君のためだけのピクチャ

はんすけ

君のためだけのピクチャ

 駅を出てすぐ、マンホールに目が留まった。アニメの少女が描かれているそれに、杉本はスマホのレンズを向ける。アニメに関する知識はない。ユカリがアニメ好きだと知っていたから、撮影ボタンに触れただけ。カシャッ、と小さな音が、朝もやの晴れた空気を震わせる。そうして撮れた写真を、ラインでユカリに送った。

 駅の近くには観光情報館もあって、その軒先に顔出しパネルが一枚、置かれていた。マンホールに描かれているのと同じキャラクター、当地のゆるキャラ、一人と一匹が愛らしく描かれたそれも、杉本は写真に収め、ユカリに送った。ゆるキャラに関係する写真は過去にも何度か送ったことがある。愛らしい容姿のゆるキャラもあれば愛らしくない容姿のゆるキャラもあった。そんな容姿の優劣にかかわらず、ユカリはゆるキャラに関係する全ての写真に好感を示してきた。

 「便利な被写体」

 つぶやいた杉本の目は、顔出しパネルを透かし、ユカリの喜びを幻視していた。顔も知らないユカリの喜びを。

 短い横断歩道を渡る。すると、オブジェが目に入った。細長い台座に小さなこま犬が載っている。こま犬の、鉛色の体に帯びた淡い光沢までも写真に収める。それから、ラインを開いて、スマホを操作する手が止まった。

 「犬を飼っていたの。ノン、って名前の雌のラブラドール・レトリバー。私が生まれてすぐに飼い始めて、十三歳までずっと一緒だった。ノンが死んじゃった夜に、私はずっとノンの体をさすってた。しなびた毛を、骨が張り付いたような肉を、汗ばむ熱帯夜でも手の平を凍えさせた冷たさを、私の手は今も忘れずに覚えてる。ノンは眠るように息を引き取って、でもそれは慰めにならなかった。ノンが死んじゃってから、私は犬を見れなくなった。犬の鳴き声にさえ、耳をふさぐようになった。死ぬってことを、思い出したくないから」

 二年ほど前にユカリから届いたメッセージだった。その音なき声をまざまざと思い出して、杉本はラインを閉じた。そうして、こま犬を犬として扱ってまでユカリの心証に配慮した自分を、小さくせせら笑った。

 南には、千メートルを超える標高の山がそびえ立っている。駅を出た瞬間から視認できていたその山を、杉本は、真っ白な粉砂糖をまぶしたモンブランのようだ、と思っていた。何の下調べもない旅だったから、目ぼしい被写体を好ましい構図で撮影するためだけに、彼は歩いた。


 どこに行ってどんな写真を撮ってきてほしいか、という問いを杉本は過去に何度もユカリへ投げ掛けてきた。その問いに対する返事は、君が行きたいところの君が撮りたい写真がいい、であることが常で、特に行きたいところも撮りたい写真もない彼は困惑しながらグーグルマップを開き、これもまた常として、思い付きだけで旅の目的地を決定することになるのだった。

 一度だけ、ユカリがはっきりとした要望を杉本に伝えたことがある。先月のことだ。

 「栃木県日光市にある華厳滝を写真に撮って送ってくれませんか?」

 そのメッセージがあった翌日に、杉本はユカリの要望に応えた。始発の電車に乗り、華厳滝を写真に撮るだけの旅。曇り空の下、拙い防寒で、かじかんだ手を震わせながら撮った華厳滝は、ほの暗い氷瀑だった。

 華厳滝の写真を送ってすぐ、ユカリから届いたメッセージは、「ありがとう」だけで、その、「ありがとう」を杉本は必死に胸に抱き、降り出した雪に濡れながら帰路についたのだった。


 うっすらと汗をかき、杉本はウインドブレーカーを脱いで、それを腰に巻き付けた。晴天のどこか青白い大気は、日が高くなるにつれ陽光の煌めきに瞬いていく。まるで別世界のように、被写体と定めた山だけが雲を頂いて薄暗かった。

