3 白い珈琲
店に戻る。気のせいか、先程よりもさらに霧が薄くなってきた。似たような家が建ち並ぶなかで、”Café”の看板を頼りに店を見つけ、立て付けのあまりよろしくない扉を開く。
きぎぃっ、と妙な音を立てて開く。最初に男が入ったときに、こんな音はしただろうか。店内が混んでいたから気にならなかったのか。そして、今の店内は、随分と空いている。空くどころか、あれだけいた客がいない。
一人だけ、手前のテーブルの周囲に人がいた。先程応対してくれたウェイターだった。何やら箒で掃いている。よく見ると灰のようなものだった。店内は禁煙の筈なのに、なぜ灰が? しかも、盛り塩のような小さな山になっている。ウェイターはそれに違和感を抱くでもなく、黙々と掃除を続ける。
「連絡ありがとう。で、空いているところに座っていいかい」
とりあえず男はウェイターに声をかけた。彼は「ひぇっ」と情けない声を出して少し飛び退いた。「いや、店に入ったのに気がついただろう。扉がすごい音をたてたし」と言うのを堪え、訊き直す。「座っていいかい」
ウェイターはまた、店内を見回し、壁を見て、カウンターを見て、僅かな間を置いて、のち、答える。
「い、いいですよ。お好きなところにどうぞ」
「ネーベル君、お疲れ様です。もう帰っていいのですよ」
ネーベルと呼ばれたウェイターが先程見ていたカウンターに、いつの間にか女性が立っていた。最初に入店したときもそうだが、このバリスタは瞬間移動でもできるのだろうか。ウェイターは灰を集めて捨てると、ばつが悪そうにバックヤードへ消えた。
「ご来店ありがとうございますお客様。メニューをお渡ししますので、お決まりでしたら読んでいただければ幸いです」
店内にいるのは、このバリスタの長身女性と、男だけだった。あんなにいた先程の客は、どこに行ったのだろうか。みんな飲み終えたのか。長話はしないのか。PCで作業とか、スマホでゲームとか、勉強とか、ただぼーっとしているとか、そういう客はいないのか。男はそんなに長い時間、外で歩いていた気はしなかったのだが。それに、あのハインツとかいう常連らしき人物は戻ってこないのか。男のように、アプリで順番待ちをしていた者はほかにはいなかったのか。何より、新しい客はいないのか。
そうした疑問はどうでもいいことだと、男は思い直した。どうせ、この店は今回だけ。自分はまた逃げるのだから。束の間の休みだ。そう思うと気が楽になり、メニューに手が伸びた。
男は兎に角、落ち着けるものが飲みたかった。別に珈琲が好きなわけではない。適当に一杯を飲んで、また別の場所へ立ち去りたかった。だが何故かこの町は、そしてこの店は、居心地がいいわけではないのに、時間を費やしたくなる。飲めばその気も変わるか。とりあえず一杯。
メニューは矢鱈豊富だ。珈琲だけでも様々なブレンドやストレートがあり、そこにバリエーションも多く記されている。面倒くさいから適当にブレンドを選ぼうと思ったが、ふと、一か所に男の目が留まった。
Weißkaffee
果たして
そうではない、Weißkafee、白珈琲とは何か。何が白いのだ。ミルクが多く入っているのか。カフェラテなのかカプチーノなのかカフェオレなのかはっきりしろ。と男が思っていたら、それらも Eiskaffee 同様に別途メニューに記されていた。では何が白いのだ。一度気になったら、このメニューのほかの選択肢が見えなくなった。
「バリスタさん? いや、マスターか? このメニュー、一体何だ」
人とは関わらないつもりだったのに、男は気がつけばカウンターに声をかけていた。
「名前でよろしいですよ。私はビルケ・フロイデンベルクと申します。フロイデンベルクでもビルケでも、お好きなように呼んでいただければ幸いです」
男がメニューから顔を上げたら、いつの間にかそのビルケがカウンターから席の方に移っていた。その立ち姿を見れば、背筋はすっくと伸びている。白いブラウスに、黒いパンツ。そしてダークグレーのエプロン。この町の家を擬人化すればこうなる、というお手本にも見えた。そして、プラチナブロンドというより、その肌の色に近い、違う表現をすれば白に限りなく近い金髪だった。
「じゃあビルケさん、これなんだが……」
男はメニューの Weißkaffee の文字を示す。この店、この国に限ったことではないが、メニューには文字情報だけで日本のように写真は掲載されていない。
「え、お客様! それが見えるのですか!」
