5 白い結末
「なるほど、確かにシンプルな話ですわね。ああ、わかりやすい」
痴情がもつれている時点でシンプルなのかどうかは疑問の筈なのに、ビルケは冷静にそう言った。
男はそんな静かな言葉で目を覚ました。
「ど、どこまで話したっけ」
話していたのか、というより、一体何をしていたのか。先程までの記憶が曖昧だ。落ち着けと自身に命じ、男は行動を振り返る。この町に逃げ込み、ここで珈琲を、そう、得体の知れない白い珈琲を飲んで、そうしたらなぜかなんだか話したくなって、自分でも不思議なくらい話して、口が、舌が、止まらなくなっていた。なのにどうして意識が途切れたのだ。
今、男は確かにあの喫茶店の席についている。バリスタのビルケは正面にいる。呂律も回っている。じゃあ、なんだ、さっきのはなんだ。背中に冷たいものが流れ落ちている。その汗が凍って白くなってしまうのではないかと。
「殺人事件の冤罪がらみで、追われている人のお話ですわ」
「粗筋じゃなくて、どこまで話したか、だ」
「ですから、追われるようになったところまでです」
男は深呼吸した。なんとなく、ストーリーのブックマーク部分、映像の一次停止マークをタップした時点が、見えてきた。これ以上は、話さない方がいい。話すと、まずいことになる。男の直感が、危険を知らせてきた。
「私は貴方が淀みなくお話を紡いでくださるのを、ただここで聴いていただけのこと……続きも聴きたいのですが、ひとまずはそちらを飲んで落ち着きませんか。冷めてしまっては勿体ないですし」
「い、言われるまでもない」
男はカップに手を伸ばそうとしてハッとした。まさかとは思うが、この白珈琲とやらに、何かが仕込まれている? 自白剤? そして、何故俺はそこまでこれを疑っている?
訳が分からない。男は、ままよとばかり結局カップを手に取った。
白珈琲の水面を覗き込む。そこには澄んだ色があり、心を落ち着けてくれる。
筈だった。
そこには、人の顔が映っていた。ただし、男の顔ではない。
女の顔だった。刺された、あの女の顔が。愛し合ったときには見せなかった、叫びの表情だった。
一体、誰に対して叫んでいる? 先程までのその珈琲と同じ、白い顔で。何と言っている? 彼女が何かを叫ぶたびに、確かに水面は揺れている。でも、その声は、聞こえない。聞こえないのに、男の耳の奥に、得体の知れない波紋が連鎖する。
「なんなんだこれは。一体、これはなんなんだ。この期に及んで、何を俺に訴えているんだ」
明らかに異常事態、怪奇現象だ。なのに、男の目の前にいるバリスタは、平然としている。
「おいあんた、なんなんだよこれは。俺を脅して何が嬉しいんだ。というか、どうなっているんだこれは。最早飲みものじゃないだろ。なんだこれは」
「“脅す”? なんで、そんな表現をなさるのですか」
「とぼけるな。何者なんだあんたは」
冷や汗が泉のように湧いてくる。カップを見直す。そこには、もう顔はない。澄んだ白い珈琲が、カップの底を映しているだけだ。ただし、水面が波打っている。カップを持つ手が震えているから。
狼狽がカタカタという音に現れ、カップとソーサーに喧嘩をさせている。
「なあ、あんた、わかっていたんだろ。俺が、刺した方だってことに」
ビルケは答えない。ただ、男にそれとなく目を向けているだけだ。ただしその青い瞳は、男からは色をなくしたように見えていた。
「どんなしかけなんだよ、この珈琲は。やっぱり、自白剤か何かが入っているんだろう」
「しかけも何も、貴方が勝手にお話ししてくださっただけのことですよ。まあ、私は分かっていましたけどね」
あっさり、驚きもせず、ビルケは返す。
「いつから気付いていた」
「貴方がメニューを読んでいた頃、ですわ」
大事なことなのに、事もなげに言う。
「白い匂いがしたのです。貴方の、その鞄から」
その言葉を聞いたことが引き金となり、男は自身の顔が白くなっていくような気がした。さっきの白珈琲の湖面に映っていた、あの女の顔色のように。
ビルケの視線の先にある、ボストンバッグ。男はついそれを抱え込んでしまった。
「逃げるたび、少しずつ、それを棄てていたのですね。それ……“彼女”はそれぞれの場所に置いてこられたようですが、匂いは貴方を離さず追いかけてきていたのでしょう」
「だからなんでわかるんだよ。俺があの女を殺した方だと」
「あの、私はまだそこまで言っていませんよ」
最早、「しまった」という顔すら作れなくなった。男の目は血走っていたが顔面は蒼白だ。
「貴方は追われている方、なのですよね」
「ああそうさ、ばれちまった。居合わせた相手の無実が証明されてな……あっちはもう逃げる必要がなくなって、俺の方が、逃げる方に、なって……」
「あなた、説明の途中から主語が曖昧になっていましたしね。自分が逃げているのか、別の“彼”が逃げていたのか、何か白黒はっきりしなくなっていたのです。ちなみに“彼”の方は鞄の中で白くはなっていないのですよね」
男は鞄をもっと強く抱きしめたはずが、腕の間をずるっとすり抜けて足下に落ちた。鈍い音がした。鞄の中に、何か低く喉を鳴らす、不気味な獣がいるかのように。
バッグの口は少しだけ開いていた。中に残っていた“白くなった彼女”の一片が、そこからほんのり濁った光の筋を発したのが、男には見えてしまった。震えが、止まらない。
「私の興味は、あなたがどういう方か、です。どうして罪を犯したのかとか、どうして“彼”の方を殺す度胸がなかったのか、とか、どうしてここで嘘をついたのかすら、どうでもいいことですわ。あなたがその白珈琲に選ばれるような方なのかどうか。それくらいです」
相変わらずビルケは淡々と言葉を続ける。
「も、もういい、喋るな」
男は衝動に駆られ、思わずカウンターを飛び越え、手を出していた。ビルケは逃げようともしない。背後から彼女の腕を掴み、後ろに回し、極めた。懐から出したナイフを、軽く背中に当てる。
「いけませんねえ」
何がいけない? 嘘をついたことが? 逃げたことが? 浮気が? 殺しが? 今、こうしてビルケに何かをしようとしていることが?