 どれだけ歩き回っても、町中からでは山の好ましい写真を撮ることができなかった。体力と時間の浪費を実感し、スマホを使って近場の開けた場所を探し始める。すぐに適した公園が見つかって、そこを目的地とし、杉本は歩を速めた。

 目的地の公園は広い敷地を有していて、園内には牧場も設けてあった。

 牧場で飼育されている羊を見詰めながら、道すがら自販機で買ったシャインマスカット味のいろはすで喉を潤す。

 羊は一心不乱に地面の草を食んでいて、五分ほど待っても顔を上げることはなかった。諦めて、杉本は羊のふかふかな体が強調されるように写真を撮った。

 羊の写真をユカリに送っていると、男女の笑い声が聞こえてきた。大学生と思しき四人組が、牧場のほうへと歩いてくる。四人は、恋と友情に華やいで、幸福の断片をちりばめていた。

 談笑に夢中な四人は、羊に目もくれず、牧場のそばを通り過ぎていった。そんな四人の後姿に、杉本は侮蔑と羨望の入り混じった眼差しを向けた。

 冷淡、軽薄、執着、怠惰、非情、そういった人の粗に目をつぶらなければ人を好きになることはできないと、杉本は考える。人見知りをせず、表面上は誰とでも付き合えても、人間関係のなかで露になる粗を見つけるたびに、人を嫌悪し、恐怖さえ覚え、心を閉ざしてきた。まだ十七歳の彼は純粋ゆえに潔癖で、人の粗に目をつぶることを寛容とは評価せず、卑屈と断じた。そうして、卑屈になることこそが孤独を抜け出す唯一の手段なのだと、信じていた。

 「俺は卑屈にはなれない」

 四人の姿が見えなくなってから、つぶやき、四人とは反対の方向へ歩き出す。

 ユカリのためだけの写真を撮る、それが杉本の全てだった。彼は、ユカリの純真だけを思い描いていた。

 牧場から少し歩くと、たくさんの芝桜が植えられている開けた場所に出た。被写体と定めた山、その麓の緑までもが悠々と目視できる場所に立ち、写真を撮る。

 望み通りの構図で撮れて、すぐさま新たな被写体を求めた杉本は、土色が目立つ花園で早咲きの芝桜を探し回った。そうして見つけた僅かばかりの花弁は、清潔な桃色だった。

 公園を出てからも、被写体を求めて歩き続けた。もう午後の一時をまわっていて、疲労と空腹ははっきりと自覚できるものになっていた。

 杉本には、金銭的な余裕がなかった。だから、ユカリに写真を送るための旅はつましいものであるのが常だった。そんな旅では、前日に調理した夕食の残り物を使った弁当が必需品で、しかし、この日のリュックサックに弁当は入っていなかった。

 国道を歩いていると、そば屋の看板が目に入った。ポケットの中の財布を握り締めて、その手を小刻みに震わせながら、杉本はそば屋に入った。

 中央の客席に通されて、メニューを開く。十割そばのみを提供するこの店は、良心的な価格設定ではあっても安価であろうはずがなかった。

 進学するにしろ就職するにしろ、高校卒業と同時に一人暮らしを始めることは、とうに決まっていた。親からの援助は一切当てにできないから、貯金は可能な限り多くしておきたかった。コンビニのバイトは、もう二年近く続いている。何のやりがいも見いだせない労働に若い時間を捧げ、若い感性を無理矢理に抑え込みながら倹約に努める、そんな日々が二年近く続いている。疲れ切っていた。疲れ切って、たがが外れて、杉本は、さらしなそばの大盛りと箸休めを二品、注文した。そんな初めての贅沢は、自暴自棄になっている心を少しだけ慰めた。

 注文したさらしなそばは、純白の絹のように美しく、視覚でも楽しめる一品だった。恐る恐る、そばを品の良いつゆで泳がせ、口に含む。清涼な口当たり、優しい弾力のある歯応え、淀みない喉越し。美味だった。あまりに美味で、あっという間に平らげた。箸休めも美味で、それもあっという間に平らげた。

