春華消灯

深郷蒼

第1話 「春を見ゆ」

 散る華と、春に焦がれた私の話。

 

 

 

 ■■■

 

 

 

  私こと"初瀬川 夏姫 はせがわなつき "と、彼女こと"小鳥遊 遥 たかなし はるか "が出会ったのは、高校生になって二ヶ月が過ぎた頃だった。

 汗ばむ肌、鬱陶しく張り付く髪、季節感を無視してやる気を出す御天道様、それらに不快感を覚えながら、前のこの時期はまだ暑くなかったのにな。と過去の記憶に思いを馳せる。

 隣には「季節関係なくさあ、暑いんだからエアコンのひとつくらい、付けたらいいのに」と不満を漏らしている友人が何人か。私はその悪態をたしなめ、「にしても暑いね」などと中身のない事を言い合う。そんな教室内でのワンシーン。

 大体二ヶ月も経てば、教室内で集まる人達というのは、決まってきてしまう。さも当たり前かのように、私にもそんなグループはできていて、人並みの高校生活を楽しむ準備は整っていた。

 

 ある日の昼食時、その日は少し一人になりたい気分だった。

 生来からの社交的な人間にはわからないだろうが、私はそういった類いの人間ではなかった。所謂いわゆる高校デビューと言うやつで、本来の私は教室の後ろの方で本を読みふけ っているような人間だ。

 小さい頃に、自分の特徴とか、性格とかをバカにされた経験がある人は多いと思う。そのまま塞ぎがちになってしまう人も。

 私の場合、それは名前だった。"ナツキ"という名前は、両親がまだ私の性別すらわからない頃に、決めた名前だという。夏生まれということで、夏を入れて"ナツキ"、後から検査で女の子とわかり、の部分に"姫"を付けた。夏らしく、明るく活発に、いきいきと輝きながら生きてほしい。そういう意図を込め、名付けたらしいと、小学校の頃の授業の一環で知った。

 しかし、私はこの名前があまり好きではなかった。私は自分のことを到底、活発な人間とは思えなかったし、周りには男っぽい名前ということで、随分とからかわれたものだ。小さい頃の嫌な思い出は案外と心にわだち を残す。両親から授かった名を無下 むげ にする様に、私は深く人と関わること無く、小中の九年間を過ごした。

 流石に高校では、根暗な雰囲気を払拭するべくと、勇気を出して美容院へと赴いた私は、名前に合うように明るくかっこいい感じに。とオーダーした。地元から多少離れた高校を選択したこともあり、見た目に合うよう、振る舞いも人当たりの良い人物を演じることにした。どれが功を奏したかは知らないが、無事友達と弁当を囲めるようになったのだから、目覚ましい進歩だろう。

 しかしながら、幼少期から培われた性根というものは、すぐには変わらないもので、演じることに疲れた私は、クラスメイトから声をかけられないように気配を消し、人気のないところを求めて、弁当を片手に彷徨っていた。

 

 人気の少ないところには、三つほど心当たりがあった。一つは保健室、もう一つは屋上へ続く階段、そして最後はここ、非常階段だ。

 保健室や屋上階段には、これまでにも数回、お世話になっていたのだが、前者は友人への言い訳が面倒だし、午後に体調が優れなさそうな演技をするのも、これまた面倒だ。

 後者の屋上階段は、先日のホームルームで立ち入ったことに対する軽い注意が入った。私以外にもお世話になっている生徒は多少いたし、担任もどうでも良さそうに注意していたので、形式上の注意だとは思うが、そんな注意のあとでは、行くのは少々躊躇ためらわれた。

 私は消去法で非常階段へと足を運ぶ。人が全く来ない訳では無いので、ほぼ利用したことはないのだが、今日はそんな贅沢も言っていられないだろう。

 

 

 

 その日、たまたまここを選んだのは、きっと運命か何かだった。そう、一人おもう。

 

 

 

