少女は壁を指さした。赤いレンガに染みのような影が揺らいだ。その影は水のようにレンガの継ぎ目に滲んで消えた。

「お前、ラセツっていうのか?」

 妖精が少女の髪の毛をぷつんと引きちぎってそう問うた。

 「痛い!」と少女は妖精の体を枝みたいに掴んで自分の肩から引き剥がす。

 「髪を引きちぎるんならもうあげないよ」と少女は口をとがらせて声なき鬼の少年に代わって答える。

 「そうだよ。あの子の名前は私がつけたんだ」

 

 もう街の惨劇は溶け切ったろうそくの灯よりも小さかった。塔はそのあともずっと空を浮遊し続けた。塔の緩やかな回転は相変わらず少女の三半規管を病ませ続ける。星が光で塩味を放ち少女のめまいに追い打ちをかける。

 「いつになったら地上に降りられるんだ?」少女はうずくまり「うっ」と口を押える。

 下界をむいた窓が咳き込むような音と一緒に結晶の連なりを塔の中に招き入れた。その「ごほごほ」というぶつぶつした音は夜を覆うほどになり、少女たちを乗せた塔は病人の幽霊に取り囲まれたみたいだった。

 「咳石だ。もうそんなところまで来たのか?」

 妖精がそう驚いて見せると再び塔が回転を始める。少女は床に寝そべり壁を蹴る。すると、少女が蹴りつけた壁が今度は床になり少女が寝そべっていた床が壁になり少女は寝たまま立ち上がる。

 「もう飽き飽きだよ」少女の声は死にかかっている。

 「もうすぐ終わるさ」とギアが声を張り上げる。

 「窓の外を見るんだ!」少女は妖精に言われたように窓の外を覗いた。夜を暗いカーテンが波打っている。その波の凸凹の盛り上がりの部分を星の光が暗く照らし出す。それは闇を無限に区切り続ける檻のような縞模様、牢獄のカラーパだ。

 「こんなところまで来たのか!」

 少女の驚愕が咳石のゴホゴホという咳き込みに埋められた。そして、咳切虫が刻む空間の幾何学的な綾がいくつもいくつも窓から入り込んできては消え入り込んでは消えを繰り返す。


 「山脈があるんだ」

 ギアがそう言ったとき塔は檻の隙間にその尖った先を入り込ませた。

 「揺れに備えて」

 塔は檻を貫いた。そして、どこまでも続く道の暗闇に分け入っていく。

 ドンと重たい音がして少女は揺れに耐えきれず窓の外に投げ出された。その様は捨てられる人形みたいにあっけなかった。

//////

 暗闇に浮かぶ音の泡沫は弾けるたびに「ごほごほごほごほ」と咳き込んだ。たぶん闇の底には病気の幽霊たちが溺れているのだろう。少女は風を切りながら闇と落ちて行った。彼女の頭蓋があの咳き込みの源に固くたたきつけられたとき、彼女の思惟も闇に溶けだすだろう。

 しかし、そうはならなかった。落下中の彼女の身体を誰かがぎゅっと抱きしめた。落ちるという現象が約束した死と言う結末をその誰かは破棄して見せた。激しい重たい音がして、地面から跳ね返ってくる衝撃をその誰かの骨肉が全て受け止めて少女まで届いた揺れはせいぜいさざ波ほどでしかなかった。少女は暗がりの中その誰かのぬくもりだけを頼りにその肉体を抱きよせた。

 「大丈夫なの?ラセツ」と少女が聞くと「鬼で良かった」とその誰かは笑った。

 ほっと少女は息をついた。そして、少女の手がラセツの頬を探してその身体をまさぐった。

  「ちょっと、くすぐったいよ」と肉体のごつごつした触感が小刻みに揺れた。

 「あんた、落ちたばかりで良くこそばゆさなんて感じるね」と少女が呆れて聞かせると再びごつごつとしたからだが揺れた。手が撫で上げる先に砂粒みたいな煌めきが二つ瞬いた。それは、ラセツの瞳に映る塩味星の輝きだった。塩っぽい冷たい風が暗闇の帳をさらに深く閉じて二人を隠した。