 そば湯を飲みながら、スマホを操作する。そうして、今日送った全ての写真が既読になっていないことを再確認する。送った写真にすぐ既読がつかないのは、この日が初めてのことだった。

 この日、旅に出ることは、前日のうちに伝えてあった。「平日なのに大丈夫?」という問いに、「もう春休みだから大丈夫」と返していた。実際は春休みではなく、ずる休みなのだけれど。

 そば湯をゆっくりと飲み干すあいだ、スマホから目を離さなかった。それでも既読には、ならなかった。

 不安が募った。その不安が具体的な形を作る前に、妄信にすがり付く。

 「ユカリは、ずっと、いてくれる。俺は、ずっと、ユカリとつながっていられる」

 その声は穏やかな微風に混じって消えた。杉本は駅の近くにある観光情報館の前まで戻ってきていた。顔出しパネルを撮影していた男が、いぶかるような目を杉本に向けた。

 駅には土産物屋が併設されていた。そこに入り、土産物を見て回り、店内の少し目立たないところに設置されたカプセルトイの前で足を止める。当地のゆるキャラグッズが出てくるカプセルトイだ。缶バッジが出る台にお金を入れ、不慣れな手つきでハンドルを回す。祭り衣装のゆるキャラが描かれた缶バッジが出て、杉本は、いつかユカリにこの缶バッジをプレゼントしたい、と思った。

 土産物屋を出て、観光案内板を見る。観光名所とされている神社を新たな目的地に定め、歩き出す。

 少し歩いたところには市役所があった。その駐車場の傍らには鳥居と祠を見ることができる。御旅所だ。そこに鎮座する玄武を撮影して、振り返り、鳥居を通して見た市役所は、やけに小綺麗だった。母親の恋人を連想してしまう、小綺麗だった。


 幼いころから、母親の恋人を何人も見てきた。若い男がいて、老いた男もいた。派手な男がいて、地味な男もいた。多種多様な男たち、それでいて彼等は共通して、連れ子に無関心だった。現在、母親が付き合っている恋人も例外ではなく、彼が杉本を見やるときの目は、嫌悪さえも宿らず、ひたすらに冷たかった。

 男を取っ替え引っ替えしてきた母親だったが、現在の恋人とはもう三年以上も関係が続いている。恋人は、市役所に勤めている地方公務員で、長身の男だった。垂れた前髪はいつだって眉を隠すことはなく、ブランドの衣服はいつだってアイロンがかかっていて、ブランドの革靴はいつだって磨き立て、そんな様相を見るたびに、杉本は、やけに小綺麗だ、という印象を抱くのだった。

 男との付き合いだけでなく、女友達との交遊も盛んな母親は、深夜に酔って帰ることがたびたびあった。そうして酔った母親は、普段の放任をかなぐり捨てて杉本に絡んだ。お前を産んだせいで大学を辞めることになった、お前を産んだせいで親戚と疎遠になった、お前を産んだせいで毎日働き詰めになった、父親にそっくりなお前が嫌いだ。

 「あんたが高校を卒業して、あんたに金がかからないようになったら、私はあの人と一緒に暮らせるんだ。あの人はそう約束してくれたんだ。やっと、私は幸せになれる。やっと、やっと。あんたさえいなくなれば、やっと」

 それは、高校の入学式の日に言われたことだった。言われて、杉本の理性は、母親を愚かだと断じた。しかし感情は、母親を哀れんだ。その哀れみがあるからこそ、卑しい恋人の小綺麗は憎しみを強める触媒となって、彼を苛んだ。憎しみは、苦痛を伴うものだから。


 逃げるように、杉本は市役所から離れた。せめて旅先にいる間だけは、下劣な人間を忘れていたかった。記憶を置き去りにしたいがために、足が休むことはなかった。

 目的地の神社に着いて、境内を巡ると、十分な満足を得られた。杉本は特に、水霧の舞う御手洗川を幻想的に捉え、好んだ。

 神社を出てからは、参道に当たる通りを歩いた。その通りはレトロな建物が軒を連ねていて、被写体に事欠かなかった。

 通りに面した甘味処の前で、制服姿の女子高校生が三人、だんごを食べながら談笑していた。そのうちの一人が、杉本を見やり、それから、他の二人に小声で何かを伝えた。すると、二人は一際大きな笑い声を上げた。

