水玉ルージュの魔女 ~ピット上のピアニスト~

@cycling_1682

序章

201X年4月 AM8:30

気温 摂氏13度 湿度11%

天気 曇り 

風上 西

風速 3.5M


ワット 235W

FTP 4.35 W/kg

心拍数 130BPM

平均速度 23km/h

最高速度 63km

左 52% 右 48%

ケイデンス 92rpm

距離 136km

平均勾配 5%

最大勾配 13%

(サイクルコンピュータ表示)


ヘリコプター上空無線

『えー、先頭集団15名、5チーム3名ずつ。後ろから追走の2名。距離の差は150m。』


高橋 智(たかはし さとし)は無線を聴きながらお願いごとをする様に「頼む、今回こそは…!」と呟き祈っていた。

その時、先頭集団と第二集団の間にいたはずの宮本 真帆(みやもと まほ)と小橋 仁美(こばし ひとみ)の姿がようやく見えた!

真帆は息を切らしながら「仁美!先頭集団が見えたよ!」

やっと見えた集団に仁美の表情も魂の抜けた表情から一変して生気が戻り、水を得た魚の如くペースを上げて追いついた。

「ありがとう真帆!おかげで追いついた!」

いつもの仁美に戻った感じから真帆もようやく安堵した。


仁美は途中落車による機材トラブルも有りながら先頭集団へ復帰した直後の事だった。

突然集団のペースが上がり、戦略的に二人が登ってくるのを待ってたかの様だった。

いやらしく非情な戦略ではあるが、集団も追いつかれた事へのプレッシャーがあり今頃各チームの無線では

『追いつかれてるぞ!』

『何故ペースを上げなかった!』

『タイミングをみて引き離せ!』

と男共の罵詈雑言もあれば

『ドンマイドンマイ!追いつかれたなら仕方ない!次の指示まで待って!』

と対策を考えるチームもある。

それだけ仁美の存在は大きく、なにより復活してきた事に周りの焦りと驚きは隠せなかった。

「またしてもコイツ、奇跡を起こしやがった…!」

と喜び、拳に力が入る。

もしかしたら、最後までこのハイテンションで行けばあり得るかもしれない。と智の期待は膨れ上がる。


徐々にペースが上がり誰かがアタックを仕掛けるのを感じつつその場の選手達が牽制を仕掛けアタックを阻止したいチーム、

アタックを仕掛けたいチーム同士の駆け引きの中仁美はマークされてた事もあり、体力が回復する間も与えないかの様に集団のペースが上がる。

「コンニャロー!そうくるなら!」

仁美はすかさず脚を緩めず集団へと食いつく。


ほんの少し、変速が1段軽く変わるタイミングのその瞬間、二人が集団から飛び出す!

やっと集団に追いついた所に揺さぶりをかける様にアタックを仕掛けたのはゼッケンナンバー2番の小柏 燈(こがしわあかり)と31番の高峰 貴子(たかみねあつこ)だった。

2人共よく知る戦友で、残り3キロの地点でアタックするとは思いもしなかった仁美は、完全に回復してないにも関わらず身体が反応してしまい自身も逃げのアタックを仕掛けてる2人を追いかける。

しかし、これは2人の戦略でもあり罠でもあった。

けど、罠と解りつつも仁美は勝負するのが楽しみでもあり相手の戦略も罠も関係なく勝負に向かった!

ひたすらに2人を楽しそうに追いかけ、追いつく様に勢いをつけて飛び出している!


第一集団先導車『こちら先導から審判車全体へ。ただ今3人が飛び出してる。オーバー』

審判車1『了解。先導車、後続の集団から何秒差?』

先導車『既に12秒〜15秒差と予想。審判車1は第一集団へ通達頼む。第二集団担当の審判車にも連携お願い。』

審判車『了解。先導車へ。3人のゼッケンナンバーは何番?』

先導車『了解。全体へ。2番、11番、31番が飛び出して先頭へいます。オーバー』

審判車『了解。審判車全体へ。先頭3名の情報を一斉に掲示板で集団へ伝えてください。』

各車『了解です。』

先導車『各チームへ繰り返し速報です。ただ今3名。2番、11番、31番が残り3キロ地点で逃げのアタック。選手担当のチームは直ちに上位選手の先頭へ移動お願いします。』


