デウスエクスマキナ

@sainotsuno

第1話

 少女は逃げるように人ごみに潜り込んだ。彼女を見失った紙の札が行きかう人々の背中をひらひらと跳び移る。それはまるで、草から草へ葉から葉へと跳ねて移動するバッタみたいでもある。靴音の混雑を青いカラーパの弦が一本貫いている。混雑した靴音は誰一人としてその青い弦に躓くことはない。なぜなら、靴たちはみなこの青い弦を光の線みたいにすり抜けてしまうからだ。

 少女はそのカラーパの弦を手繰るようにして人ごみから抜け出した。「やめてくれ!やめ……」助けを求める声の哀れさにくるぶしを掴まれても、少女は走るのをやめなかった。「うわああぁぁぁぁ!」叫び声が群衆の鈍い靴音に踏みつけられてぼろぼろになる。少女は街外れに急いだ。暴行の鈍い音が小さく薄くなっていき安堵と罪悪感が少女の心の中で前後にすれ違う。

 街の外れに近づくごとに傾斜が強くなって、少女は強歩で重力を薙ぎながら坂道を登っていく。そして、丘の上の木に至った。この木は青空に向かってお皿のように枝葉を広げている。そして、その無数の枝の一本一本が色とりどりの傘を握っている。赤、青、黄色、緑、桃色、オレンジ、紫、の傘たちが光をいっぱいに集めようと空に向かって開いていてそれらによるカラフルな光合成のお零れが木陰の土を彩っている。少女が木の幹に背中を預けた時、彼女の背中は粒子レベルで揺さぶられ木の幹と溶けてしまいそうだった。この世界を構成する最小単位の物質が揺れている。それはガラスの魂のような音だった。枝葉も草原も風もそして土の下に潜んでいる虫やモグラもみんなこのガラスの魂に心を溶かされている。噴水広場で行われている狂気の暴力も自分の代わりに呪われた誰かも自分を追っていた意地の悪い札のお化けも錯乱や痛みや悪意を忘れてこの音に聞き入っているだろう。それは少女の中で確信的な共感だった。全ての存在をつなぐ天音の奇跡!そして、その共感は少女に安堵のため息をつかせる。「ほっ」と少女が木の根の彩りの陰に腰を下ろすと「おーい」と声がした。少女は耳をぴんとしてうれしそうに顔を上げた。「ギア?」


 黄色い傘を握っている枝が軋んだ。妖精が一匹傘の柄を滑り降り取っ手のJ字で跳ねた。「遅かったなあ」妖精は少女の肩に着地してその髪の毛にしがみつく。「札に追われてたんだよ。」少女の声が暗いのも気にかけずに妖精は彼女の髪の毛に噛り付く。「ほおなんだ。ほれで、どうはったの?」妖精のもごもごとした食み声が風にさらわれていった。少女がその声を眼で追った。その先は草原だった。草花は風になびいて傾いているが、暗い人影だけが孤独な柱だった。

 「誰だろう?」と少女が目をすがめると、人影は風に溶けるみたいに消えた。そして、草原には空を目指す石の積み上がりだけが残された。「今にも倒れそうじゃん」と妖精が少女の髪の毛の幕から顔をだし、それを自分の首に巻き付けた。「さっきまでいたのに」と少女が手で髪の毛を振り払うとギアは少女の首にアクロバティックにぶら下がり反対側の肩に飛び移った。

 「ねえ、それより。木から一本傘をもぎ取ってよ」「なんで?」と問うたころには少女は枝から黄色い傘を一本奪っている。「その傘を使えば。どこへでも行けるんだ!」とギアが両手を広げると少女の顔はぱっと明るくなって、少女は空に浮かぶ青いカラーパの球に向かって傘を開いた。「違う違う。」とギアは少女の肩から手首に飛び移って傘を閉じさせた。「掘るんだよ。傘の先で地面を」妖精の非力が閉じた傘を押し下げて鉄の切っ先が土の表皮を刺した。

 「はあ?」と少女がギアに抗議の意を示すと妖精の自信のある瞳がにやりとした。「どこに行きたい?」とギアが聞くと「海に行きたい」と少女の即答。「宝石が溶けたみたいな果てしない湖、それが海だ!そう、本に書いてた」海へのあこがれを語る少女の手は傘をスコップみたいにして土を掘り返す。ガコンと固い音がした。傘の思わぬ抵抗に突かれて少女は尻もちをついた。少女が尻もちをついたタイミングで黄色い傘が開いて、彼女の間抜けなすっ転びを隠した。