 杉本は、俯き、女子高校生たちのそばを早足で通り過ぎた。

 「ユカリがあんな風に笑うことはないだろう」

 声が零れ出て、歩調が緩まったころ、右手に寺が見えた。塀に設けられた看板には、寺の名前が記してある。山門をくぐらず、駐車場から境内に足を踏み入れて、本堂の脇にある裸木に注意を向ける。その木の真ん前にある立札には、メグスリノキ、と書かれていた。木の名前と寺の名前が相まって、ここが目の健康を願う寺であることを理解した杉本は、境内の至るところを撮影し、それら全ての写真をユカリに送った。

 「私、今は目が一番、大切なの。目を使わなくちゃ家族とコミュニケーションもとれないし、それに、君が送ってくれる写真を見ることだって、目がなくちゃできないんだから。この目だけは、私、絶対に失いたくない」

 半年前に伝えられたその文面を、一字一句まではっきりと覚えていたから、杉本は初めて神仏に願った。ユカリの目がいつまでもユカリのものでありますように、と。そうして、茶番に薄ら笑った。

 少しだけ、肌寒さを感じる。小学生たちの笑い声、その澄んだ音色が響く。陽光に山吹色が差した。

 杉本は、繁華な場所を離れ、川を目指して歩いた。

 緩やかな傾斜を下り続け、川の近くまで来ると、北のほうに大きな斜張橋があるのが分かった。

 斜張橋を被写体とするも、遠くからではなかなか好ましい写真が撮れなかった。それで杉本は、斜張橋を間近で撮ることを目的として、住宅街を川沿いに進んだ。

 歩き通しがたたり、足にはマメができてしまっていた。マメによる痛みは次第に強まっていく。それにもかかわらず、杉本は走り出した。ユカリが青空を好きなのを知っているから、まだ青空が残っているうちに撮ってしまいたかった。靴下に血がにじんでも、彼は走り続けた。

 斜張橋のそばに立ち、様々な角度から写真を撮る。いくら撮っても、何か物足りない。趣向を変えて、斜張橋の中程まで入っていき、内側から主塔にスマホのレンズを向ける。ケーブルの影が主塔に作る縞、ケーブルが青空に作る縞、それらの対比がはっきりとして、撮れた写真に杉本はほくそ笑んだ。

 徐に、川を見下ろす。地元の女子中学生三人が、学校指定のジャージ姿で川遊びをしている。川は源流の面影を残して、濁りが少なく、女子中学生たちの姿を映した。川の真上まで歩いて、たゆたう少女の像を凝視し、杉本は、あの写真に似ている、と思った。初めて見たユカリの写真に似ている、と。


 三年前、杉本がユカリのインスタグラムを見つけたのは、奇跡といえるほどの偶然だった。

 おもちゃなどはほとんど買ってくれたことのない母親が、稚拙な罪悪感に堪え兼ねて買い与えてくれたスマホ。それを眠れない夜に延々といじり、ネット上の虚栄や虚構に嫌悪と恐怖を抱き、孤独感が強まって、悲鳴を上げるように行ったハッシュタグ検索の言葉は、「好きになれる誰か」。そうして、投稿が一件だけ見つかって、目にした一枚の写真は、川面に映る人物だった。清流にかすんで、顔はおろか体型さえも判別できない儚い像に、杉本は自分を重ね、哀れみ、慈しんだ。投稿者のユーザーネームは、yukari。そのユーザーネームにそっと触れ、展開した無数の写真全てを、丁寧に瞳に映していく。フォロワーは百人に満たなくても、yukariが投稿した写真はどれも美しく、優しかった。