仁美は先頭集団から飛び出した。ゼッケンナンバー11番。

チームのエース。

彼女無くしてこのチームはなし。

チームの期待を背負っているが故に失敗が出来ない。

残りが長いアタックはほぼ賭けに等しい。

賭けに勝った場合は圧倒的なタイム差を出す事も出来るが、負ければ集団に吸収されるばかりか体力さえもごっそりと持っていかれる。

残りは3キロメートルだが、たかが3キロではなく「3キロ」もある。登りの3キロは感覚的に長いと感じるサイクリストは多いだろう。

重量に抗い、重力にも抗い、自分のメンタル共に戦うのがヒルクライムである。

更にレースの駆け引きをしている状況下で相手の体力共に競う必要があり、自分のペース通りにはいかない。


レースの最中、各チームが駆け引きをし、無線とのやり取り、他のチームやチームメイトとの連携、

怒号や応援の中、仁美は僅かの時間でこれまでの経験を振り返り、頭の中で呟きながら自身を奮い立たせていた。


「私なら出来る。私なら頑張れる。私は強い。

もっと辛い困難も苦しい練習も乗り越えた。

失敗も、挫折も、屈辱も全て私の糧になり

成長に繋がった。

誰にも負けたくないと必死になって、

気が付いたらキツい練習も楽しくなっていた。

誰よりもロードバイクが好きになっていた。

cervelo(自転車)がいけると教えてくれてる。

みんなもいつも応援してる。

見えない所でみんな頑張ってる。

私もみんなに感謝しなくちゃ…!」


「仁美!頼んだよ!勝負勝負!」

仁美のチームメイトの真穂は脚とスタミナが売り切れそうな中、

渾身の想いで真穂はチームの全てをエースの仁美に託した。

「いっけぇー!仁美!」

(ありがとう真穂!絶対無駄にはしない!)