 ゴゴゴ……とまるで大地の欠伸みたいに地面に穴が開いた。さっきまで少女が掘っていた地面に嘘みたいな洞が空いた。その大穴の淵から木の根っこが気だるそうに垂れ下がり土をこぼしている。零れた土が汚すのは階段の石板だった。


 少女は木の根っこをロープ代わりにしがみつき慎重に階段を踏んだ。「滑らないように気を付けて。」ギアの言う通り石の踏み板は白く湿っていて、踏むたびに踵が少し滑った。少女は傘の先で踏み場の存在をいちいち確かめながら暗がりへ一段ずつ降りて行った。


 視界が完全にじめじめとした暗闇に沈んでしまった。「なあ、なんで海へ行きたいんだい?」暗闇がもたらす不安を振り払うようにギアが少女に尋ねた。カチンと固い音がする。少女が次の段を傘で探しているのだ。「私、たぶん海辺の城で生まれたんだと思うんだ」少女はうっとりとした調子でそう言った。

 

 「君、ほんとに何も覚えてないんだね」とギアが呆れると「うわっ」と少女の小さい叫びが足元に落ちた。少女が足を踏み外したのだ。と言っても二段飛ばしになっただけで少女が転んだりと言うことはなかった。「あっぶな」と心臓をバクバクさせている少女に妖精が追いついた。「何してんだ。気をつけろ」と妖精が少女の肩にしがみつくと、少女のつむじに何か冷たい点が判を押した。


 「ところで、溶けるってのは何の宝石なんだ?」妖精のギアがそう言って少女の髪の毛を首に巻き付ける。

 「なにこれ?」と少女は自分のつむじを指で撫でる。「だから、さっき言ってた本の話だよ。ルビーか?サファイアか?ダイヤモンドか?」とギアは少女の髪の毛をぶんぶんと引っ張った。すると、無数の雫が落ちてきてギアと少女をびしょびしょにした。少女の肩できょとんとしているギアの身体や羽は光る斑点で汚れていた。少女もまた頬や髪の毛にまだらな光が付着している。どうやら雫が暗闇を照らしているみたいだった。


 ゴロゴロと猛獣の唸り声がして、少女とギアは天井を向いた。彼女たちの体を汚す光る斑点がもつれた針金の塊を照らし出す。その塊の破れ目に獰猛な瞳がぎょろついた。「うわあ」と少女は思わず黄色い傘を開いた。獣は針金のようなイガイガした肩で少女に体当たりをした。少女と獣は傘の黄色い薄い膜を境に押し合うような状態になった。



 「ギア、助けて!」と少女は涙目で、獣との力比べは今にも敗北しそうだった。ギアは半ばパニックになりながら、傘の幕を破って獣の目の前に飛び出した。ギアは羽ばたきで光る汚れを切り刻んだ。すると、光の雫が飛び散って暗がりに慣れた獣の目を刺す。「グオオォォォォ」なぜか、獣が腹ばいにすっころんだ。

 「いまだよ」とギアが好機を告げる。「カイラ!」と少女が唱えると黄色い傘と光る斑点は弾けるようで暗がりがすべて洞窟から追い出される瞬間があった。鈍いうなり声が遠ざかっていく。獣が闇と一緒に光から逃げ出したのだ。

 

 「こう唱えるんだ」とギアが少女の耳元でささやいた。少女は黄色い傘を開いた。傘の布はひっかき傷と破れ目があの魔法の光で痛々しく縁取られている。少女は左手で傘の柄を握って突き出すように固定した。そして、右手の人差し指で唇を拭った。まるで唇の厚みを指に塗りつけるみたいに。少女はその湿った指で傘の傷口の淡い光をなぞる。「ロクツ!」すると、傘の傷口がみるみる塞がり水玉文様の光が再び結ばれて生き生きと洞窟の暗がりを照らし出す。「さあ、海へと下りよう!」ギアがそう言って少女の髪の毛を手綱みたいに引っ張った。少女は馬のような扱いに不満を示して、ギアを手のひらで払った。ギアは少女の髪の毛をロープみたいにして野生児みたいな身軽さで右肩から左肩へ移動した。


