第2話 「春が溢れて」

 私は、無力だった。

 

 

 

 卒業式を終えた午後。読書と洒落込んでいた私に、一通のメッセージが届く。それは彼女からのメッセージだった。

 そこにあった、「お母さんがいなくなっちゃった」という知らせは、私を茫然ぼうぜんとさせた。

 どういうことだ?

 母親が居なくなる?

 交通事故か何かか?

 それとも、なにか事件に巻き込まれたのか?

 警察に連絡したほうがいいのか?

 ハルカは片親のはず。

 となるとハルカは一人になる?

 本当に居なくなるなんてことがあるのか?

 もしかしてたちの悪い冗談なのか?

 そんなことを意味も無くハルカはする訳がない。

 じゃあハルカは今後どうするんだ?

 そもそも今ハルカは無事なのか? 

 ハルカも一緒に事件に巻き込まれた可能性はないのか?

 様々な思考が頭を巡り、脳内を混線させ、飽和させていく。

 

 数秒、空白が発生する。

 

 状況はまだ分からない。しかし、私は「……行かなくちゃ」と呟く。上着も、家の鍵さえも忘れて、彼女の家へと向かわなくては。そう、確信した。玄関のドアを開け放した後ろで、母の呼び声が聞こえた気がしたが、私はそれを無視して駆け出した。

 まだまだ残る初春の寒気が頬を撫で、頭に血が上った私を窘めてくる。

 続いて、身体も悲鳴を上げ始めた。息が上がって、喉が笛のように鳴る。視野はじわじわと狭く、ぼやけていくし、脇腹の奥が、足りぬ血を求めていることを、痛みとして私に伝えてくる。

 その全ての警告を気に留めることなく、私は彼女のために、ただひたすらに、闇雲に走った。

 私も彼女も高校は徒歩通学だったし、何度か彼女の家の前までは下校の際に立ち寄っていた。だから、そんなに距離は遠くはないはずなのに、今日に限っては、そのアパートまでの道程が無限にも感じられた。ようやく、彼女の住む部屋の前に着いた私は、呼び鈴も鳴らさずにノブに手をかける。鍵の締められていないドアは勢い良く開け放たれた。

「ハルカっ!!!」

 

 彼女は身だしなみに相当気を使う人だ。それなのに、叫ぶ私の目の先の彼女は、路地裏の野良猫のように毛並みを崩していて、ひと呆然ぼうぜんと座り尽くしていた。相当な騒音を鳴らしたはずなのに、ビクつく様子もなく、まるで置物のように佇んでいる。

 その様相で、ただ事ではないことが起きていると、私は確信した。ドアを抑えながら肩で息をする私に対して、彼女はゆっくりと振り向き、朧気にくすんだそのまなこで私を認識すると、ふらふらと覚束おぼつかない足で立ち上がった。

 思わず、私は靴を脱ぎ散らかして、彼女に向かって駆け出す。そして、弱々しくこちらに歩いてくるその身体を、ぎゅうっと胸に抱きとめた。

 しかし、なんと声をかければいいか、頭の中の引き出しを片っ端から漁るも、そんな場面に適した語彙ごいが、すぐに見つかることなどあるわけがなくて、母親が失踪して孤独の海に放り出された彼女に対して、高校を卒業したての井蛙せいあな子供がしてあげられることなど、せめて離さないように、抱きしめるその力を強めることくらいで。私は自身の及ばなさに苛立ちさえ覚えた。

 それでも、せめて私に出来ることをしてあげたい。そう思って、彼女を抱きしめていた。

 そうしていると、私の腕の中で放心していた彼女の、限界まで張り詰めていた心の糸が切れたようで、ゆっくりと私を抱き返すと、消え入るような音で啜り泣き始めた。

 私は彼女が感動以外で泣くところなど、初めて見た。それなのに、こんなにも哀しい泣き方があるだろうか。どうせなら大声で、強く、穿つようにいてくれたのなら、私もこうまで心が苦しくならなくて済むのに。彼女はこんな時でさえ、涙を床に溢す音さえ隠すように、小さく、ただ小さく泣いた。私はそんな彼女がいたたまれなくて、抱きしめるその腕の力を更に強め

「大丈夫、大丈夫だから」

 そうやって、私は子供騙しの台詞せりふを苦し紛れに吐くことしかできず、その声は私達の間で彼女の小さな泣き声と混ざる。かすかに響くその音を、窓から鳴る隙間風が私達を嘲嗤あざわらうかのようにかき消した。

 

 しばらくの時が経ち、煙草の香りが遺る薄暗い居間の中、私達は二つ並ぶ座椅子に腰掛けていた。彼女はようやく話が出来るようになるまで落ち着いたようで、体育座りの膝に顔を埋めながら小さく呟く。

「その……ごめん……」

 謝る必要なんてあるわけが無い。そもそも勝手に先走って家に押しかけたのは私だ。謝る必要があるならむしろ私の方だろう。だから

「気にすることなんてないって。誰だって、その、こんなことがあったら……」

 そう言って、彼女を気遣う。それでも彼女は

「でも……ごめん、ほんとに……ごめん」

 と謝罪を重ねた。

 再び沈黙が辺りを包む。それをいたのは、今度は私のほうだった。

「今日は、ウチに泊まる?」

 心配だった。彼女までもがどこかにいなくなってしまいそうで、それをなんとか繋ぎ止めるために、口をついて出た言葉がこれだった。

「えっ……ぁ……」

「ハルカが心配だからさ、ハルカがいいんだったら泊まってほしいな。むしろこれは、私からのお願い」

 勿論、彼女は戸惑った。だから私は、本心からの理由を言った。少しだけ、ずるい言葉を加えて。

「でも、迷惑じゃない、かな」

「そもそもさ、ここに来たのも私の勝手だし、ウチに泊まってほしいのも、私が勝手に心配してるだけ。だから、その、なにも気にしないでほしいな」

 彼女はしばらくの間俯いて、私の服の裾を掴む力を少しだけ強めた。私は「ありがと」と、一言告げた。

 ふと顔を上げると、辺りはもう、夜と言って差し支えない時間になっており、スマホには母からのメッセージが十数件ほど、彼女を慰めているときには気づかなかった。ごめん、母さん。

 何も言わずに出てきてしまったので、怒りと心配が混ざった文言となっている。私は適当な謝罪の文と、続けて彼女を家に泊めていいかの断りのメッセージを送る。二通目は隣でうずくまっている彼女には悟られないように。

 数分程経つと、母から「いいから。とりあえず、帰ってきなさい」との返信が。母の察する能力と優しさに感謝して、私はそっと彼女の手を引いた。

 

 

 

 この時の私はとても無鉄砲で、狡く、行動力に溢れていた。それなのに。

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春華消灯 深郷蒼 @MisatoAoi0522

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