 「おーい」という小さくて必死な声は「ゴホゴホ」という幽霊たちの咳き込みにかき消された。

 「大丈夫か?」とギアが咳石たちに負けじと声を張り上げ少女たちの上を通過した。鬼の少年がとっさに手を伸ばして間抜けな妖精の行く手をふさいだ。妖精はラセツの手のひらのごつごつにぶつかった。

 「痛え!」と言う声と一緒に小石みたいな感覚が少女の背中に落ちて来た。少女はその小石を落とさないように起き上がる。小石は少女の背中を掴んで彼女の肩まで這い上がる。少女の肩に登ってきたのはギアだった。

 「無事でよかった」と言ってギアは少女の髪の毛を抱きしめた。「餌が惜しかっただけじゃないの?」と少女がギアをからかうとお調子者の妖精は髪の毛を手から離して「こんなものどうだっていいさ」とうそぶいた。

 「こんなものとは失礼な」と少女がギアの横腹を突くと「うっ」とギアがよろけたのがおかしくておかしくてラセツは腹を抱えて笑った。みんなはゲラゲラと笑った。少女たちがいる暗闇だけ明かりがついたような感じがした。

 ズシィィンと山が尻もちをついたみたいな衝撃音が少女たちの笑いを殺した。「塔が落ちたんだ!」音の余波が止んだタイミングでギアがそうつぶやいた。咳石の咳き込みが激しくなって少年たちの耳を苛める。

「塔まで行ってみよう」

//////

 鬼の少年は少女の手を引いて暗闇の中を塔へ目指した。つないだ手のぬくもりと共鳴しておでこの角が熱くなる。角から発せられる熱い波が彼の思惟に波打って心臓の高鳴りと輻輳する。

「ラセツ?ちょっと早いよ」

そう言われてラセツははっとして立ち止まる。

「ごめんよ」

「いいけど」と少女は不思議そうな声で言った。聖なる虫の脈の中に閉じ込められたような生暖かくて神々しい音がした。世界はこの音鳴りと一緒に羽化する時を待っていた。だがこの音は一瞬で死んだ。

 「あれ見て!」少女が指さす暗闇に血色の光がにじんでいる。

 「傘か!」鬼の少年がそう言うと今度は少女の方が彼の手を引いて淡い光に向かって駆け出した。ラセツの灯のように熱い角は闇を切っても冷める気配がなかった。

 二人は赤い光源までやってきた。傘はなぜか窓に刺さって開いていた。少女が傘を摘み上げると「うわあ」と叫び声をあげて尻もちをついた。

 「どうしたんだ?」とラセツが彼女の背を支える。

 「だ、誰かいる」

 少女の持つ傘の淡い光が小刻みに揺れる。ラセツは少女から淡い光を借りて傘を塔の窓に向かって差した。光に照らされて赤らんだのは鉄の甲冑でその甲冑の陰に二つの瞳が開いた。瞳は海色の光を宿して何かこの世界ではないどこかを見ている。そして、瞳の下のしわくちゃの口が開いた。

 「モナドだ。モナドの時が来た!」

 まるで、絵画がしゃべっているみたいだった。窓枠がすなわち額縁で、絵のメインである鎧の老人は棺に入れられた死体のように手のひらを鳩尾の上で組んでいる。そして、手と鳩尾で木の枝のようなものを挟んでいるのだ。腰から下は額縁の下辺で切り取られて見えない。

 暗闇を切り裂き淡い光の赤を貫き一匹の影が窓へと入り込んできた。エイだ。エイがそのしわくちゃの兵隊を背に乗せて窓から飛び出した。

 「モナドの時だ!これでもくらえ!」

 しわくちゃの兵隊は木の枝を魔女のように振りかざし少女と少年に向かって何かを唱えた。そして、満足して星空へと消えた。


 「なんだったんだ?」と少女がつぶやく。

 「傘返すよ」ラセツは少女に灯りを手渡す。

 少女が傘の柄を掴んでラセツが傘から手を離したとき、彼は足首に這虫感を感じてうずくまった。虫が足首に取り付いたというよりは踝に埋まっていた太い寄生虫が皮を破って這い出してきたような感覚で、痛みを伴った。ラセツはくるぶしをまさぐる。ラセツの手に当たったのは乾いた毛羽のような触感だった。湿ったひも状の虫を想定していたからラセツはその意外性にあっけにとられる。