 階段を下れば下るほど光る雫のしたたりが多くなったから少女は黄色い傘を開いた。もう、傘で足元を確かめる必要はなかった。傘の光る水玉文様は光る水で塗りつぶされてしまった。傘の六つの骨筋から雫が糸のように滴って地面で弾けて壁や少女の踝を光で汚した。もはや暗闇は息をしていなかった。光の潤いで逆に足元がおぼつかないぐらいだった。まぶしすぎるのだ。


 階段が終わった。少女がまとっていた六筋の光の糸は絶えた。光る水は階段を降りた後左右に捌けて暗がりに飲み込まれた。再び少女は傘を閉じその湿った光で足元を照らす。「まーたまっくらだよ」と妖精が不満げに言った。暗い空間でただ三つ少女たちと傘とその足跡だけが弱く光るだけだった。


 真っ暗闇の中、光る足跡だけが背後に伸びていく。「なあ結局、何の宝石が溶けたんだ?」とギアが少女の髪の毛を引き本の続きを促した。しかし、暗がりに似合う沈黙しか返ってこない。ギアはわずかに残った腕の灯りの湿り気を少女の横顔に差し向けた。少女の瞳孔はまるで何かに取り付かれたみたいに甘く開いている。ギアの怪訝なまなざしに気が付いたのか「わからない。本では宝石が溶けたとしか書かれていなかったんだ。」と少女は微笑んだ。傘の灯りもすっかり抜けきって少女とギアの肌の乾きにはもう暗闇しか残らなかった。


 闇の孤独を歩きぬいた先に波が砕ける音がした。ザアっザアっと控えめな波音が二つした後ドンと砕けるような音がして飛沫が血のように暗がりを汚した。少女とギアはその血のような光に向かって走り出す。そして、岩を曲がると少女たちの目の前で明るい波の血の色が岩壁にぶつかって砕けた。大きい波が引いて再び波がささやかになる。「ルビーだったんだ」とギアがつぶやく。「え?」少女の踝を明るい血の波が小さく沈めてそして引き上げて行った。「……の言ってた本だよ。溶けて海になった宝石はルビーだったんだ!」


 「これ、カラーパじゃないの?」と少女はくるぶしについた赤い雫をぬぐった。「カラーパは不動だよ。それに、自ら光ったりしない」少女の指先にこびりついた赤い潤いが柔らかい光を帯びているのを確認して少女は頷いた。「そうだね。これはカラーパじゃない。それにしても、海って地下にあるんだね」と少女は赤く汚れた岩場に腰を下ろした。赤い海はずっと先の暗がりまで続いていて優しい光が静かにそして時に激しく波打ち闇を揺さぶっていた。

 

 少女は岩場から波打ち際に降りた。冷たい赤色が少女のくるぶしを濡らした。ギアは少女の太ももにしがみ付き光の波のちろちろで眇めた目を飾る。すると、大蛇のように出し抜けにひと際大きい波がギアを血の色に飲み込んだ。波が引き上げると「ゲホゲホ」と咳き込むギアの全身が薄く発光する赤色で汚れていてその間抜けなさまがおかしかったのか少女は笑った。「おい、なんかこの海苦いぞ」とギアが羽をポンプの取っ手みたいに扱きながら「ゴホッ」と最後の雫を肺から追い出す。少女は手のひらでお皿を作って波を掬い上げる。そして、手のひらに掬った赤い水を海の方へと投げつけた。暗闇に隠れていた岩の天井が放たれた雫で一瞬、照らし出された。「何かいるよ」少女は塩撒きの除霊みたいな熱心さで赤い水を掬ってはその光を放ち闇を祓った。少女が再び赤い水を手のひらで掬いあげ海の方に高く放り投げる。天井の暗い凸凹に潜んでいたのは大きな黒い布のような何かだった。それは岩天井の傷を隠すための暗い瘡蓋のようにも見えた。だが、それはシールのようにあっけなく剥がれて波のように浮遊していく。この不思議な生き物の正体はエイだった。狩人のような静かさでエイは尻尾の槍を隠している。