「わかっているでしょうに。貴方の国の言葉では、『白々しい』と仰るのでしたか」
男に言わせれば、この白い珈琲や、この店や、このバリスタが、いけない。幸い、この場には男とビルケしかいない。ウェイターは帰った。最初にこの店に来たときの客達が嘘のように、店内は男のほかに客席に就いていた者はいない。ここでこの女をどうにかすれば、また逃げられる筈。
恐怖、焦燥、あとは何だ。男は感情に動かされるまま、カウンターの向こうのビルケにつかみかかった。
首元にナイフを当てる。が、刺すには到らないくらいは、まだ理性が残っていた。
「おとなしくしてもらう。悪く思うなよ、おとなしくしたまま、じきに静かに冷たくなるが、悪く思うな」
「あなたの方が先におとなしくなるのではありませんこと」
ビルケは全く動じていない。
「ふざけ……」
男の箍が外れた。ナイフの握り手に力をこめた、はずだった。
一向に、力が入らない。刃を食いこませるどころか、柄を持っている感触すらない。
ポテ、という間抜けな音に続き、カランという冷たい音が響き、木の床にナイフが転がった。柄から落ち、跳ねて刃が床を叩き、得物が男から遠くに転がっていく。
男の指先の感覚が無くなったのではなく、指先そのものが無くなっていた。指先だけではない。体のあちこちが、色を失っていく。そして霧散していく。この店内のおかしな空気に溶けていくように。
「なんだこれは、あんた、本当に、何をした。おい、俺はどうなっているんだ」
怒気から覇気が抜け、次第に声が震えていく。泣くのではなく、鳴くような異様な声色へと変わる。それに呼応するように、男の体は霧になる。
「私は白珈琲を淹れただけ。あなたはそれを頼んだだけ。でも、どうしてそれが書かれたメニューが貴方に見えて、貴方がそれを選んだかは、貴方にしかわからないことですわ」
ビルケは自身を押さえていた男の腕がなくなり、再び自由を得ても、淡々としたものだった。
「メニュー同様に、ここに来たのも、いえ、来ざるを得なかったことも、貴方が選んだこと」
だが男はそれに答えることも、考えることも最早できない。
「ひぃ」
ただ悲鳴を上げるのみ。
「望んだことかもしれませんわ」
男の体が消え、最後の悲鳴の響きも消えた。
「あら、もうなくなってしまいましたの。私の話を、最後まで聴いてくださったのでしょうか……」
乱暴に店のドアが開けられ、霧が晴れた外の光とともに常連が戻ってきた。
「あらハインツさん。今はお席がありますよ」
ビルケはカウンターを出て、床の灰を掃いていた。
「そいつはありがたいねえ。んじゃあいつものブレンドをポットで。暖まりたいねえ」
「かしこまりました。いつものですと、お砂糖は多めでしたね」
足音も立てずに、ビルケは定位置へ戻って豆を取り出す。
「それにしても極端だねこの店は。ちょっと前は大混雑だったのに、今はぽつぽつくらい。俺と一緒に空席待ちだったあの兄ちゃんは、どうしたんだい」
「つい先程までいて、変わったメニューを頼んで最後まで味わっていかれましたわ」
「なんだか落ち着きがなさそうな兄ちゃんだったなあ。観光って感じでもなさそうだったけど、何しにこの町まで来たんだろうね」
粛々と珈琲を淹れるビルケの髪がちょっとだけ揺れたが、ハインツは気付かない。
穏やかな音を立て、色のついた珈琲がカップに注がれたところでバリスタは答えた。
「さあ? 知ろないわ( Ah? Ich Weiß nicht. )。」
(了)
白珈琲は知っている 雪後 天 @setsugoten_KY
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