 人の流れに逆らって廊下を進み、少し重い鉄扉を開ける。

 カツカツと階段を上り、二階と三階に挟まれた踊り場を目指す。すると、ああ残念、先客がいるようだ。だが、まあいいだろう。

「隣、いいかな? お邪魔だったら別のとこに行くけど」

「ん〜ん、大丈夫だよ」

 もう大分散った葉桜を背にその先客は、私の申し出をありがたいことに快く受け入れてくれた。そして、パンからはみ出した葉野菜をちぴちぴとついばんでいる彼女。整ったその顔に似合わぬ、小動物のような仕草が少し面白い。

 そんな彼女には見覚えがあった。同じクラスの小鳥遊さん……だったか、確かそうだった。教室で話したとはないが、入学当初、男子が人だかりを作っていたと、そう記憶している。

 私はありがと、と一言添えて横に腰を下ろし、風呂敷を広げる。彼女がいた事は誤算ではあったが、予想はしていたことだったし、何より、教室の喧騒から離れられるのだから、及第点以上だろう。別に教室にいるわけでも、普段つるむ友人がいるわけでもないので、私は黙々と昼食を口に運ぶ。

 しばらくの沈黙が続いたが、それをいたのは、彼女だった。

「おべんと、おいしい?」

「……まあまあ」

「そっか、いいね」

 そんな他愛もない会話。沈黙が耐えられなかったが故の一言だろう。こうなると、私も無言を貫く訳にもいかないので、適当に会話を捻り出す。

「小鳥遊さん、だっけ、同じクラスだよね」

「うん、小鳥遊 遥。って漢字の、私のことはハルカって呼んで?」

「私は初瀬川……夏姫。出来れば……名字で呼んで」

 そう言うと彼女の顔に疑問が浮かぶのが見て取れた。不服そうな彼女に、私は続けて「自分の名前、あんま好きじゃないから」と目も合わせずに投げやりに言い放つ。

「どうして?」

 彼女は小首を傾げ、率直に投げかける。

「男っぽいでしょ、ナツキって」

「そうかなあ、良い名前だと思うけど。あ、ほら。教室では夏みたいに明るいじゃん、見た目もボーイッシュだし」

「あれは……作ってるんだよ」

 言ってから、「今のは周りには言わないでね」と一応釘を差しておく。折角高校デビューに成功したのに、外面 そとづら を作っているなどと、吹聴 ふいちょう されたらたまったものではない。今現在の態度がこうな時点で意味はないのだろうが、念の為。

「あはは、別に言わないよ、言っても意味ないし、言う人もいないし」

「そう、ありがと」

「じゃあ、そうだね……初瀬川さんって名前の漢字はどう書くの?」

「……夏に姫」

「じゃあヒメちゃんって呼んでいい? これなら男っぽくないし、かわいいでしょ?」

 彼女の申し出に私は少し驚いた。私のことを可愛いなどと言ってくれる人など両親以外で初めてだったからだ。だが、呼び名については別に断る理由も見つからなかったので「まあいいよ、好きに呼んで」と承諾することにした。

「ハルカはここがお気に入りなの?」

「んーん、今日はたまたま。いつもはね、屋上のとこの階段とか、体育館の渡り廊下とかで食べてる」

 彼女は続けて「教室は居づらいしね」と軽く笑いながら付け加える。

「私と一緒だ」

 それを皮切りに、私と彼女は弁当をつまみながらゆっくりと会話を続けた。波長が合うのか、初めて会話するはずなのに、他愛ない世間話がなぜだかどうして苦痛とは思わなかった。

「ヒメちゃんはさ、明日もここ来る?」

 私は口に運んだおかずを、飲み込むくらいの間思考し、話す。

「明日はわかんないけど、一人になりたくなったら来るよ」

「私はいてもいい?」

「……ハルカならいいかな、煩くないし」

 自分の口から出た言葉に驚く。しかし、紛れもなく本心だった。

「そっか」

 そう返すと、彼女は少し嬉しそうにしていた。一人でサンドイッチを摘んでいるのを見た時は、真顔の美人ってちょっと怖いな、なんてぼんやり思っていたが。少し会話をしてみるとどうだろう、表情がころころと変化する彼女はとても可愛らしくて。