 「そうだ」とギアが閃いたような声を上げて少女の髪の毛をぶんぶん引っ張る。呼び鈴のような扱いに少女は頬を膨らませたがギアは少女の頬のふくらみを手で押しつぶした。「傘を開くんだ。そして、こう唱えるんだ」少女はギアに言われたように黄色い傘を開いた。ギアが少女に耳打ちする言葉を少女はなぞらえた。「トーヴ」すると、傘が少女の手のひらを離れて逆さのまま赤い波に乗った。「さあ、飛び乗るぞ」ギアは背を反らせ少女の髪の毛をロープのように飛び出した。ギアは傘の上に飛び乗った。「早くしろ!大きい波が来るぞ。」小さい波で傾ぐごとに黄色い傘は遠ざかっていく。少女は岩によじ登りそのでっぱりを蹴りつけて海のまばゆさに飛び出した。彼女の体重を受け止めて傘の骨組みがキシキシ泣いて、黄色い帆は大きくたわんだ。血色の大波が傘とそれに乗っている少女たちに襲い掛かってきた。しかし、傘は魔法の力で波を柔軟に受け流し波が引いていく勢いで赤い海に漕ぎ出した。


 天井に潜んでいたエイが降りてきた。少女が傘の取っ手を舵代わりに傾けた先をエイはひらひらと旋回しながらついてくる。海の上にはいくつか宝石みたいな色霊(カラーパ)が浮かんでいたが波の光に当てられてほの赤らんでいる。少女は傘から手を伸ばして円いカラーパを掴んだ。その時だった。少女がつかんだ空気の先に島があった。「島があるよ」と少女の報告を聞いてギアは小さな手で傘を漕ぎだす。「行ってみよう。冒険だ!」



 赤い波はまるで冷たいマグマのようにも見える。海はマグマよりは優しい光で洞窟を火照らせている。そんな淡い光にもまれながら少女とギアを乗せた傘は波を7つぐらい超えて浮島についた。


 「今思ったらこの洞窟、巨人の胃袋の中みたいだね」少女たちが浮島に降りて最初に目立ったのは島のてっぺんにある十字架だった。十字架はまるで少女曰く巨人の胃袋を内側から突きさす聖なる異物だった。根元の部分が少し赤いしぶきで汚れているだけで気味が悪いほどつややかな金属の十字架だった。


 少女は足元にあった小石をなんとなく蹴り上げてみた。すると、小石は十字架の交点にちょうど当たって金属に品のある鳴き声を上げさせた。そして、小石は小さく跳ね返ったのだが予想を裏切る不自然さで土に落ちることなく消えた。

 少女とギアは不思議そうに互いに目を見かわした後、傾斜を登って十字架のもとへ至った。石ころが消えた理由が十字架の下にあった。穴だ。穴の淵周りは掘り返された土や石ころで汚れている。「墓荒らしだよ」とギアが義憤でわなわなしている揺れが少女の耳殻に伝わってくる。ギアは少女から離れてガラスのささくれみたいな羽ばたきで十字架下の穴周りをぐるぐると巡った。「暗くて見えないな」ぴちゃぴちゃとみずみずしい音がギアの羽音に刻まれる。少女がギアの背後で海で遊んでいるらしかった。その水音が止んで少女が穴に向かってしゃがみ込んだ。そして淵の土を少し手で掻きだして穴の深くを覗いてみた。少女が濡れた傘を穴に差し入れる。すると、傘の先から滴る血色の光が穴の底で棺桶が口を開いているのが照らし出しだした。棺桶の中には砕かれたような小石がいくつも散らばっていて黄色い傘が垂らす雫でほの明るく赤らんだ。


 少女は穴から黄色い傘を抜き出してそれをわきへと置いた。しばらく二人とも喋らなかった。少女とギアが十字架を背にしんみりとしていると遠くの暗がりから何か音が近づいてくる。その音は少女とギアの侘しい雰囲気を壊しながらその正体を露わにした。それは赤ん坊の無数の泣き声だった。聞こえてくる混乱に気が焦ったのか、二人の頭上をぐるぐる巡っていたエイがの十字架を離れて赤ん坊の泣き声がする暗がりへ消えた。泣き声の波が少女たちの傍らの小石をかすかに揺るがすぐらいまで迫ってきたとき暗がりと海の光の境界に現れたのは一匹の首の長い水鳥だった。水鳥の閉じた嘴から赤ん坊の泣き声がするものだからギアのドングリみたいな脳みそはだまし絵でも見ているときみたいに軽く混乱した。その水鳥が首を伸ばして「ぎゃあ」と鳴いた。すると、まるで機の熟した伏兵のように暗闇から白鳥の群れがヌッと現れて赤ちゃんの泣き声をたくさん背に連れて浮島へ迫ってくる。そして、最初の斥候が浮島の淵を取り囲んだ。ギアは怯えて少女の髪の毛を掴んだ。ギアは籠城戦に敗れた兵士みたいな怯えようだった。だが、白鳥の背中にあるものを見つけてギアの震えは消えた。白鳥が背に乗せているのは人の赤ん坊だった。海に負けないぐらい生き生きと頬を赤らめて赤ん坊は精いっぱい泣いた。その鳴き声の激しさで岩の天井が落ちてくるのかとすら思われた。そして、ほかの白鳥の群れも一匹一匹が赤ん坊を背に世話をしながら浮島を取り囲んだ。「耳が壊れる」「どうなってんだこれ?」少女とギアはお互い耳をふさいでいるからお互いの声が聞こえないまま嘆きあっている。そんな間抜けに先に気が付いたギアが少女の耳をふさぐ手をずらして怒鳴った。「黄色い傘で逃げるんだ!」