 すると「きゃあああ」と声がしてラセツの目の前で帆状の赤い光がくるんと逆さに反転し空へと浮き上がっていく。少女が傘を持ったまま逆さに浮き上がっていくのだ。「どうした?」とラセツが立ち上がるとラセツは何か足首を押されるような力を感じてくるんと宙返りをした。そして、足を暗闇に吊られて上がっていく。

 足首から羽ばたきが聞こえて冷たい風が頬まで降りてくる。

 「あの兵隊がなんかやったんだ!」ラセツは吊り上げられたままそう叫んだ。傘の赤い光がラセツの踝に向いた。

 「羽が生えてる!」少女の叫び声が示す通りラセツの踝に大きな穴が開いてその破れ目から羽が生え羽ばたいている。二人は暗闇に吊られたまま動けなくなってしまった。

 ラセツと少女はしばらく宙ぶらりんのまま倒れた塔の真上に浮かんでいた。

 一瞬だけ何もかもが消えてしまうような間があった。まるで神様が一息ついてこの世界の運営をちょっとだけサボったみたいな無音のタイミングだ。そしてすぐに音たちが帰って来る。

 「おーい」と妖精が遅れてやってきた。

 「ギア!魔法で何とかして!」と少女が絞り出すように言うと少女の踝の羽が羽ばたきを激しくして少女を揺さぶった。暗闇そのものが彼女を掴んでこしょうを振るみたいに彼女を扱う。揺らされるたびに彼女の肺から空気が振り落とされ彼女は耳が真っ赤になって暗闇を焼く。

 「なんの魔法だ?」とギアがおろおろしていると妖精の背後で暗い塊が沈んだ。

 暗闇に落ち込んだのは塔だった。塔は夜そのものに噛み砕かれているみたいに固い破砕音をさせながらボロボロに崩れて行った。少女が持つ揺れる傘がその奇妙な出来事を赤く照らし出していた。

 塔を噛み砕いていたのは闇ではなく裂け目だった。山の裂け目がバリバリと石の塔そのものを食ってしまったのだ。

 「やばいよ」ギアがよろける。

 ラセツは闇夜を掻き泳いで少女を抱きしめ揺れから守る。

 「どうしたんだ?」ラセツがギアに聞いた。

 「大王ウミモグリだ。」ラセツの腕の中で少女が弱弱しく震えた。

 その時、裂け目から風を切るような音がして塔の瓦礫が砲弾のように高鳴りしながら鬼の少年たちが浮かぶ空をかすめた。ラセツが驚いて腕の力を緩めたすきに、光の帯が伸びてきて少女を海色に縛り付けさらった。

 「あっ」妖精がこぼした間抜けな声を切ってその海色の帯は裂け目へと帰っていった。 

 少女が大王ウミモグリに食べられてしまったのだ。

 ラセツの叫び声は彼の心の中から出て行かなかった。なぜなら、誰も少女の名前を呼ぶことができないからだ。声にならない声を上げながらラセツは暗闇をもがく。鬼の怪力でいくら掻き分けても彼の身体は少しも闇を泳ぐことができなかった。

 彼がもがく暗闇に二つの火の玉が灯った。それは、大王ウミモグリの瞳だった。地鳴りが空気を伝って吊り下げられた鬼の身体を鞭打つ。ギアは何やら呪文のようなものを唱えているが空気を伝って来た波に羽を揉まれて飛ばされてしまった。

 「うわあ」とギアの驚きが遠ざかっていく。

 ラセツは必死さの中で閃いた。彼は腰を折りたたみ踝から生えた羽を手刀で叩いた。すると、羽ばたきが気絶してラセツは暗闇でわずかな自由を手に入れた。彼は闇を掻き分け大王ウミモグリの方へ泳いでいく。少女を取り戻すために。


