人魚
臆病虚弱
人魚
冬。
閉鎖された水族館の門を、はたから眺めていた。
雪の積もる道。吹きすさぶ風。雪の付いた枯れ木。ペンキのはげかけた門。テーマパークとして売りつつ、水族館としての機能を備えたここは、冬の間は当然、閉まっている。
私はその残念な気持ちを味わいたくて。この場所にわざわざ歩いてやって来た。
案の定、残念な気持ちがわく。
徒労。
無念。
寂しさ。
だが……何だか物足りない。
私は周囲を見回した。
シャッターの目立つ商店街が近くに見える。そこには当然路地もある。私はそこにある『寂しさ』に興味を向けた。
近づけば、なるほど、これは思ったよりも寂しくはない。いくつかの店は空いている。まあ、風情はある。だが、寂しくはない。
私は期待したほどではないその現状を見て、少し、満足した。
そして、私は見つけた。
『人魚、
この奥
→』
貧相な張り紙が路地の片隅にあった。
私はこのいたずらのような張り紙に心ときめいた。
――面白い。
人魚。
このくしゃくしゃになりかけているチラ裏を再利用した紙にマッキーで書かれた広告。いや、看板というべきか。
人魚というのはどこか神秘的で、その肉を食べれば不老不死となる八尾比丘尼伝説などがあるように、伝説的な生物だ。ヨーロッパでも不吉の象徴や魔物とされることがありながら、人魚姫など、儚くも美しい伝説がある訳で、このようなしょぼくれた商店街の路地裏に、そんなものがいるはずがない。
くだらない冗談。
だがそれが本当だったら?
どんな人魚が出てくるのだろう?
案外太っている?
いやいや、人魚だって現実となれば人間みたいなもの。太っているのも痩せているのも普通な者もいる。もしかしたら黒人かもしれないし、アジア人かもしれない。男性だっているかもしれない。
だが、この路地裏で現れる……しかも見世物のような扱いを受けている人魚となると……。
――というよりも見世物小屋のようにしてあるのは何らかの法に触れるのではないか?
もしかすると風営法に引っかからないようにする店のように何か奇妙なロジックがあるのやも知れない。
いや、ストリップバーの論理かもしれない。
そう思えば、この現代においてこういったものに限らずグレーな店というのは……。
いやいや、考えすぎだ。そもそもまだ、店があると確定したわけではない。
とりあえず私は、その張り紙の示す路地の奥へと歩いて行った。
路地は、意外にも長い。
人が入っているのかわからないアパートや明らかな廃屋を横目に見つつ、私は道なりに進んでいった。
ここらでこんなに長い路地を見るのは珍しい。これが俗にいう狐に化かされたという感覚なのか。現実感がない。まるで映画みたいだ。
私はしばらく歩き、そして道の果て、拉げた看板に『人魚』と書かれた、二階建ての古びたアパートに辿り着いた。
なんだ。アパートの名称か。
がっかりだ。さっきまでの妄想は、やはり単なる妄想。妄言にすぎず、くすんで屈折した私の夢は汚れたアパートによって霧散してしまうのか。
私は残念な気持ちになる。悪くない。これもまた人生。
「ああ、お客さんですか?」
私が来た道を帰ろうと思った際にそう呟く声がした。
そちらを見ると、そこには女性が立っていた。
日本人女性。……少し痛んだ黒髪を後ろ手に縛っている。服装はジャージ。そして、勿論足は二つ。
私は彼女へ尋ねる。
「客……人魚ってこのアパートの名前じゃないんですか?」
「いや、ウチは人魚がいるんだよ、アタシみたいな」
変な回答が返ってきた。
まさか二股人魚?
いやいや、何かの隠語というのが妥当だろう。
彼女は笑って言う。
「人魚、見に来たんでしょ? 見せてやるよ、来な」
彼女はそう言って、ふいとアパートの階段の方へと歩いてゆく。私は何も言わずその後をついて行った。
何だかワクワクしてきた。『人魚』を見る。彼女が人魚? 足は二股になっているという事? それとも……。想像だにしないことが起きる気がしてならない。
期待を膨らませてしまうのは悪い癖だが、今回ばかりは期待も膨らむ。この古びたアパートで一体何が起きるのか。一室には何があるのか。風呂場だろうか? それとも一室に大きな水槽が? 人の家の中に入る様なのも少しドキドキする。
彼女は角の部屋の鍵を回し、扉を開く。横目で私を見て微笑みかけて手招きをした。
私は少し恥ずかしく思いながら、その扉の中へ入った。
『ガチャッ』
私が入った途端、中で待っていた彼女が、鍵を閉めた。
「こっち」
彼女は暗い部屋の廊下を私の手を引いて進む。何が起きる?