 それからというもの、私は人間関係に疲れたときは、あの非常階段へと足を運ぶのが日課となっていた。

 同じクラスなのだから、教室で会話しても別にいいのだが、なんというか、教室での彼女には少々話しかけにくかったのだ。明らかにハブられているというわけではないが、彼女はカーストの高い女子から距離を置かれている。彼女の言う、教室には居づらいというのもこういうことだ。

 恐らく、あの美貌と若干天然が入ったような振る舞いが災いしているのだろう。ハブに加担しているようで心苦しくはある。しかし、学校という狭い社会での空気感には、逆らう事ができない。私が距離を置かれることになっては、安心して高校生活など楽しめないから。罪悪感は残るものの、私は自分で自分を説得して、人当たりの良く、明るくて格好いいクラスメイトの一人を演じ続けた。

 とはいえ、私としては、彼女と話しているときのほうが心地良いのだし、別にもう気にしなくてもいいのかなとも思ったが。

 彼女もそんな私の振る舞いを快く受け入れてくれ、昼食時の会話でもそういったところを咎められることはなくて、心苦しいものの甘えてしまう私が居た。

 しかし、非常階段での密談も、片手の回数では収まらなくなってきた頃、彼女は遂に聞いてきた。

「ヒメちゃんてさ、最初にここに来たときも思ったけど、教室と全然雰囲気違うよね」

「まあ、そうだね」

「疲れないの?」

 私は一瞬、言葉に詰まる

「……疲れるんだけどさ、私はそういう役回りをしなきゃいけなくなっちゃったから、仕方ないよね」

「へー、私はそういうの無理だなあ、のんびり生きてる方が楽しいよ」

 ……だから教室に友達が居ないんじゃないのか、という言葉を、私は口に含んでいたプチトマトと共に飲み込むタイミングで、彼女は続ける。

「だって、私一人が好きな事をしてたってクラスは変わらないでしょ?」

 あまりにもきょとんとした顔で話すものだから、一瞬納得しかける。

「でもさ、それをみんながやっちゃったら変わっちゃうんじゃない?」

 冷静になって出てきた言葉で諭すと、「確かにそうかも!」と言って彼女はわざとらしいくらいうんうんうなずいてみせた。

「じゃあ私がのんびり過ごせるように、ナツキちゃんはここではヒメちゃんになってもらおうかな」

 発言の意図を考える。が、理解するのに時間がかかると判断した私は、素直に質問をすることにした。

「どういうこと?」

「教室でのヒメちゃんは元気でかっこいいナツキちゃん! ここでは暗いけどあったかくてかわいいヒメちゃん! って感じ?」

「暗い言うな」

 鼻で笑いながら、私はハルカの脇腹を冗談ぽく小突く。

「いて、でも本当じゃん! ここでの本当のヒメちゃんを知ってるのは、私だけなんだからね!」

「はは、なにそれ優越感みたいな?」

 小さな二つの笑い声が、秘密の鉄階段に混ざって響く。私はその場では呆れてみせたが、内心はまんざらでもなかった。疲れたときにハルカとの会話で癒やされているのは事実だし、何よりハルカになら、嫌いだった私の名前を呼ばれても、気にならないくらいに話しているのが楽しいのだ。

 実際のところは、優越感を抱えているのは私の方だ。教室での彼女は、私と話しているときほど楽しそうにしていないし、何より、彼女に向けられる気持ちは下心のほうが多数なのだろう。誰々が彼女が告白にしたという話を、入学して間もないのにも関わらず、何度も小耳に挟んだ。なんなら、直接愚痴として聞いたことも二度ある。熱心に春を求めて大層な事だ。

 そんな彼女が私の前ではころころと楽しそうに笑っている。そんな姿を魅せられて、優越感を抱かないほうが難しいだろう。

 