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 黄色い傘がこの世に産まれた時は、人に運ばれる存在である自分が人を運ぶことになるとは思いもしなかっただろう。ましてや、赤ん坊の泣き声から逃げなければいけない状況など想像したことすらなかっただろう。もっとも、傘に思考があればの話だが。

 少女の年頃の重みで骨をギシギシ痛めながら打ち寄せる波をいなして傘は海の血色をかき分けていく。少女たちが島から飛び出した瞬間から白鳥たちは長い首を蛇のようにくねらせてくちばしの攻撃的な動きで自らを漕ぎだした。赤ん坊の泣き声が殺意を持って迫ってきているように感じてギアは少女の横髪を引いた。「早くするんだ!」少女は言われるまでもなく傘の持ち手を舵のように前倒した。傘は前のめりになって波を超える速さで追手から逃げる。

 傘はひときわ大きい波に乗った。「よし、いいぞこのままの勢いだ!」とはしゃぐギアとは裏腹に少女の顔は青ざめていた。少女の張りつめた瞳にはごつごつとした岩が拡大していく。「ぶつかる!あぶない!」という少女の叫びは現実となり、傘は波の勢いのまま大岩にぶつかってそのまま赤い飛沫と一緒に跳ね上がった。投げ出された雫が少女たちが飛んでいくのにお供して赤く照った。空中で少女が傘をねじ巻きのように回して、それらの雫が傘に巻き込まれた。「ユフー!」少女がそう唱えると傘は赤い雫をまき散らしながら逆さのコマのように回って少女は取っ手にしがみ付いて柔らかく波打ち際を滞空した後、石の積み上がりに腿をぶつけながらも岸に降り立った。土壇場で見せる奇跡の曲芸だった。

 閉じた傘を杖代わりにもたれ掛かり少女は息を整える。ギアもまたバクバクとする心臓を落ち着かせながら「……今までで一番良い魔法だったよ。」とグーのポーズを少女の耳たぶに当てた。

 少女たちの周りにはなぜか、石ころが散らばっている。「なんだこれ?」と息を落ち着けたギアが少女の肩から降りてその小石に抱き着いた。ギアは小さい羽をばたつかせながら雫に汚れた赤らんだ石ころを少女の眼の高さに持ち上げた。「ちょっと、石の感じが違うな」と少女がギアからその小石を取り上げた。すると「ぎゃあ」とギアが悲鳴を上げて自分の胸を抱いて少女をにらんだ。「痛いじゃないか!」石ころの凸凹がギアの肌を擦り傷つけたのだ。この石はこの辺りのしっとりとした石とは質が違って乾いたような凹凸の激しさがあった。


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 少女は岩を踏む勢いで大きく伸びをして傘で波の上を突っついている。傘の先が透明に出入りするのは顔よりも大きいエメラルドの幽霊だった。波が砕けて「わぁ」と少女は傘を開いてしぶきを防いだ。傘の黄色い帆を舞台に砕けたルビーみたいな水の粒がエメラルドの幽霊と混じりあう。「見てみて。これ。色合いいいでしょ!」岩で砕ける波の赤と少女が差している傘の黄色とこれら類似色の温もりを菱形の緑色が冷たく引き締めている。「いいね!」とギアはその三色が最も映えて見える場所を探して指を絵画のフレーム代わりにあたりを飛び回った。

 少女が閉じた黄色い傘で波を斬りつけるとギアがその返り血を浴びた。画家気取りだった羽ばたきがみるみるうちにしぼんでいくのがおかしかった。少女はゲラゲラといたずらに笑った。大はしゃぎしている少女と妖精のその油断を「おい!」と鋭い声が断ち切った。黄色い傘はそっぽを向いて少女の張りつめた表情が現れた。