違法風俗店でしたというオチはやめてほしいな。楽しくない。
私はふっとそんなくだらない事を考えたが、暗闇に目が慣れて、奥の部屋の中に大きなバスタブが置かれ、そこに水が張られているのを見て、その憂いは薄くなっていった。
人魚……。私はこんな寂れた街で、その神秘を見るのだろうか。
「……古い昔話に、人魚の肉を食べると、不老不死になれるって言うじゃない?」
暗がりの中私の後ろで彼女がそう言う。私は返答のため振り返ろうとする。
「だめ、そのままそっちを見ていて」
その言葉に従う義理はない。だが、私は従った。これから起きることへの期待を損ないたくなかったから。知らない人に従うのは嫌いだが、仕方がない。
私はバスタブを眺めながら返答する。
「……八尾比丘尼の伝説は知っていますよ」
「ふふ、物知りだね。……じゃあ、逆に、人魚が人を食べちゃう話は?」
そう言う話は、何かの創作物で見た記憶がある。まあ、大方、セイレーンやその他の魔物伝説に影響を受けた創作だろう。だが、彼女が今それを言うのは、不吉なものを感じる。私を後ろから刺してくる、そんなことがあってもおかしくはないわけだ。それは実に肝が冷える、そして、実に――面白い。
「何かの創作で見たな。負のイメージが地域によってはあるのだろう……君も私を食べるのかい?」
冗談めかして問う。食べるなんてのは安直だな。映画じみている。
「食べるわけないでしょ。そのつもりだったら、今そんな話はしない」
「はは、そうかな。……私だったら事前にそう言う話をするかな。反応を見たいからね」
すこし本心を言いすぎたか。まあ、この状況で、私も興奮しているのだろう。
後ろから呆れたような声が返ってくる。
「……変な人……ま、こんなところにわざわざ来るなんて、変な人だけよね」
声が真後ろまで近づいてくる。歩いて、こちらに近づいて。私の立つ場所の真後ろまで来ている。
たしか、彼女は私よりも少し背が低い。私の背は少し大きいので、彼女は女性にしてはすらっと高い身長だった。
それが、真後ろにいる。
なにか、危険なことが起きそうな予感だ。
私の後ろからすっと腕が伸びる。その腕には、鋭く磨かれたナイフが握られていた。
その刃は私の方に向けられている。が、そのまま刺されるわけではないようだ。
面白い。
「おお、これは、ホンモノのナイフかな」
「増々変な人、刃物を向けられて、そんな震えもなしに、向けてる本人にそんなこと訊く? 普通」
「だって君、震えてるだろ」
彼女のナイフを持つ手は震えていた。
何故?
殺しが怖い?
私への恐怖?
それとも……人魚の肉の下りから、私に肉をふるまうために自らを傷つけるとか?
何故そんなことを?
ああ、いけない、いけない。
先のことを期待して、余計な考察を入れては、人生が期待外れになってしまう。
彼女はゆっくりと返答する。
「……人魚なんてこの世にはいない」
ああ、いいね。そう言うの。
「いいね……謎は謎のままってやつかい」
彼女は震え声で返答する。
「……抵抗しなよ、さっさと」
私は落ち着き払って言う。
「この先を観たい。私は刺されて死ぬのか、それとも君が人魚なのか……何もないのか。いずれにせよ私は満足だ。それに、どうせ死ぬなら、こういった意味深長な死も悪くない」
こんな状況じゃなきゃ、本心は言えない。せっかくなので言いたい事を言う。
突然、死を突き付けられる理不尽な状況。不可解な言動。真偽の分からぬ人魚の存在性。
どう転んでも、私の得となる。その何れも、面白いが……。
彼女は逡巡しながら私に問う。
「……アンタが分かんない。何を期待しているの?」
私の答えは単純だった。
「私の中にないもの」
『ガタン』
ナイフが地面に落ちた。
目の前にあったはずのバスタブは消えていた。
暗がりは完全に廃墟の中……妙なにおいもする。
私が後ろを振り返ると、そこには何も無かった。
外に出ると、完全な廃アパートの中に居た事が分かる。看板も何もない。
……第一、アパートにでかでかとした看板など在る方がおかしい。
私はその廃墟をしばらく眺めた後、振り返って、商店街へと戻る。
少なくとも、私の願いは叶った。
私の中にない寂しさを、私は得たのだ。
人魚 臆病虚弱 @okubyoukyojaku
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