 

 

 今おもうと、私は既にこの頃から彼女に焦がれてしまっていたんだと思う。

 

 

 

 彼女との関係は、学年が一つ、二つと上がっても変わらずに続いた。変わったことと言えば、二年ともクラス替えによって別のクラスになったので、多少普段から会話がしやすくなったことと、放課後には一緒に遊びに行くようになったことくらいか。

 というのも、彼女と私の間には共通の趣味があった。私の父は読書家で、リビングやトイレの棚に小説が大量にあった。そんな家に育ったので、私が自然と本を手に取るようになるのは時間の問題だった。読書にうつつを抜かしすぎて、母親にトイレが長すぎると注意されたことは、両手の数では到底足りないことだろう。

 また、聞かされた時の私も意外に思ったのだが、彼女の趣味も読書で、授業合間に文庫本を片手にしているのを何度か見かけることがあった。ファッションで持っているというわけではなく、中身もしっかりと読んでいるようで、彼女が現代文のテストだけは高得点を維持しているのにも、少なからず貢献しているのかもしれない。

 読書中の彼女は随分と様になっていて、その瞬間を切り取って絵画にしても、名画と遜色なく肩を並べることが出来るだろうななんて思った。しかし、その様に惹かれた男子が話しかけてくるのが、鬱陶しいことこの上ないらしく、それを見る機会も学年が変わる頃には、無くなってしまったが。

 そんな彼女と放課後に遊ぶとするなら、もっぱら本に関することだった。二人で書店に赴き、適当な本を漁って、喫茶店や近くのベンチなどで読んで、ささやかな感想会を開いてみたり。お互いの本を持ち寄って私の部屋に集まり、ああでもないこうでもないと解釈を列ねてみたり。

 そうしてみてわかったのは、どうやら彼女は一つの本をじっくりと咀嚼するのが好きなタイプのようで、同じ本を何度も何度も熱心に読むものだから、彼女の持つ本は背表紙の隅が毛羽立っているものが多く、その反面、私は一つの本を読み込むよりは、多数の本を読むタイプで、例えば、同じ作者の別の本を片っ端から読んでみたり、好みの作者が帯に推薦文を寄稿しているものを、とりあえず読んでみたりするのが好きだった。

 つまるところ、私のほうが持っている本の絶対数が多いわけで、彼女に本を貸すことは何度もあった。

 最初、私は彼女に貸すのなら、多少本が痛むのは覚悟していた。それよりも私の心に留まった物語を、彼女にも読んでほしい。私が思って、感じたことを伝えたい気持ちの方が強かった。そんな気恥ずかしいことを、直接は言えるわけはないけど。そうして一月程の間を開けて、返ってきた本は貸したときとほとんど変わりなかったりして、律儀だなあと思ったものだ。

 

 さて、話は彼女と出会ってそろそろ二年が経つ頃に移る。

 時間は昼食時。撫子色 なでしこいろ の化粧を落とし終わった、私達の非常階段を彩る葉桜を背景に、私は彼女と遊ぶ約束をした。「やた! あそぼあそぼ!」と嬉しそうにしていた彼女が、とても愛らしかったのを覚えている。

 久々に二人で遊びに行くので、私も少々嬉しかった。久々になった理由は、私が元々の友人との付き合いをおろそかにしていたが為に、埋め合わせに奔走することとなったからだ。

 その塩梅 あんばい には元々注意していたつもりだが、私は多少の注意でそれを潤滑に保てるほど、器用な人間ではないようで、均整となるよう気を配らねばなるまいと再確認した。だがしかし、卒業も間近になったら、取り繕う必要も無くなるだろうし、そうしたら彼女の方に天秤を傾けてもいいのかもしれない。私としても彼女と遊ぶほうが気が楽だし。

 私の家の近所の、桜並木通りに差し掛かると、散った花弁と、アスファルトとのコントラストが創り出した、初夏の絨毯に「なんか寂しいね」なんて、風情に浸りながら、二人で私の家へと向かっていた。