 「ぎゃあ」少女の固くなった瞳に羽を掴まれているギアが映った。まるで、ギアは引っこ抜かれた未熟なニンジンみたいに小さく怯えている。ガチャガチャと鉄の擦れるような音がする。ギアを掌中にしているのは背の低い兵隊だった。


 その兵隊は少女の背丈ぐらいしか背がなかった。そのくせ腕は大人みたいに長く太いのだ。少女が傘を閉じて視界を広くすると、その訳が分かった。兵隊は腰から下が無いのだ。

 その兵隊は太っているのか幅の大きい樽のような鎧を着ていて、手で地面を押して移動する様はまるでだるまが転がるのを思わせた。兵隊は体を大きく傾けて、樽を横に倒したみたいな恰好で仰向いた。 

 そして、兵隊は指を口の端に突っ込んだ。

 「ピュー」

 さざ波の音に傷をつけるような笛音に応じて天井の暗がりから降りてくるエイは死神を思わせる。エイは腹に海の灯りを孕んで赤らみながら兵隊の腰の下に滑り込んだ。だるまみたいな兵隊はエイを絨毯のように敷いてエイの背中のひらひらで空に浮かび上がった。

 「お前たち、ここで何してる?」

 「え?」

 と絶句している少女の踝を血色のさざ波が冷やした。どうやら、海が満ち始めているらしかった。白鳥たちも少女たちがいる岸の岩場に集まってきていて、首をくの字に折り畳み背中にいる赤ん坊たちをあやしている。

 兵隊に掴まれているギアはさなぎみたいに小さく固くなっている。 「ここは、街の赤ん坊を預ける神聖な場所だ。」と兵隊が少女をしかりつけるように言った。

 「え?」少女の口は絶句したまま小さくあいて、少女の揺れる瞳からは揺れが失われた。ギアは少女の表情に深い共感を覚え震えた。海は自分たちだけの神秘になるはずだった。それが、街の大人たちのただの託児所だったなんて!背後に投げつけられる赤ん坊たちの泣き声がギアの心を絶望からかろうじて守っているセンチメンタルをぐちゃぐちゃにした。赤ん坊たちは白鳥の嘴を乱暴に抱き寄せて暴れている。


 ******

 ギアは兵隊の手から解放された。放たれたウサギがねぐらに帰るみたいにギアは少女の肩に飛び移りその長くてきれいな髪の毛を抱きしめて食んだ。

 少女とギアは肩を落としてエイの槍のような尻尾に従って歩いた。エイの上にいる足のない兵隊が後ろを振り返って微笑んでいる。

 「1+1は?」という教育的なやわらかい声が少女たちの背中にぶつかった。しばらく間があって「よくできました」と同じ声がした。どうやら、託児所らしく赤ん坊たちへの高度な教育が少女たちの背後で行われているらしかった。「白鳥って喋れるんだ」という少女のぼそっとしたつぶやきの真偽を確かめる気力は少女自身にはもちろんギアにもなかった。

 暗い角を曲がると足跡が青白く光っている。まだ海に対するあこがれを殺される前の少女の足跡と傘の先の点の跡だった。「ん?」と少女が急に立ち止まったからギアはその羽ばたきで少女を少し置いて前に滑り出てしまう。その慣性のいたずらは喜劇のワンシーンみたいでもある。

「おい、どうしたんだ?」とギアがターンして少女に手を振った。

 本当に一瞬、耳に詰め物でも入れられたみたいな気持ちをギアは感じた。まるで、穴だらけの壁で壁打ちをしているみたいに自分の発した言葉が所々返ってこないのだ。

 少女はすぐ下の淡い光を指さしている。「増えてる。」と少女が指で足跡を数える。確かに、少女の足跡をたどるように別の足跡が静かな光を発している。「あの、兵隊のじゃないか?」とギアは言った。言ったと同時に飛ぶエイのことを思い出し兵隊に足がないことを思い出した。そして、思い出すと同時に暗がりの先から悲鳴がくるぶしを掴んだ。

 「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」

 それはさっきの兵隊の魂が千切れるような叫びだった。

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 少女たちが凍り付いて動けないでいるとドシンッドシンッとまるで地震が歩いてきているような音とその震動が近づいてきた。暗闇から現れたのはあの兵隊の傷ついた身体の浮遊だった。浮遊と言うより、暗闇そのものに左肩を牙で食い止められているみたいに肩回りの鎧に穴がいくつも空きその痛々しい傷穴を支点に兵隊の胴体が力なくぶら下がっているという感じだった。意識を失った兵隊がその傷ついた身体を力なくよじらせて背中を少女たちに見せた。その鎧の背には血を糊として札が一枚貼られている。その札は例の呪いの札だった。