それまで淡々としていたビルケが急に目を見開き、声の音程まで変えた。思わず男は後ずさりする。何が起きた。
「見えるも何も、書いてあるじゃないか。何を言っているんだ。というか、何に驚いているんだ。ビルケさん、あんたの店のメニューだろう」
「見える人には見えます。見えた以上はお勧めです。でも、貴方も見える方だったとは!」
男はビルケが何を言っているのか、皆目分からない。裸の王様の衣装について話をしているわけでもない。一体何をお勧めされて、何に驚かれているのか。ますます、このメニューが気になった。
「なんだかよく分からないが、お勧めなら、そのWeißkaffee を一杯お願いしたい」
「いいんですか! 何を感じても知りませんよ!」
「お勧めと言ったじゃないか。飲んでほしいのかほしくないのかどっちなんだ」
「わ、わかりました。誠に失礼いたしました。私としたことが、私としたことが」
よく分からない怯えを顔に表し、ビルケはカウンターに下がっていった。
この先にどう逃げるかを考えるのも、面倒くさくなった。今はとりあえずその白珈琲とやらを飲んでから考えよう。でも、待つ間は手持ち無沙汰だ。男は、店内に目を遣った。ネーベルとかいうウェイターはその後帰ったようなのだが、彼は一体この空間で何を見ていたのだろう。壁のシミに何か暗号でも書かれていたのか。殺風景なモノトーンは、この店の内も外も同様だ。違うのは、霧がかかっていないことくらいか。
「なあビルケさん、この町はいつもこんな霧でモヤモヤしているのか」
思わず声が出ていた。余計なことは話さないつもりだったのに、なぜかそうさせる雰囲気がこの店にはあるらしい。
「ドイツ語がお上手なのですね」
「ありがとう。あんたも随分と丁寧だな。訛りもなさそうだ。中部の出身かい?」
男が大学時代にひとまず「優」の評価を得たドイツ語が、この国を逃げ回る中で役に立っていた。そして、ビルケの話し方は接続法だったかなんかと、曖昧な記憶を掘り起こす。
「いえ、私はこの町で生まれ育ちました。だから、もうこの霧には慣れっこなのです。いつもこうというわけではありませんので、ご安心を。たまたま、お客様がいらしたときがこんな感じだと思っていただければ」
ビルケは手際よく、珈琲豆の入った瓶が並ぶ中から、明らかに色が違うものを取り出した。その硝子の内側には、確かに白い豆が押しこまれていた。栓のような蓋を引っ張って開け、いくらかその白い豆をビルケはコーヒーミルに入れる。少し茶色というかベージュがかかったようなその豆は、バリスタが軽々とハンドルを回すと、グレーのミルの中でパキパキと音を立てて粉になっていく。
「今日みたいに町が霧に飲まれたような時も、一年に何回もありますよ。この町のフットボールクラブなんか、大変なんです。先週にホームゲームがあって見に行ったのですが、運悪く霧が深い日でして。私はメインスタンドの全体が見渡せるいい席だった筈なのに、全然試合が見えないんですよ。こういう日は蛍光色のカラーボールを使って試合をするそうなのですが、私の席から見えたのはそのマゼンタのようなボールがたまに行ったり来たりするところが殆ど。選手は全然わからなくて。ボールみたいに派手なユニフォームにすればいいと思いますけれどね。ほら、スキーウェアは雪山で遭難しないよう、明るい色が多いでしょう?」
落ち着いていて、寡黙な女かと思っていたが、意外と滑らかに言葉を紡ぐ。生まれ育ったこの町のことが好きなのだろう。しかし男は、その話題に出てくる雪の白さと霧の白さはまた別物のような気がしてきたし、それを考えたわずかな時間で何故か背中に冷たいものを感じた。悪寒を忘れたく、話題を少しずらしてみる。
「それで、その試合結果はどうなったんだい」
「引き分けでしたわ。点が入らなくて。まあ、ゴールの場所もわからなさそうでしたし」
「へえ、白星はつかなかったのか。ホーム側は霧が出るとわかっていただろうに」
「白星、白い星とはいかなるものでしょうか」
「ああそうか、それは日本の相撲の言い回しだっけか。勝つと『白星』と言うんだよ。こう言えばいいのか。結果に、白黒つかなかった、と」
ビルケがクスリと微笑んだ、ように、見えた。しかし元の柔和ながら考えが読めなさそうな表情に戻り、手際よく挽いた粉をネルドリップの仕組みに投じ、湯を注ぐ。
「言語や文化が違うと冗談が通じないかなあ」
と男は聞こえないように言った後に、話題を変えた。
(続く)
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