 川面に映る人物の写真が、最後の投稿だった。

 新しい投稿がなくても、杉本は毎日yukariのインスタグラムをチェックし、そこにある写真を見詰め続けた。

 二か月ほどは既存の写真だけで満足していたが、yukariへの執着が強まっていくのに比例して新しい写真を見たいという気持ちも強まっていき、ある日、意を決して、「あなたの新しい写真が見たいです。投稿をお願いします」というダイレクトメッセージを送った。ダイレクトメッセージを送るなど初めてのことだったから、杉本は不安と後悔を覚えて、むしろ返信はないほうがいい、などと自分に言い聞かせながら、待った。そうして、一週間後に返信がきて、彼は返信の内容を確認する前からガッツポーズを取ってしまうほどに喜んだのだった。

 「お返事が遅くなってしまって、ごめんなさい。私の新しい写真を見たいと言ってくれて、本当にうれしかったです。でも、今はちょっと事情があって写真を撮れていないので、新しい写真を投稿することはできません。わざわざご連絡をくれたのに、ごめんなさい」

 返信を読んで、杉本は落胆し、自嘲した。会ったこともない人間を拠り所とするなんて自分はどれだけ寂しい人間だったんだ・・・・・・そう自嘲して、それでもyukariから離れられず、理性と執着の狭間で苦しんで、結果、彼は衝動的になり、再びダイレクトメッセージを送った。

 「不しつけなお願いをしてしまい、本当にすみませんでした。自分は、yukariさんの写真が大好きです。yukariさんがまた写真を投稿できるようになる日を、待っています。それと、yukariさんさえよろしければ、また自分に返信してください。自分は、もっとyukariさんとお話しがしてみたいです。これもまた不しつけなお願いですが、考えてみてくれるとうれしいです」

 その言葉は余りにも素直すぎて、独り善がりだとしか思えず、杉本は自らを恥じ、返信なんてあるはずがないと決めつけた。しかし、返信はすぐにあった。

 「私も、あなたとお話ししてみたいです」

 それから、二人は何度もダイレクトメッセージでやり取りをした。やがて、二人の間に敬語がなくなって、yukariはユカリになって、連絡手段がラインになった。

 ユカリは、恋を語った。友情を語った。趣味を語った。行った場所、食べた物などを語った。自らのことをほとんど話さない杉本は、いつも聞き役に徹し、でもそれはちっとも苦痛じゃなくて、夢想らしい汚れのない話を聞くことは、これ以上ない幸せだった。

 

 「私は、好きになれる誰かになりたかった」

 最後の投稿に、「好きになれる誰か」なんてハッシュタグを付けた理由を尋ねた際、ユカリが言ったこと。それを反芻しながら、杉本は駅に向かって歩いた。もう被写体を求めたりしなかったから、駅までの道のりは淡々と消化されていった。

 西の山々に隠れた太陽が、その夕日で空を淡く照らし、白夜のような世界を形作る。その果てしなく繊細な美しさにさえ気付かず、疲弊に捕らわれて、帰りの電車の切符を買った。

 改札へ向かおうとしたとき、スマホが鳴った。ライン通話の着信だった。

 恐怖が、あった。躊躇する。着信音が鳴り止んでくれるのを望みながら。しかし、どれだけ時間稼ぎをしようとも、彼の望み通りにはならなかった。

 杉本は、観念するような心持で、通話に応じた。

 通話相手は、第一声で、「初めまして。ユカリの母親です」と言った。

 こんな声をしていたんだ。そう思いながら、擦れた声に耳を澄ます。

 「ユカリは今朝、亡くなりました」

 事務的な通話が一分ほどで終わって、杉本はふらふらと、駅から離れていった。


 「私、ALSだから」ユカリがそう言ったのは、一年前のことだった。「今まで君に言ってきたこと、全部、嘘。好きな人のことも、友達のことも、高校の帰りにいつも食べてるっていう五平餅も、みんな嘘。だって、高校なんて行けてないし。写真に興味がなくなったっていうのも、嘘。自分が撮りたいものを、もうどうしたって撮れなくなったから、だから、やめたの。やめたくなんてなかったのに。私、君に嘘ばっかり。ごめんなさい」