 そんな久々の外出でも、いつもと変わらず、行ってきたのは近所の書店で、適当に面白そうな本を一つ、選んできたところだ。

「ただいま」

「おじゃましまーす」

 帰宅と訪問の挨拶をすると、母が出迎えてくれた。

「おかえり、あら、ハルカちゃん! 今日も可愛いわね、うちに来るの久しぶりじゃない?」

「あ、ヒメちゃんママ! お久しぶりです。そうですね、一ヶ月ちょっと来てないかもです」

「そう〜久しぶりね、どうぞくつろいでいって」

 彼女は母と親しげに話している。何度もうちに連れてきているので、すっかり仲良くなってしまったようだ。一時期、彼女の私への呼び方の真似をして、母までもヒメちゃんと呼んできたときは、流石に勘弁してほしかった。私は彼女の袖の裾を引き、早く自室に行くよう促す。

 急かされた彼女は、慌てて靴を脱ぎ「お、おじゃまします」と再度訪問の挨拶をして、二階に上がる階段へと、先を行く私を追いかけた。私は書店の袋を開き、新品のビニールを破く。そのまま部屋のテーブルに本を開き、彼女を隣に座るよう促す。これが私達の読書方法。

 

 今日買ってきた本は、水難事故で死んだ彼女を追って、彼女はそんなことを望まぬと理解しながらも、自身も共に海へと身を投げてしまう。そんな男の話。

「ヒメちゃんはさ、恋人が死んじゃったら、どうする?」

 二人で読み終わった後、彼女が開口一番に言った言葉。恋人なんて出来たことも、作ろうという気もなかったので、「どうするんだろうね」と言って、しばし思考する時間に移る。

「そんなの心はいでられないよね」

「それは、そうだろうね」

 小説内の文言を引用して彼女は話す。

「私はさ、多分耐えられないから、この男の人と一緒で自殺しちゃうと思うんだ」

「確かに、ハルカはそうしそうだよね」

 彼女の回答は、私の想像の中の彼女のものと一致するものだったので、同意の意を示したところで、考えがまとまる。

「私は……死なないかな、多分」

「そうなんだ、なんかさ、恋人が死んじゃったってなったら、世界の半分が無くなったみたいにならない?」

 少し上を向きながら人差し指を立て、それをくるくると回しながら話す彼女。それに私は率直に

「そうなのかな、正直居たことないからわかんないんだけど」

「私も居たことはないけど……なんか、そうなりそうだなって」

 彼女は後書きで止めていた小説を巻き戻し、いくつかのページをザッピングをするように眺めながら、漏れ出るように言葉を編む。

「……なんか、私が死んじゃった時にさ? もし……私を追って死んでくれるなんて人がいるなら、それは、ちょっと素敵だなって思うよ」

 そう噛みしめるように呟き、彼女は私の肩に体を預けて「なんてね」と、はにかんだ。その頼りない笑顔にかげ りを見た私は、何か言おうとするのだけど、気の利いたことなんて何も言えなくて。その時の私は、ただ本から得た文字を呑み込んでいるだけで、こんな時に慰めの言葉一つすら吐けないことに、やるせなくて本当に本当に、自分が嫌になってしまった。

 その日の事の話は、誰が言ったわけでもなく、なんとなく、二人の間でタブーとなった。

 

 

 

 二人で選んだ、花瓶に差さる枝桜と彼女が重なる。きっとあの時、私に素顔を少し、ほんの少しだけ見せてくれたんじゃないか。外面を散らし、枯れ落ちてしまいそうな本心を、私は上ばかり見上げて、踏みにじっていたのかもしれない。 

 

 

 

 晩冬の夜更けのこと、私は少し小腹が空いて、何か満たすものを求めて台所に居た。スマホ片手に、ホーム画面の明かりを頼りにして、戸棚を物色する。

 その時、甲高い通知音が鳴り、私は心臓が止まりそうになった。バカバカバカ、と脳内で自分を叱責し、そそくさと通知の音量を切る。通知音の正体は彼女からのアプリのメッセージだった。