 「ゴホゴホゴホゴホ」

 幽霊たちの病との闘いもピークに差し迫っているのだろう。咳き込む声が激しさを増した。病気に汚染された温い暗闇をラセツは掻き分け潜っていく。

 大王ウミモグリが光の帯を鞭打てば暗闇と一緒に大地が割れた。幽霊の咳き込みは死んだ。咳石が裂けたのだ。大地の裂け目から海色の眩さが漏れ出した。ラセツはその赤い光を掻き切ってついに大王ウミモグリの頭に取り付いた。彼は手刀で大王ウミモグリのおでこを割る。鬼の怪力でウミモグリのおでこは崖みたいにぱっくり割れた。その割れ目からまばゆい光の液体が漏れ出してその波に沈んでいく少女の顔はきれいだった。

 「……!!」再びラセツは名もない少女を呼んだ。

 彼が少女の頬に触れた時、電気でも通ったみたいに少女は瞳を開いた。少女の瞳が海色に灯る。

 「ラセツ?」少女が彼を呼んだ時、彼は足首を何かに締め付けられるのを感じた。彼の手は少女の頬をぬめぬめと滑っていく。彼は足首の締め付けるような痛みに引きずられて暗闇へと連れ戻される。彼の足を掴んでいるのは大王ウミモグリの触手だった。触手は鞭打つ勢いでラセツを何度も地面にたたきつける。本体を割られた恨みで触手は大蛇のように激しく、炎のように熱くラセツを痛めつけ暗闇に放り投げた。

 冷たい塩味の中をラセツの身体はボロ雑巾みたいに飛んでいった。不自由な飛行の中、彼の身体はぐるぐると回転しその視界は星と赤い紐の二つの灯りを交互に切り替えていく。そして、その二つが切り替わるたびに赤い紐の方は小さくそして星の方はその輝きを増していくのだった。


 哀れな鬼の子はこれから始まる惨劇を特等席で見させられることになる。なぜなら、彼が放物線の頂点に達したとき彼の足首に生えた羽がめいいっぱい羽ばたいて彼を暗闇の頂点に滞空させたからだ。彼は星空に宙ぶらりんにされたままぐるぐると回転しながら街と草原の破壊を交互に見なければならなかった。まるで彼は一家惨殺の目撃者を演じる天井から吊り下げられた人形だった。

 彼の踝から生えている羽は右足の方が折れていて羽ばたきがぎこちなかった。ゆえに彼は星空の下、左足を軸にしてコマのように回され続けることになった。

 始め、彼が見たのは街の景色だった。一人ぼっちの大王ウミモグリが街で破壊の限りを尽くしていて、地面の裂け目から赤い槍のような光がいくつも噴きあがりそれらが互いに交差して針地獄のような様相だった。きっと街の人間はだれ一人生きていないだろう。

 羽が羽ばたいてラセツを草原の方に向かせた。草原では、少女を食べた憎い大王ウミモグリが狂ったみたいに触手で大地を鞭打っている。まるで二匹の光る大蛇が地中に何かを盗まれたみたいに地面を掘っているのだ。

 今まで沈黙していた暗闇からも火の玉が一組、二組、三組と方々で灯った。おでこが割れた大王ウミモグリの狂気に当てられてほかの大王ウミモグリも暴れ始めたのだ。ラセツは角がじんじんと熱を発して思惟が焼け焦げそうだった。ずっと吊られて血が頭に落ちてくるのと、少女を食べられてしまった悲しみでどうにかなりそうだった。

 彼は少女を愛していた。


 そしてついに、火の鱗を持つ大蛇は大地に致命的な傷を与えた。その傷口から赤い光が漏れ出してそれは巨人の槍のように闇夜を突き刺した。暗闇の方々で同様の現象が起き、闇は海色の槍でめった刺しにされて血まみれだった。ラセツが吊られている高さまで血色のしぶきが散ってきてその滲むような明かるさで星空を赤く脅かす。星たちは血しぶきのような淡い光に濡らされて一つ、二つ、また一つと存在感を失っていった。そして、塩味星だけが輝きを失わずに血だらけになった暗闇を塩っぽく味付け引き締めるのだった。