 そして、さらに良くないことが起きた。そのよくないことの追撃が兵隊に起こった悲劇をくっきりと浮かび上がらせた。

 良くないことと言うのは白鳥たちがパニックを起こしたことだ。白鳥たちは赤ちゃんを守る任務を忘れ狂ったように羽ばたいてわざわざこの惨劇に飛び込んできたのだ。白鳥たちは少女たちの頭上を越えて暗闇によって磔にされた兵隊のすぐ上に飛んできた。そして、海の赤い雫と一緒に赤ん坊を放り出したのだ。

 「危ない!」

 少女は地面を蹴って”十字架無き磔刑”の前に飛び出して赤ん坊を受け止めた。受け止めた時の弾みで赤ん坊についていた海の雫が跳ねて兵隊の磔刑にかかった。雫の灯りにぬれて赤らんだのは少女の顔よりも大きな目玉だった。その攻撃的にぎょろつく目玉と一緒に兵隊の傷ついた身体が暗がりから降りて来た。兵隊の背中から札がこっそりと剥がれて少女の背中に回り込んだ。もう一団体白鳥たちが頭上を通り過ぎ、血色の雫を降らせた。今度ははっきりと少女の目の前に怪物の姿が現れた。怪物はマグマのように全身を真っ赤に焼きながら叫んだ。怪物は兵隊を吐き出して少女に牙をむいた。


 その時だった。衝撃がして目の前の怪物があっさりと吹っ飛ばされた。まるで、星が目の前に落ちてきたような点の衝撃だった。その余波で少女も軽く尻もちをついた。そのおかげで少女はひそかに背中に取り付こうとしていた札の悪意を避けることができた。

 「やばいぞ!」とギアの声がした。

 ギアが指さす方向にあのパニックになった白鳥たちが赤らんでいて、そしてその白鳥たちをエイが尻尾の槍で襲っているのだ。エイは主を失ったパニックから狂ってしまっているみたいだった。翼を槍で破られた白鳥たちの背から赤ちゃんたちが落ちてくる。赤ん坊が固く冷たい岩の地面にその柔らかい体を打ち付けられる悪い運命がすぐそこまで来ている。少女は素早く立ち上がり手に持っていた黄色い傘を開いた。

 「エリーム!」

 少女は傘の黄色で暗闇を殴るように振り下ろした。すると、傘の帆が逆さにひっくり返って軋む六つの骨筋と一緒に広がっていくではないか!まるで、少女を種として巨人の花が開花したみたいだった。


 少女は種と言うよりはめしべかもしれない。白鳥の羽ばたきの距離に匹敵する広範囲に黄色い傘は開いた。そして、その花弁に赤ちゃんたちが柔らかく受け止められてゴロゴロと真ん中へ転がっていく。赤ちゃんたちは花粉の代わりに糸くずを巻き込みながら花の中心つまり雌しべにあたる少女の顔に集まってきた。少女の顔は赤ちゃんたちの弾力のある肌がお互いにはじきあうのとそれら破壊的な泣き声にうずもれて行った。そして、とどめは鼻を突くような臭い匂いだった。きっとどの赤ちゃんかが粗相をしたんだろう。

 「うええ」と少女は魔法を解いた。赤ちゃんたちが落ちて行く。渦が枯れるように傘は広げた羽を小さくたたんだ。そして、その陰に隠れていた白鳥たちが現れる。その時には白鳥たちが落ち着きを取り戻していた。白鳥たちは赤ちゃんたちを背中で受け止めた。「ありがとう。ありがとう」白鳥の一匹が泣きながら少女に縋り付く。「ど、どうも」とそのとめどない感謝を少女が受け止めきれないでいると「あれを見ろ」とギアが岸の方を指さしている。岸ではあの針金のような毛をした怪物がひっくり返って伸びているではないか。


 少女とギアは怪物が伸びている岸に近づいた。光の赤い波が少女の踝を濡らした。よく見ると海は火の粉の光だけを水に溶け込ませたみたいな明るい粒子たちの揺れなのだ。「とにかく無事でよかった。」ギアはそう言って少女の肩に乗って妖精の羽を休める。そして、ギアは少女の横髪に噛みつきながら彼女の背中をぼんやりと眺める。