「ヒメちゃんのおかげで、ちゃんと卒業できそう! ありがとう!」

 そんなことが書かれていて、ほっと胸を撫で下ろした。そして、その場に座り込んで返信を打つ。

「ハルカが頑張ったからだよ、おめでと」

 既読が付き、少しの間を置いてから、可愛らしいスタンプが送られてきて、引き続き何通かのメッセージを交わす。

 受験、卒業シーズンとなってから、受験勉強の合間に彼女とは、何度か勉強会を開いていた。面接練習もなんかもしてみたりして、友人に対して、改まって畏まった挨拶を練習するのは、どこか面白くて吹き出してしまったりしたこともあった。

 しかしながら、人に教えるのも、なかなか良い勉強となるもので、それが実を結んでくれたのか、私は大学に合格し、彼女は無事卒業の運びとなった。彼女は学力と家庭の事情もあり、進路を就職にとるようで、同じ大学に行くことは叶わなかった。とはいっても、簡単に連絡は取れるだろうし、一月後に控えた卒業式まで、のんびりと余裕のある学校生活を楽しもうと思う。

 今日のところは少し夜ふかしをして、読みかけの本を読破しようか。その為にはまず、この小腹を満たさねば。そう思い立ち上がろうとしたところで、私の頭部に衝撃が走った。

「今何時だと思ってるの! 明日も学校なんだから早く寝なさい!」

 トイレに起きてきた母だった。私は頭を抑えながら入っていかない説教を聞き、言い訳をする隙も与えられることなく、強制的に明日へと時間を進めることとなった。

 

 そういった日々も過ごしつつ、私達は遂に卒業式当日を迎えた。

「まだまだ蕾の桜の木は、これからの貴方達です。花開くその時を楽しみにしています。是非とも、綺麗なその花を咲かせてください」

 それが校長先生の締めのスピーチだった。これまでそんなスピーチなど、なんとも思っていなかったのに、その時の私は何故か、そのありきたりなスピーチがじんと来てしまい「ああ、空気に呑まれてるな」なんて思ったものだ。

 周りには号泣しているクラスメイトや、顧問の教師を胴上げをしている運動部員など、色とりどりな面々が騒がしく並んでいて、まるで屋台の出店のように賑やかだった。

 あと幾許いくばくかで、制服を着る義務も終わりを告げ、ここにいる皆が、それぞれの道を歩んでいくのだろう。交わる道、逸れていく道、様々な道があるのだろうが、彼女と私の道は近くに続いていたらいいな。そんなことを思った。

 彼女はというと、式の最中は一切泣かなかった癖に、今は私の隣でうるうると涙を堪えている。

「別に今生の別れってわけじゃないんだからさあ」

 私は呆れたように言う。

「だってぇ、だってさぁ」

「卒業しても連絡取れるじゃん? 一緒にずっと遊ぼうよ」

 私がそう言うと、彼女の潤んでいた眼に光が灯り「絶対、絶対だよ!」と念押しした。そのまま、えぐえぐと泣く彼女を宥めながらの帰路につき、私達の高校生活は終わりを告げた。

 

 それからしばらくして、今日も彼女と書店に行ってきた。ふらっと行っただけだったので、今日はなにも購入せずに解散した。そうした日の帰りには、そのままお互い家に帰って、まだ読んでいない本や、貸した本を読んでメッセージアプリで感想を話すのが通例だった。

 例に漏れず、その日もそのまま解散となり、私はまだ三割ほどしか読んでいない本を手に取った。

 しばらくして、ちょうど物語も半分に差し掛かったところで、スマホから通知音が鳴る。彼女にしては読み終わるのが早いな? 終わり際で読みやめた本の続きでも読んだのだろうか。

 私は親指を栞代わりに挟み、スマホに手を伸ばす。そこにあった彼女からのメッセージ。それは

 

「お母さんがいなくなっちゃった」

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