白珈琲は知っている

雪後 天

1 白い町

 闇が白いことも、あるものだな。

 頭に浮かんだ言葉を打ち消しながら、男はアクセルを踏む。

 進めども進めども、前には白い幕がかかっている。進むたびにその白が、色濃くなっている気分にも襲われてきた。まだ昼間だが、視界は不良。うっすらと道筋が浮かび、障害物がないことを確認してようやく加速できる。

加速したくてたまらない心境を押し殺し、男は慎重に車を飛ばす。できれば遠くに、速く抜け出したい。逃走を始めてから、この国で一体何カ国目か忘れてしまった。数える気もない。ただ逃げ出したい。この得体の知れない霧の向こうに。だが、事故を起こしてしまっては元も子もない。もどかしさが生み出すもやもやがそのまま目の前の霧の材料になっているのではないか。そう疑うくらい、白い視界は途切れる気配がない。

霧に向かって突き進んでいるのではなく、霧に追いかけられている気がしていた。

おまけに先程から、どうも車の奥の方から怪しい音が聞こえてくるようになった。何度も乗り換え、乗り捨て、そして今のこの車もそろそろ限界かもしれない。だが車を停められる場所があるかどうかもわからないくらい、沿道が寂しいこの行程が続いて久しい。気がつけば、燃料表示も心細くなってきた。

「ここまでか」

思わず口に出していた。いずれ逃げ切れない道だとはわかっていたはずだが、覚悟していたかというとまた別だった。

だが、ガス欠まで足掻いてみるか……と思ったところで、男の前の白い空間に、うっすらと何かが見えてきた。

最初は、白い空間に稜線のようなものがぼんやり浮かび、男が“慎重に急ぐ”うちに、その線は建物の屋根が連なる様を見せてきた。摩天楼ではないけれど、今の男にとってはそのスカイラインは畏怖すべき像を描いているような気がした。

 霧の向こうに、町がある。

白の先にある、灰色のシルエット。男はその輪郭をはっきりさせるために、スピードを上げた。兎に角、逃げ切りたかった。追っ手からも、霧からも、過去からも。


モノトーンの風景には、なかなか色がつかなかった。

集落らしきものに近づき、徐々に沿道に民家が見えてきた。濃い霧で見えにくいが、徐々にその棟の数が増え、この国の中世では“都市”と呼ばれていたようなかたちをとってきた。人影もぽつぽつと表れた。文字通り影のようで、なかなか顔が見えない。というより、顔を覗いている場合ではない。

男は追っ手の車がおそらくそう近くにはいないこと、そして自分の車がもう限界に近づいていることから、もう乗り捨ててこの町に紛れようと決めた。もしこの町がこの国における中世都市のかたちを引き継いでいるのであれば、中心部に一般車は乗り入れることはできないだろう。路面電車やバスの姿が見えないのも気になるが、そうした公共交通機関よりもまず、自動車自体の姿が見えない。適当な駐車場を見つけようと、男の注意は人影よりもスペースに向いていた。

駐車場というより、適当な空き地があった。ある程度の広さはあったが、ほかに車の姿はない。果たして停めていいかどうかと悩むこともなく、男は車を停めた。もう次にエンジンがかかることはないだろう。

相変わらず霧が濃い。ここに乗り捨てたことを注意する者は今のところいない。見張っている者もいない。監視カメラもない。彼の立ち位置から、霧で見えないだけか。逆に、この霧で彼を見つけられる人もカメラもないのかもしれない。大型の、適当にくたびれたボストンバッグをトランクから大急ぎで出し、男は次に駆け込む場所を探した。

相変わらずの霧に包まれた中、白もしくは汚れや経年変化で灰色になった漆喰の壁が広がる。同じような材質の家が建ち並んでいる。それらは揃って、白系統の色の壁に、黒系統の木組みの線が入っている。それぞれの家の外壁は、色も微妙に違えば、木組みの模様も同じようで違う。民家なのか店舗なのかも分かりにくいが、ところどころで紋章のような看板が入口に下がっている家がある。それが店なのだと、男はこの大陸のあちこちで、旧市街と呼ばれる町並みを有する場所を旅して逃げて回っているうちに覚えた。

その中で、漸く”cafe”の看板を見つけた。ひとまず、そこに駆け込もうとした。


店の周りには人がいなかった筈なのに。店内は、大繁盛だった。

ワイワイやっているテーブルもあれば、何も話さずに見つめ合っている二人組もいる。目の前にあるカップ内の温度がとっくに冷えているようなのに、ひたすら眼前のスマートフォンから手指が離せない者もいる。モグラ叩きのようにPCのキーを強打し、血走った目で何かに取り組んでいる者もいる。

外観通りの白い壁に、黒い木組みが室内でも目立っている。その白い空間に、様々な人間模様が色をつけている。だが、男はどこか居心地の悪さを感じていた。一体、何故なのか。彼の故国では、こうした長居できそうな喫茶店では、怪しい投資話やらネットワークビジネスやらの勧誘をしている者も群衆に紛れている。だがそうした者はこの店には少なくとも見当たらない。少しばかりこの国の言葉がわかる彼には、それくらいは聞き取れる。兎に角、この混雑にもかかわらず、怪しい者がいないようなのに、何か居心地が悪い。それは彼自身がこの場では最も怪しい者に近いからだろうか。