 「それにしても、誰が怪物を倒したんだろう?」少女がそう言って怪物の方に手をかざした。少女の手の下に怪物の殴られたような凹みが痛々しい。少女の髪をむしゃむしゃやっていた妖精がその髪をロープ代わりに彼女の背中に回り込んだ。

 「おい、これなんだ?札みたいなのがあるぞ」「ふだ?」と少女が背中に手を回そうと岸に背を向けた時、目の前の暗闇から黒い塊がヌッと現れた。まるで暗闇に蹴られるような圧迫感。そして、背後で波が砕ける音が少女を挟み撃ちにする。

 血色のしぶきが上がって光の粒子が赤らめさせたのはエイの波打つ腹だった。「くらえ!」とあの兵隊の憎しみの声がしてエイの背に乗っていた兵隊がエイの槍状のしっぽを少女に向かって突き刺した。 

 グサッと鈍いぬくもりがして今度は暗い血色のしぶきが少女の頬を汚した。少女はいつの間にか誰かを抱いていた。それは、少女と同じぐらいの年の少年でおでこの尖ったできものが小刻みに震えている。

 「よかった。」という痛々しい安堵が男の子の口から血と一緒にこぼれだす。少女をかばってエイの槍に貫かれたのはこの少年だったのだ。少女は男の子の死へ傾いていくような体重に耐えきれなくなって海に倒された。ひときわ大きな波が少女自身と少女が抱きしめている少年を覆った。波は少年の背からエイの槍を引き抜いて赤い海の灯りの底へ二人をかどわかしてしまった。

 「畜生!」ギアは手に少女の背から引っぺがしていた札を波に投げ捨てて悔しく羽ばたくのだった。



 少女は少年を抱いたまま赤い光と泡沫を纏って沈んでいく。まるで少女は宝石に差し入れられた針の先だった。神様が加えた重たい力で宝石の中へぐんぐん下へ貫いていく。


 どれくらい時間がたっただろう。なんでまだ息があって自分が生きていられるのか分からない。しかし、少女の力は弱まってついに少年を手から離してしまった。少年が仰向きに黄色い傘と折り重なるままに沈んでいく。そして、少女だけが時間が止まったみたいだった。宝石の赤色が溶けてできたほの明るい海が元のルビーの冷たい硬さに戻ろうとしている。少女はその凝固した血色に埋められたまま宝石の輝きの透明さを汚す点になる。

 人魚たちがやってきた。魚のヒレとうろこを持つ人魚たちが今は点のようになった少年と黄色い傘の周りをぐるぐると巡って渦を巻き固まりつつある赤色を解していく。そして、人魚の内のひときわ美しい女が少年の首筋に噛みついた。

 「ゴボッ」と少女は口から泡沫を吐いてその代わりに溶けたルビーを飲み込んだ。


 運命を告げる音がする。音鳴りだ。霊たちがそっと触れ合う緊張の音鳴り。そして、人々を満たす座標への信頼。極への忠誠。そして、破壊がやってくる。再生への約束と一緒に。

「デウスエクスマキナ」


 天音の普遍的な揺れが少女の肉体と海の粒子の間をまたいだ。まるで少女は自分の肉体が溶解して、血色の波と一緒に赤らむような幻想を見た。そして、灯りは赤さを増し滲むような眩さが少女の肌と溶け合うようだ。

 沈黙が帰ってきた。

 吐き出した泡沫の幕が捲れて、人魚が起こす渦と一緒にぬくもりが少女に登ってくる。そして、そのぬくもりは段々焼けるような熱となって海の底の暗がりから突き上げてくる。

 人魚の中で最も美しい女がびくっと固まって海底の闇を見つめた。そして、手を高く上げて仲間たちに警告を発する。人魚たちは遊泳の艶やかな舞踏を辞めてしまった。そして、舞台に残された渦と泡が払われるとまばゆい星が深くの闇に瞬いた。熱はその星の斥候だった。星が冷たい海のルビー色を焦がしながら大きくなる。ルビーの血色もそのほの灯りも全て焦がす熱色で海を塗り替えてその星は少女に迫りそして、少女と言うルビーの中の異質なほくろを溶かした。気を失う前に少女が見たのはその海を焼く泡の靄とその靄の隙間から見えるごつごつとした熱い凸凹だった。

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