2 白い家々


 幸い、ハインツは追ってこない。あのバリスタ達と話し込んでいるのかもしれない。男としては隠れられる場所はほかに見つけても良いのだ。ただ、霧で視界の悪いこの町では、追っ手が追いついたとしても簡単には男の居場所はわからないだろう。

 まだ、霧は出ている。しかし、幾分か先程よりは薄くなっている。建物の輪郭がはっきりしてきただけでなく、道行く人々もその像を明らかにしてきた。もともと歩いていたか、それともこの時間になって増えたのかはわからない。だが、店内の混雑を考えれば、それなりに人出があるのはおかしいことではなかった。男にとっては、人に紛れられるのは好都合だ。

 先程の店にいつ空席が出るのかは分からない。男の手にある借りっぱなしのスマートフォンにいつ連絡が来るのかもわからない。いっそのこと、もうほかの町に逃げようかと男は考えたが、駐車場に戻ってはきても車はもう動かなかった。車内でおとなしく時間を潰すのも手だったが、この霧深い町に対する好奇心が勝り、次第に薄まってきた霧の中へ自然と足が動いたのだった。どういうわけか、街を歩いて出ていく選択肢が男の頭にはなかった。なぜか、まだ、ここにいたかった。

 町に着いたばかりのときにはあまりよく見えなかった町並みが、次第に目の前に表れてきた。どこが目抜き通りなのかは皆目見当がつかないものの、男が駐車場から広めの通りに出ると、霧をかき分けるようにモノトーンの町並みが次第に広がっていった。

 この町が白く見えたのは、何も霧のフィルターがあったからというわけではないようだ。この国によくある木組み、ハーフティンバーともいう様式の家々は、一様に白い。漆喰の壁に、黒や灰色のラインが入っている。

「模様が違うだけで、随分と似たような形の家ばっかり並んでいるな」

 男がぼそっと口に出してしまったように、サイズのほぼ同じ家が、同じ方を向いて立ち並んでいる。それぞれ、梁や柱、あるいは筋交いが壁に描く模様は、あるところは格子状、あるところはジグザグと、そういう個性はある。しかし、白地に黒っぽいラインが入った家、という点では共通している。

 男は白い家が並ぶ町ならば、これまでにも訪れたことはある。それこそあちこちの国々を逃げ歩いた中で、こことは違う、南の方にあった国には白い町があった。地中海に浮かぶサントリーニ島やミコノス島は、青い空に溶けるような色の屋根が乗っかった、白い家がズラリと並んでいた。アルベロベッロでは、ドングリの傘のような灰色の屋根が乗った、白い家々が壮観だった。

 逃げながらも、どこかその風景を楽しんでいたような気がしたと、男は思い出す。あのときに自身は、風景を楽しんでいたのか、白い空気を楽しんでいたのか。今になって、そんな疑問も浮かんできた。

 では、今はこの白を基調とした町の風景を、その色を、楽しんでいるか。男はまったく違う感覚の中にいた。何が違うのだろう。

まず、家々のラインが直線的だ。それ以上に男が気になるのは、明るくないこと。ここの白は、明るくないのだ。

 ミコノス島やアルベロベッロでは、青い空のもと、雲とその白さを競うかのような色の家々が連なっていた。ここはどうだろう。同じ白の筈なのに、くすんで見える。男には明度とか彩度とか細かいことはわからない。あくまでも、感覚だ。南方の白は、雲の白であり、光の白だった。しかし今、そこより遙か北の白い町に来て見渡せば、ここの白は霧の白だった。

 町民向けというより来客向けだろう、簡単な町内の地図が描かれた看板が立っていた。男はそれを見て、自身がこの町の中心部、特異な場にいることを知る。

他の町に比べれば狭く短いが、この町の中心部には三本の大通りがあり、それぞれの両脇に、同じようなサイズの建物が並んでいる。実際の町並みに目を遣れば、それらはすべて同じ方向を向いており、白い漆喰の壁がベースとなった木組みの家だった。木組みの色合いや並び方はそれぞれ違うものの、どれも同じ、モノトーンの家々が並ぶ。それを包み込むような霧が、まだうっすらとかかっている。

 地図の書かれた大看板の左側に、左向きの矢印の形をした案内板が立っている。訳すと

《展望の丘 歩いて5分》

 とある。案内番のそのまた左に階段がある。ここを上れば、丘の上からこの白い家並みを見渡せるということか。

 町に着いたときよりも薄くなってきたとはいえ、まだ霧がかかっている。正直なところ、眺望できるかどうか怪しいものだが、この不思議なほど向きも色も揃ったモノトーンの家々を俯瞰してみたい好奇心が勝った。それに、先程の店のアプリにはまだ連絡がない。男は上ってみることにした。

 違和感だらけの街区から、少し距離を置きたい気がした。これまでのように町自体から逃げれば済むものを、今は何故か距離をおくにとどめたかった。この似たような白い家が並ぶ町で、判然としない表情の人たちと行き交う度に、影の色すら違う感覚に襲われた。逃げている自分の影は黒く、この町の者達の影は白に近く見える。当たっている光自体が違うのか。薄気味悪くなってきたことも、展望の丘とやらに足を運ばせる動機となった。

 矢印の案内番には、明らかに後から足したと思われる小看板がついていた。四角く、カメラを模した写真投稿アプリのアイコンマークが描かれ、わざわざ英語で

 Photospot

 と一言添えてある。

 わざわざそんなことを言わなくても、絶景ならば写真を撮ろうが写生しようが記憶に残そうがその人の勝手じゃないか。何でもかんでも絶景をネットに上げればいいのか、厚意を示すマークをもらえればいいのか。あの看板を見て歩む者は、風景の美しさとマークの多さとどちらを意識してこの階段を上るのか。肉眼で見る景色と、カメラのファインダー越しに見る景色と、撮ってアップした先のマークが半分脳内を占めて見る景色との間には、どんな差異があるのか。捕まって、人生が終わってしまったら、そんなものは皆同じだというのに——

 男は脳内で悶々とした言葉を攪拌している間に、階段を上り詰めた。

 階段の縁石も味気なく薄いグレーだった。そして、丘の上もまた殺風景だった。夏ならば緑の絨毯と形容されるのかもしれないが、今は茶けたというか灰色に近づいた敷物が広がっている。この天気のせいか、展望スポットというのに人は男以外誰もいない。

 男は上ってきた方向を振り返る。

 その景色だけは、少し変わっていた。

 確かにここは展望台であり、フォトスポットだった。

 霧がまるで額縁のように、街区の周りを囲んでいる。中心部の家並みのところだけ、霧が避けていると言うべきか。

 丘の上からだと家々が密集しているように見えるので、その家の足下にある三本の通りは見えない。そのぶん、モノトーンの家屋が整然と三列に並んで見える。そしてそれらは、皆この丘の方を向いている。

 見事な景色だ。だが、色がない。こんな霧の日ではなく、青空のときだったらどんなに良かったことだろう。あるいは、朝日や夕日を浴びているときだったら。

 今は今で見事なモノトーンなのだが、その景色を見ているうちに男は手足に微かな震えを感じていた。微かなはずなのに、気にせずにはいられない。やはりこの町からすぐ立ち去るべきなのか。

 と、思っていたらスマートフォンがガタガタ言っていた。

「なんだ、この震えか」

 自分を納得させて画面を見ると、例のアプリに

《お席の準備ができました》

 と出ていた。丘を下りるいい頃合いだったということだろう。


(続く)

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