「席をお探しですか」

 声をかけられ、我に返った。振り向けば、割と小柄な青年が立っていた。小柄といってもこの国の人間としては、というくらいで、男とほぼ変わらない背丈である。男の故国のように、店に入るなり「いらっしゃいませ。何名様でしょうか」と気を利かせて声をかけるような給仕には、この国に来てからまだ出会っていない。勝手に空いている席に着き、給仕を呼ぶのがここでの基本だ。しかしこの店ではひと目では空席が見つからず、戸惑っているうちに声をかけてもらう格好となった。

「一人なんだが、あるか。できれば長居ができるような場所で」

 金髪碧眼の受け手は、しばし店内を見回し、ちょっと間を置いて、何か壁のしみでも見つけたかのようなところに視線を送り、またちょっと間を置いて、カウンターのあたりを見て、またまたちょっと間を置いてから、言葉を返した。

「生憎、満席ですね……」

 何故間を置いたのか、何故壁の上方を見たのか、さっぱりわからなかったが、カウンターのあたりを見たのは、そこで忙しそうにしているバリスタらしき者のためだろう。目配せして、確認でも取ったのか。それはともかく、空きが無いようだった。男にとっては混んでいる方が人に紛れて都合が良かったのだが、そもそも席がないのでは困る。他の隠れ場所を探そうとしたところ

「よろしければ、少しお待ちいただけますか」

 と、呼び止められた。男はここに落ち着きたいけれども落ち着けない、矛盾した諸事情を説明することも難しい。

「あ、席がなければまた今度来るよ」

 と、適当に言って去ろうとした。

「店内でお待たせすることもできますが……スマートフォンはお持ちですか」

「どういうことだ。空いたら電話してくれるのか」

 男はスマホを持ってはいるが、あくまでも“借り物”である。これが何台目かはもう忘れた。もともとの自分のスマホは、足がつくからとっくに処分した。連絡のために、行く先々で“借りっぱなし”と“借り捨て”を繰り返してきた。

「お電話でもいいのですが、もしアプリに情報を登録されているようでしたら、しばらくお外でお時間を過ごされても大丈夫です。空席ができ次第通知が行きますよ」

「随分気が利くじゃないか」

 男は思わず口にした。仮のものとはいえ、電話番号は知られたくない。だがこの一言で怪しまれるかもしれないと、言ってから気がついた。

 だがこの青年は何だか照れたような顔をしている。先程までは寧ろ無表情だったのに。そんなに褒められて嬉しいのか。とにかく、男にとっては好都合だった。

「アプリだと何の情報を入れればいいんだ」

「お名前、職業、メールアドレスかメッセージアプリのIDだけで結構です」

 どうもこの店専用のアプリがあるらしい。チェーン店でもない、個人経営の店のようなのに。この店にしては贅沢な機能のような気もするが、男は店内Wi-Fiを利用し、説明されるがままにインストールした。メッセージアプリは、男の出身国とは規格が違う。

 だが、名前を入力しようとしたところで男の手が止まる。足がついてはいけない身だ。ここで躊躇すると却って怪しまれるので、このスマホや先程乗り捨ててきた車を借りたときと同様に、適当な偽名や職業を入力しておいた。

「では、お客様に合ったような空席ができましたら、通知いたしますので」

 重いバッグを持ち、男が外に出ようとしたら、目の前のドアが勢いよく開き、もっと勢いのよい声が飛んできた。

「なんだ、繁盛しているのか! まいったね」

 恰幅のいい中年男性が、入るなり店内に響かせんと空気を振るわす。

 外に出ようとしていた男が呆気にとられ、隣のウェイターの反応を確かめようと思えば、彼もまた呆気にとられている。この国の南方で名物だという郭公時計の鳥は、こんな顔をしていたと男は思い出した。

「ご挨拶ですね、ハインツさん」

 背後から落ち着いた女性の声が聞こえ、男は呆気が正気になった。ハッとするのも無理もない、先程カウンターの向こうにいた筈のバリスタらしき人が、いつの間にか男の背後まで来ていた。このおっさんはハインツさんというらしい。しかも顔馴染みときた。

「いつもの場所も生憎お客様がいらっしゃいまして。もう少しお待ちいただければ有難いのですが」

「そりゃ仕方ないさ。おい君、もしかして君も空席待ち? 悪いねえ、ここは普段こんなに混んでいないのにねえ。だから俺はいつも来てのんびりできているんだが。いつ以来かねえこんなに繁盛しているのは。珍しく霧が晴れていたときくらいかねえ。でもお客が多いということはこの人たちにはわけがあるってことくらい、通っていれば分かるもんで、たとえば」

「ハインツさんの思い出話の間に席が空きそうな気もいたしますが、気長にお待ちいただけますか」

 バリスタに助け船を出してもらえた。男はハインツなる常連らしき人物に急に話しかけられ、呆気にとられていたところだった。

「少なくとも俺は外で“気長に待つ”。じゃあそのアプリで知らせてくれ」

「なんだ兄ちゃん折角待ち時間でこの店と俺の歴史ダイジェストを語ろうというところで」

「その話は後で、店に戻ったときにしてくれ」

 ハインツとおろおろしたウェイター、そして妙に落ち着いたバリスタを置き去りにして、男は店の外に出た。何も憂いなき頃であれば男もその歴史ダイジェストとやら何とやらに耳を傾けていたかもしれないが、あまり一所に留まれない身となった今は、なるべく動いていた方がいい。店内の人混みに紛れたかったところだが、席がない以上そうもいかなかった。馴れ馴れしいハインツに悪気はないのだろうが、男は人相を覚えられたくなかった。


(続く)

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