 そうして、これも嘘。分かっていて、しかし杉本は、ネットでALSについて調べた。

 上っ面だけの情報を蓄えていくほどにユカリを辱めているような気がしてきて、杉本はスマホをポケットに押し込み、家を出て、寂しい夜道をさまよった。

 何の変哲もない街灯が、一匹の猫を照らしていた。やせていて、毛並みが悪く、尻尾が短く、目付きの鋭い猫。杉本と目が合って、それでも猫は逃げ出さなかった。

 杉本は、スマホを取り出し、そのレンズを猫に向けた。猫はまだ動かない。撮影ボタンに触れ、カシャッ、と小さな音がする。そうして、猫は夜の暗がりに消えた。

 その猫の写真は、杉本が初めて撮った写真で、初めてらしく、芸術の観点でいえば酷い出来だった。杉本も、酷い出来であることを自覚していた。それでも、映った猫がどうしようもなく愛おしくって、この愛おしさをユカリと共有したくって、杉本は欲求に流されるまま、写真をユカリに送った。送って、激しく後悔する。あんな下手くそな、汚い猫のものなんて・・・・・・。

 杉本は、塀に背中を預け、俯いて、少ししてから、空を見上げた。煌めく満月が目に入る。それに見入っていると、スマホが鳴った。ユカリからの着信だった。

 ユカリを怒らせてしまったかもしれない。そう思うと、怖くなって、すぐにはユカリからのメッセージを読むことができなかった。

 ユカリに謝ろう。そう考えてようやく、ユカリからのメッセージを読めた。そうして、杉本の傷んだ心は、癒された。

 「私、この猫、好き。君の写真、好きだよ」

 ずるずると、背中が塀をこすって落ちた。杉本は、不慣れな共感と肯定を持て余しながら、この言葉だけは本当だと信じて、いつまでも、自分を慰めた。

 その日から、杉本は色々なところへ行き、色々な写真を撮って、それをユカリに送るようになった。ユカリはいつだって喜んでくれて、だから、杉本は写真を撮り続けた。


 暗闇に取り残された番いのような、半月が頭上にあった。質素な作りの橋から見下ろした川は、真っ黒で、もう何も映さない。

 宿をとるお金も、意味もなかった。終電が迫り、帰宅する以外の選択肢はない。夕飯を食べていなくて、お腹が空いた。それが無性に腹立たしかった。

 駅に向かって、歩く。忘れていた足の痛みを思い出す。痛みは熱を宿していた。

 一匹の、猫がいた。街灯の明かりに照らされた猫が。猫は、杉本をじっと見詰めて、動かなかった。

 「俺も知っているよ、ユカリ」杉本はつぶやいた。「俺も知っている」

 まだ小学生だった頃、杉本は、空き地の隅でうずくまっている死にかけの猫を見つけた。その猫を抱きかかえ、近くの動物病院へと走る。夜のことで、動物病院は閉まっていて、下りたシャッターをいくら叩いても無駄だった。諦めて、猫を自宅に連れていき、食べ物や飲み物を与えようとしたが、猫は何も口にしなかった。やがて、母親が帰ってきて、猫を見つけて、「汚い!」と叫んだ。再び猫を抱きかかえ、空き地に戻る。それから、猫が息を引き取るまでずっと、その体をさすっていた。

 「しなびた毛を、骨が張り付いたような肉を、汗ばむ熱帯夜でも手の平を凍えさせた冷たさを、俺も知っているよ」

 その言葉を、ユカリに伝えたかった。

 歩き続けて、駅に着いて、改札を通り、プラットホームに立つ。自分以外には誰もいない。

 乗客のいない電車が来て、乗車し、座席に座る。

 電車が動き出した。

 杉本は、カプセルトイで手に入れた缶バッジをウインドブレーカーにくっつけて、車窓越しの過ぎ行く闇夜を見やった。

 帰るのだ。学校に、バイト先のコンビニに、母親と暮らす貧しいアパートに、帰るのだ。それは、心の通わない人々のもとへ帰るのと同じ。そうして・・・・・・。

 「ユカリはもういない」

 涙が流れた。それを止めることは、もう、できなかった。

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