//////

 少女は檻の中に閉じ込められている。肉できた壁が迫ってきて少女を押しつぶした。肉壁と少女の身体には香り一つ入り込める隙間がなかった。唯一少女の左目に当たる部分にわずかな裂け目が空いていてその裂け目から外の様子がうかがい知れた。

 妖精がおろおろと羽ばたいている。

 「ここから、傘の灯りが漏れているんだ!」哀れな妖精はそう独り言つ。

 「いるんだろ!?ここに!」妖精の痛切な声で少女を掴んでいる肉壁がキュッと引き締まり少女の肺はさらに絞られた。

 「ギア」

 老化の呪いを100年分かけられたみたいなか細いしゃがれた息で少女は妖精の名を呼ぶ。

 ギアはビクンとこちらを向いて「よーし今助けるぞ!」とめいいっぱい羽ばたいて勢いよく穴にぶつかった。ギアの小枝みたいな体でわずかに穴が広がった。穴の明滅で少女の瞳は反射的に瞬いた。

 「うおおお」ギアがこずえみたいな手で穴をこじ開けようとする。穴はわずかに広がってすぐ手前に傘の持ち手の湾曲部が少し傾いだ。

 「あきらめないでくれ!」ギアは小石みたいな頭を穴の隙間にねじ込んだ。傘が再び倒れて海色の光で肉壁を割り始める。

 「君は、僕の、大切な」ギアは穴をめいいっぱい開いて細い腕をつっかえ棒のようにして開口部を支えた。

 「大好きなんだ!」ギアがそう叫んだとき傘が肉壁を裂きながら少女に向かって倒れてきた。傘の柄は少女の胸に当たった。

 「よかった」ギアが少女ににっこりと笑いかけ羽ばたきを休めた時、彼の草の根みたいな足を何かが締め付けた。その痛みはギアを暗闇へと引きずり戻す。

 血まみれの大蛇がギアを暗闇に鞭打って放り投げた。ギアは不自由な飛行の中暗闇で枝のような体を骨折し力なく落ちて行った。ギアは別の大王ウミモグリに食われてしまった。暗闇に開く二つの火の玉がぐるぐると満足そうに回転している。

 少女はその悲劇を見ていた。世界中の粒子が楽器を奏で始めた。少女は黄色い傘を掴んだ。肉壁も少女の身体もそれを構成する最小の単位が情緒的に歌いだす。少女の瞳は海色に灯った。粒子たちが歌を辞めるまで少女は口をつぐんだ。

 「デウスエクスマキナ」


 まるで、宇宙が歌っているみたいだった。天音が止むとすぐに破壊がやってきた。破壊ははじめ、熱を斥候として星空から降りて来た。熱は塩っぽく引き締められた暗闇をじわっと汗ばませる。次に、音が星空から降りて来た。音は運命を悲観する暗闇の嘆きだった。次に星が落ちてきた。星の眩さは炎をまとい暗闇を焼きながら迫ってくる。そして、星は街の大王ウミモグリに落ちた。

 ラセツは街から破壊の柱が突き立つのを見ていた。その柱は星に貫かれた大王ウミモグリの血しぶきだった。その血しぶきすらも星の眩さが焼き付くしてしまった。光の波が押し寄せてくる。ラセツを吊り下げている暗闇はその眩い波に追いやられた。そして、彼は光の中に宙ぶらりんになった。

 光の波が収まって再び闇が帰ってきた。ラセツの角が焼石みたいになっておでこが焦げる。ラセツを吊っている暗闇は冷や汗をかきその冷や汗も迫ってくる熱で温められる。熱の後は音がやってくる。この順番は絶対だった。

