4 白い味
「ここの家々がみんなモノトーンというか白基調なのは、霧に合うようにしたからなのかい」
「いえ、そのような説は存じ上げません。それに、同じ白に見えても、微妙に違うものですよ」
「そういうもんかねえ」
掴み所がない会話をしているうちに、ビルケは白珈琲とやらを抽出できていたようだ。これまた、微妙にくすんだ色をした白……灰色とも言い難い白のカップが、同じ色のソーサーとナプキンの上に乗って、湯気を立てている。
「できました。ごゆっくりどうぞ。クッキーはサービスですわ」
男は言葉を交わしながらビルケが珈琲を淹れる様を見ていたはずなのだが、途中でミルクを入れた覚えはない。珈琲が白くなる要素は確認していなかった。だからこうして彼女が男の席まで珈琲を持ってくるまでは、その器が白いから白珈琲なのか、くらいにしか思っていなかった。何かと思えば、そんなオチかと。
男の卓に、それが置かれるまでは。
湯気の立つ、器の中に目を遣り、男は目を見張った。そして目を疑った。
確かに、白い。どういうことだ。
カップの色が透けているのか、それともこういう色なのか。確かに、水面は白かった。しかも、純白ではなく、どこかしらくすんだ色合いだ。彩度は低い。水のように透明度が高いようにも感じられるが、液体自体がこの色なのか。
そういえば、ビルケは砂糖やミルクを入れるか聞いてこないし、添えもしない。代わりにソーサーの上に乗っかっているのは、無機質な薄いグレーの小袋だった。中に、彼女の言ったクッキーが入っているのだろう。
「冷めないうちにどうぞ」
白か透明か分からないが、少なくとも珈琲であることは確かだ。男の鼻がそう言っている。豆をコーヒーミルで挽いていたときから、この香りがしていた。ただし、豆の色は薄くても浅煎りという感じではない。標準的な香りか。いや、違う。どことなく、漢方薬の袋を空けたときのようなものが混じっている。
「いやあ参ったな。胡散臭い名前かと思ったら、本当に白いんだな、この珈琲は」
苦笑いの作り笑いにも、ビルケは平然と答える。
「それが白か透明かなんて、そうそう簡単にわかるものではありませんよ」
そのセリフ自体が、男にとってわかったようでわからない。ひとまずもう一度水面を除く。天井のランプの光が反射しているが、自分の顔は写っていない。では、透明ではなくて白なのか。
「貴方のお顔が見えなくても、飲めば貴方が見えるかもしれませんわ」
一体何を言っているのだこの女は。言葉を飲み込み、次に白珈琲を飲みこむことにした。考えているうちに、冷めてしまいそうだから。
思ったより重いカップを手に取り、男は一口含んでみた。
確かに珈琲だった。色がどうであっても。苦い酸っぱい香ばしい。
白か透明か、簡単に分かるものではない、というより、どうでもよかった。珈琲のようで、薬膳のようだ。あの白い豆のストレートの筈だが、何かがブレンドされているのだろうか。
落ち着いたような落ち着かないような、この味は一体何なのだろう。相変わらず他の客が入ってこない店内で、男は何かが自分の内側から変わろうとしている動きを感じた。
冗談ではない。ここに落ち着くわけにはいかない。飲んだらすぐにおさらばするのではなかったのか。自問自答し、振り切るようにビルケの方を見る。
「なあ、飲み干すまでの間に、聞いてくれるか」
男は気がつけば、口を開いていた。己の様にハッとしたときにはもう、言葉が出ていた。
「まあ。あまり話したがらないように見えていたのですが、気が変わったのですか。私は別に構いませんよ」
あまり驚いているような表情には見えない。冷ややかで、動じていない口調のビルケが続ける。
「無理にプライバシーに踏み込むことはいたしません。聞いてしばらくしたら、忘れるといたしましょう。お好きなようにどうぞ」
気がつけば男は語り出していた。
「俺は追われているんだよ。ある殺しをきっかけに」
なに、大した話じゃない。
俺は母国で通訳をしていた。薄給ではあったが、やり甲斐のある仕事だった。
痴情のもつれが、起こるまでは。
あるバイオリニストの娘の通訳を頼まれた。我が国のオーケストラに客演するため、演奏旅行で長期滞在することになったと。
渡りに船だった。いい条件だったし、なかなかこれまで音楽の知識を生かした通訳ができなかったから。
で、情が深まったと。
オーケストラの楽団員同士だけでなく、スタッフもみんなが一緒に全国を転々として、一つひとつの舞台を作るために団結する。集団には仲の良い者も悪い者もいるけれども、それでも舞台を重ねるごとに、プロフェッショナルのチームとしてまとまっていった。さっき話してくれたこの町のフットボールチームもたぶん、そうじゃないか。
まあとにかく喜怒哀楽を共にするなかで、あちこちでお近づきになる者はいるものさ。
俺と彼女の場合も……ほら、音楽は感情を表現するだろう。演奏した曲目の中には作曲家が友人の音楽家の奥さんに横恋慕したとかそんな背景があって、譜面からそれが滲み出ているとかなんとかそういういわくがついているものもあるわけさ。そういう曲の表現だのなんだのを訳しているうちに、そうなった、感じかな、うまく言えないけれど。
旅先ではいろいろあったものさ。それはもう、夜が白むまでいろいろと。
一か月間の演奏旅行が終われば、自分の契約も終わる。その先の関係も残そうと、俺もいろいろ努力したもんよ。それはもう、青臭いガキの頃みたいに。
ところが演奏旅行も終盤になって、ややこしいことになった。それはもう、不協和音だ。
バイオリニストに、ちょっかいを出していた奴がいた。そして、終盤になって、強硬手段に及んだ。
何故俺は気付かなかったのか。
演奏旅行の最終日に、宿泊先のホールであった慰労会の途中で彼女がいなくなっていた。いつの間にか。メッセージもない。
事務的には翌日の解散式までが俺の契約期間だった。それを延長するはずだったんだがな。その“交渉”は慰労会の後に、夜通し、する予定だった。
彼女の部屋に行った。
先客がいた。
そこから先は、まあ、ご想像のとおり、修羅場だったな、
俺もそいつも、彼女の言語が話せた。なんだろうな、同じ言葉が話せたからって特別な関係になれたと勘違いしたのかな。あ、俺じゃなくて、相手の話ね。
だけどな、俺と相手は、同じ言語を話している筈なのに、話が通じないんだよこれが。向こうは勝手にさや当てしてきて因縁つけてきて、それで感情的で、もう通じない通じない。口より手が動いたね。
しまいにゃ彼女をそっちのけにして、その部屋で取っ組み合いが始まって……
気がついたら刃物を持っていて、血の臭いがしたと思ったら、倒れていたのは彼女だった。深々と刺さっていた。
そこに駆けつけた同じフロアの客とか他の団員とかホテルマンとか、兎に角もう大騒ぎさ。でも、刺した方は、相手の隙を見て殴って気を失わせ、凶器を持たせた。
片方は罪を被せられ、片方は恋人を殺され自らも傷ついた被害者になった。
冤罪? そうともいうが、そう決まってもいない。
そうして、疑いを晴らせず、逃げていた奴がいる……長いこと……そして……
あれ、俺は誰にこんな話をしているんだ、余計なことまで。
いや、話せなくなってきた。なんだ、さっきまで必要以上に口が動いてベラベラ言っていたのに、なんでここで舌がもつれる。あれ、まだ終わっていないのに、いやもう話さない方がいいか……え、なんで目の前も霞んできているんだ、目の前にいるのは誰だ……なんか、白くなっていって……
(続く)
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