第7話 濃くなる疑念
尼子の部屋は全然女の子らしくなかった。
ぬいぐるみなんてひとつもないし引っ越しの段ボールのいくつかはまだ手つかずで残っていた。
入り口側の壁にかけられた高校の制服と、その横の恋愛映画の大きなポスターだけがここが少女の部屋であることを主張している。
やがて尼子がお盆によく冷えた麦茶をふたつ乗せてやって来た。
どこかに吹っ飛んでしまった薄ピンク色フレームのメガネは無事だったようでかけ直している。
俺はお礼を言ってひとつを受け取った。尼子はもう泣きやんでいたがまだ目は真っ赤だった。
「あのさ、尼子は警察になにか言ったの?」
尼子は首を横に振った。
「そうか、じゃあ俺と同じなんだ」
尼子は今度は力強く頷いた。
頷く動作にあんまり勢いがあったので髪の毛が翻っていた。
俺はそれがおかしくて笑った。すると尼子も笑顔になった。
そして机に向かったかと思うと紙とペンを持ってすぐに引き返して来た。
キュキュキュと油性ペンのペン先が紙と擦過する音が聞こえる。
やがて書き終えた尼子はそれを俺に見せてくれた。
《史郎のことはなんにも言ってない》
と、書かれてあった。
「史郎?」
俺は思わず聞き返した。
確かに俺は秋月史郎だが、俺のことをそう呼ぶのは両親と姉たちくらいである。
学校では普通に秋月で通ってる。
だが俺のその一言を聞いた尼子は一瞬身を固くしたと思うと、ものすごい勢いでペンを走らせた。
すると《史郎》の部分をぐちゃぐちゃに書きつぶして、その上に《秋月》と訂正していた。
そしてそのままうつむいてしまう。
「あのさ……もしかして尼子がなんにも警察に言ってないってのは、俺と現場に居合わせたことを言ってないんじゃなくて、いつも通りに沈黙してまったくしゃべらなかったってこと?」
尼子は顔を上げて頷いた。
俺は声を出して笑う。
「それってすごいよ。
うん、すごい。一度決めた意志をそのまま貫くなんてすごいと思うよ」
すると尼子は困ったような顔になって再びうつむいてしまった。
そしてそのまま下をずっと向いていた。
俺はなにか会話が続くことを考えてそして思いついた。
ポケットから写真を取り出してそっとテーブルの上に置く。
「あのさ、それ例の室山っていう一年生が盗んだのを拾ったんだ。
だから返しておくから」
尼子は手だけ伸ばしてそれを受け取った。
だけどそれはこの場の雰囲気を好転させる効果なんかまったくなくて、返って逆効果になっただけだった。
写真を見た尼子は一層身を固くした。
「あのさ……ごめん。それ返さない方が良かった?」
尼子は下を向いたまま首を横に振る。
そして空になった麦茶のグラスをお盆に戻すと立ち上がり台所に行って洗い物を始めた。
俺はのろのろと立ち上がると玄関に向かった。
映画のポスターが目につく。
するとポスターは下の部分が画鋲で留められていないので少し捲れあがっていた。
それが気になった俺はポスターを捲ってみる。
……下に地図が貼ってあった。
それはこの区近辺の地図で昨夜と一昨日の火事の現場に赤いペンで×マークが書かれてある。
そして地図の上の隣町の部分にはもっと多くの×マークがあった。
ものすごい衝撃だった。
俺は決定的ななにかを押しつけられて大事にしていたものがガラガラと崩れる感じがした。
背後に気配を感じて振り返ると尼子がうつむいて立っていた。
その手には紙があって《私は犯人じゃない》と書いてある。
だけど俺にはもうどうでもよかった。そして大急ぎで靴を引っかけた。
「あのさ……あのさ、尼子の声って聞いたことあるの俺だけなんだよね?
尼子の声ってとってもいいと思うよ。
だから……尼子の声を聞いたことのあるのが俺だけってこと、ちょっと……優越感だったんだ。
だから……」
だから……クソっ……。
後は言葉にならなかった。俺は叩きつけるようにドアを閉めてしまった。
□
その後俺はパソコンに向かっていた。
昨夜と一昨日だけじゃなく隣町で起きた放火事件の詳細を調べていたのだ。
よくよく考えてみたが、俺は尼子が放火犯なのか違うのか、もうわからなくなっている。
尼子はいつも火災現場に姿があったし、火事の記事ばっかり集めたスクラップノートを持っていた。
更にポスターに隠して放火事件の場所に×マークをつけていた。
わからない、わからない……なんにもわからない。
ネットで調べた犯人の目撃情報は有力なものがまったくなくて、尼子に該当するような若い小柄な少女と言う犯人像は一切なかった。
わからない……。
一連の連続放火事件に尼子冴絵の影は一切ないのだ。
ただ想像の域を出ないけど尼子が転校して来た理由、このアパートで一人暮らしをしている理由、そして沈黙を続けている理由。
そういうものがすべて放火事件とつながっている気がしてならなかった。
――最初に気がついた異変は
続いてパチパチと木材がはぜる音がした。
俺は猛然とドアを開けた。
すると一階からもうもうと煙がはい上がって来るのがわかった。
――火事だった!
このアパートが燃えているのだ。
そのとき共用廊下に誰かがいるのに気がついた。
尼子だった。尼子が黒ずくめの格好で立っているのだ。
「尼子ーっ!」
俺が叫ぶと尼子は手すりを超えて地面にジャンプしているのが見えた。
隣のドアが開いて細井さんが顔を出す。
「細井さん!
火事です。一階から火が出ています!」
姿を見せた細井さんは消防署に連絡すると言って部屋に戻った。
俺は階段を二つ跳ばしに駈け降りた。そしてすでに小さくなっている尼子の背を追って走り始めた。
……どうして尼子は逃げるんだ?
まるで、……まるで犯人みたいじゃないか!
俺はもうなにがなんだかわからなくなった。
■
あちこちの方角から消防車のサイレンが近づいて来るのがわかった。
俺は尼子を見失っていた。
そしてここは見知らぬ住宅地だった。
すごく遠くまで来てしまったのか、それとも案外近所なのかぐるぐる走り回ったので現在位置がまったくわからなくなっていた。
サイレンの音を聞きつけて人々が家の外に出てきた。
そして口々に誘い合いながら消防車が目指す方角へと向かって行く。
まるで街灯に集まる蛾の群れのようだと思った。
人々の喧噪が去ると辺りは急に静かになった。
俺は誰もいない夜中の公園の水飲み場で頭から水を浴びた。
アパートはどうなったんだろうか? そして尼子はどこにいるんだろうか?
俺はベンチにもたれかかり星空を見上げた。
――ふと声が聞こえた。
最初は聞き間違いだと思った。
だが耳をすますとかすかに、「史郎ーっ! 史郎ー……っ!」と女の声が聞こえてきた。
間違いない、尼子の声だ。
俺を史郎と呼ぶのはここでは尼子冴絵以外にいない。
「尼子ーっ!」
俺は力の限りに叫んで通りに出た。
「史郎ーっ!」
語尾がほんのかすかに糸を引く耳当たり。
間違いなく尼子冴絵の声だ。あの声を忘れる訳がない。
だがその声は明らかに助けを求めていた。
これは恐怖にさらされて必死の思いで叫ぶ声だ。
俺は声の方角を頼りに街角をいくつも駆け抜けた。
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