 大王ウミモグリたちがくぐもった嗚咽の音を上げる。暗闇が引き裂かれたようにむせび泣く。星が炎の尾を引きながらラセツの横を通り過ぎた。ラセツの足首から生えていた羽は焼け切れた。ラセツは火傷の痛みで暗闇を引き裂きながら落ちて行った。落ちて行く途中、ラセツは破壊を目撃した。星空に立ち向かう海の剣はあっけなく折られた。

 星は妖精のギアを食べた大王ウミモグリの背中を潰した。そして、地面の裂け目から海がしぶき上がったがその水気も血色の光も全て焼かれて蒸発した。

 次の星は少女を食べた大王ウミモグリの脇腹に落ちた。星の落下点から光が爆発みたいに膨張して大王ウミモグリを何回転も転がしてカラーパの檻まで追いやった。その大王ウミモグリはカラーパの檻の柱に貫かれる形で仰向けに絶命した。そして、幾筋の星が方々に降り注ぎ草原ごと大王ウミモグリたちを殺した。大地は肉を抉られ骨を焦がされボロボロになった。破壊はラセツが羽を失い地面に落ちて気を失うまでの短い時間に全て終わった。

//////

 夢が歌い始めた。今まで聞いたことのない不思議な歌だった。それは魂だけが聞くことのできる歌だった。まるでこの世の重大な真理に触れたようなそんな尊大な気持ちを歌はラセツに与えた。

 ドアをノックする固い音がする。そして、扉が開かれてラセツは目覚めた。目覚めても夢の歌は魂に触れ続けた。扉の前に少女が立っていて誰かから忠誠を受け取っているところだった。

「おはようございます。わたくし目はあなたを助けた天降る星です。」歌がラセツの魂を脱ぎ捨てた。

少女は燕尾服のおじいさんの肩に手を置いた。おじいさんは恭しくお辞儀から身を起こしにっこりとほほ笑んだ。そして、少女の肩越しにラセツに向かってその微笑みを投げた。少女もおじいさんの視線を追うようにこちらに振り返りはっとしたように微笑んだ。

 「まだ夢を見ているみたいだ。」そうつぶやくラセツの隣に少女は椅子を引きずってきた。おじいさんがスッと椅子の背を支えて少女がそれに座るのを助けた。

 「今回もありがとうマキナおじいちゃん。先に行ってて!」

 少女の言葉をつつましく受け止めおじいさんはお辞儀をして静かに部屋を後にした。ドアが閉まるまでラセツはぽかんと口を開けていた。

 「マキナおじいちゃん?」ラセツがそう言ってドアが閉まり切るのを見届ける。

 少女は体を前に倒してラセツのベッドに頬杖を突いた。

 「そうだよ。昔から、私が困っていたらいつも助けてくれるんだ!」少女はそう言って顔をかわいらしく傾げた。鬼の少年は胸がどきんと跳ねて角がじんじんと熱くなるのを感じた。少年はシーツをくしゃっと掴んだ。

 「あれ?火傷がない。」ラセツは心の内を気取られまいと手の甲を掲げて見せた。星に焼かれて負った傷がどこにも見当たらない。

 少女は頬杖を解いて上半身を起こした。

 「何も心配いらないよ。傷も病も街の破壊も全部おじいちゃんが善く解決してくれたから。」

 「どうやって?」

 「さあ。魔法じゃないかな?」

 少女はつまらなそうに窓を向いている。少年はどぎまぎして視線を泳がせシーツが破れそうなほど握った拳は汗でべとべとしている。少女はスッと息を吸ってこぶしを膝に置いた。一瞬緊張感が部屋の暖かい空気を引き締めた。

 「ごめんね。」

 「え?」

 「塔で冷たいこと言って」

 「……」

 「名前なんて、本当はどうでもいいことなのにね。」

 窓から心地の良い風が吹き込んだ。天井からつり下がっている兵隊の人形が揺れて青いひし形のカラーパに情熱的に抱き着いた。

 沈黙は長くは続かなかった。

 「先に行ってるね」と言って少女は椅子から立ち上がった。少女は壁にかけてあった黄色い傘を手にして部屋を後にした。



//////

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デウスエクスマキナ @sainotsuno

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