「ありがとう!」

真穂は高校の自転車部からのチームメイトであり1番の理解者である。

真穂の頑張りで第一集団に追いつき先頭まで届いたのは彼女のお陰だし、2人でローテーションでやっていかなければ

チームは壊滅的に負けは決まっていただろう。

仁美は真穂だけでなく、同じチームメイトの頑張りに感謝していた。


仁美はすかさずアタックした二人に反応し、同じタイミングで飛び出した。

メカニックの智は仁美の策略がないような行動に心配し、今日の作戦と睨みながら

無線機で状況を確認する。

「アタックだ!着いていく!」

『仁美!何人出た?今足とか大丈夫か?』

「2人だよ!平気平気!あと3キロだもん!今逃したらチャンスは無いよ」

『また最後に足終わるぞ…わかった。でも無理はするなよ!なんたって相手は前回チャンピオンの燈だろ?』

「貴子もいる!」

『…!!勝てるのか?』

アタックを仕掛けたメンツから雲行きが怪しいと感じた智はまたこのパターンで負けるのだと不安がっていた。

「私が勝てないと思ってるでしょ!今日は最高に気分が良いの!あなたに一等賞の表彰状をドヤ顔で見せてあげる」

『お前はいつもそう言って勝てないもんな』

「出た!あなたの無い無い病!すーぐ出来ないしない勝てないって言う」

『ホントの事だし』

「バッカじゃないの!?わかった!絶対見返してあげる」

『おう!やってみろや!』

二人で火花を散らしてる中、監督から

『はい!イチャつくのもそこまでね!仁美、わかってると思うけど残り1キロまでは温存して我慢すること。

燈も強いが、特に注意するのは貴子だ。恐らく対策されてるはずだ。燈程の爆発力はないが戦略や分析力に長けている。

簡単に癖や動きをトレースされて後ろから隙をつくのが得意だ。途中の2キロ地点からペース保ちつつ徐々に上げていけ。

いけると思ったら合図出してくれ!オーバー』

「了解ボス!」

『仁美。今日のお前なら勝てるよ。目一杯楽しんでこい!』

「ふふ。お任せあれ!」

智は心配しながらも仁美が勝ってくれると信じて静かに黙り応援していた。


少し緩やかな山岳ステージ。車輪の轟音、人の息遣い、風が吹き森のざわめくアスファルトの匂いを感じながら

サイクルコンピュ–タの「ピロッ」という音が木霊し鳴り響く。


正直、少しキツく、辛く、限界も近い。足の乳酸なんてとっくの昔に溜まっている。

それでも仁美はワクワクしながら笑顔を絶やさず、「楽し〜!」

と言い、あと少しで栄光が取れる事に夢中になって走っている。

いつの間にか燈と貴子に追いついた仁美は

「ほら、、はぁ、はぁ、あともう少しだよ!頑張ろ!」

息を切らしながら仁美は残りの2人を鼓舞する。

「あんた息切らしてるじゃない!」

気が強い姐御肌は仁美のライバルの燈。燈は3人のペースメーカーとして前へ出る。

「あらあら、お二人さん元気だわね〜。最後まで保つのかしら?」

おっとりではあるが策士の貴子。

燈と貴子の2人はロードレース表彰台の常連である。

チームメイトやライバル含め全体で80人いたのも今や先頭3人に絞られた。


じわじわとゴールに近づくにつれ、気がつくとあっという間に1キロを走り切る。

山頂のゴールまで残り2キロの時、バイクの審判車から「18秒」と後方の集団との差を伝えられた。

恐らく集団も私達を微かに捕えている事でペースを上げてくるに違いない。

そう思った仁美は居ても立っても居られなくペースを上げようとするが、

無線機から

『仁美!まだ我慢だよ!息と心拍を整えつつ貴子をマーク。燈はすぐアタックするかもしれないがまだ早い。揺さぶりのフェイクには気をつけろ。』

「了解!」

燈の凄まじいアタックに咄嗟に着いていった仁美。その後を体力を温存してきた貴子。

正直2人と比べると少し不利な状況。息も上がり、筋肉も緊張してる状況では自分達のチームが一番不利だと考えた監督の高橋は

あと少しだが今は我慢。リラックスした静の状態から後に一気にカウンターアタック仕掛ければ自分の体力はごっそり持っていかれる。

今は抑えつつ我慢が得策かもしれない。

残り1キロまでは脚をなるべく使わずに温存させてあげたい。

相手2人は毎度の事。強敵であり仁美にとっては好敵手である。

監督は2人の情報からどうやったら勝てるか、仁美のテンションやモチベーションを上げられるかを考え以下の情報をぶつぶつ呟いていた。


燈は登りに強いパンチャーであり、強弱の牽制が上手い選手で揺さぶる戦術が得意である。パンチャーというポジションであるが故に長距離はそこまで得意ではないが、短い距離にはめっぽう強い。更にはコーナーのテクニックが長けているし、元々はMTBの選手でもある為バイクコントロールは一級品だ。恐らく他の選手より飛び抜けて技術に長けているし、気が強く負けず嫌いで諦めが悪い。これ程手強い相手は少ないだろう。

だが自分のペースを乱されると崩れるのも早いのが彼女の弱い所。型にハマると手がつけられなくなり気がついたらかなりの大差がついてた事が多く侮れない。

しかも生粋の自転車店の娘でもあり誰よりも自転車の構造には詳しい。

自転車の構造や自転車の動きを理解してるからこその技術が彼女には備わってる。


貴子は登りも平坦もこなせるオールラウンダーであるが、これと言って走りのスタイルに特徴は少なく目立った所はない。だが、合理的で誰よりも戦略に長け相手のスキを見逃さず全体を遠くの真上から覗いてる様な戦略を立てる事が得意であると同時にどの脚質どのポジションとの対戦でも1対1で負けた事がほとんどなく、まるで動きがシンクロしてるかの様にピタッと張り付きじわじわとプレッシャーを与え少しのミスを見逃さない。

「ズル賢い」とか「いやらしい」と言われる事も少なくはないがもはや褒め言葉でもある。

戦える策士でもあり、常に冷静ではあるが攻める時は攻める。エロティックで大人で綺麗な彼女は仁美と同世代だが、本業はモデルでありITの会社を立ち上げスマートフォンのアプリを開発もしているスーパーウーマンでもある。


…2人共隙がない…。


ただ、仁美は2人のどこにも当てはまらない。

ポジションはクライマーの中のクライマーであり今がその"登り“

という主戦場である事と、自転車に関する情熱と溢れるワクワク感や本心から楽しんでいる心だろう。

加えて、闘争心が開花しゾーンに入ってさえいれば凄まじい集中力から無線の声も入っていかない。欠点は理論派ではなく超感覚派な所で他のメンバーがいなければ暴走もしかねない所。戦術は沢山持ってるはずが当の本人は意識していなくペダリングは天性の綺麗さがあるが戦い方が型にハマらない型破りで天然な走り方である。

次どう攻めようかな?とワクワクして気がつかない内に相手を振り回し翻弄し圧倒する。

悪気はないが、無邪気に走り最後には相手を疲れさせ戦力を失わさせるのが彼女の勝負のスタイルだ。

この感覚派な所はあるが他の選手から恐れられてるのは集中力が増して楽しんでる時の仁美は手がつけられないと言われている。

だからこそ信じてやるしかない。

俺のアドバイスは無用だと悟った監督の高橋は

「目一杯楽しんでこい!」

と一言だけ言ったのであった。

あとは、勝つか負けるかは任せ託そう。

そうしてチームの勝利は仁美に全て託した想いを乗せた一言だった。

仁美は全てを呑み込んで

「はい!!」

と気合いのこもった返事をした。

その時の仁美の口角は上がり眼は輝いていた!

まるで子供が夏休みの海に行く様な童心に溢れた瞳だった。


楽しむ事が彼女の最大の武器であり、強く成長するのに必要な要素だった。

楽しんだ先に成長があり、成長の先に勝利があるとの確信を彼女から学んだ。

だからこそ、監督である高橋は練習もプライベートも含めて「楽しめ!」と選手に指導している。

「時間がある内は楽しめ!恋愛でも仕事でも何でも良い!兎に角楽しめ!時間は待ってくれないぞ!

挫折も失敗も丸ごと飲み込んで楽しみ尽くした者だけに成長があり成長の先に成功がある。

良いじゃないか、失敗!失敗上等!

失敗と捉えてもまだ自分には伸び代があると思えば良いじゃねーか!

俺たちは何の為に自転車競技をやる?

スポンサー様の為にか?

自転車業界の為にか?

レース業界を盛り上げる為にか?

偉いし凄い。

けど、そのでっかいものを背負ってレースしてるとその重圧に耐えれなくなって何の為にレースしてるのかわからなくなるぞ!

今一度、何故自分は自転車競技を始めたのか考えてみろ!そこの原点に答えはあるかもしれない。

原点にして頂点!今やってる事を、そういえば最初ってどうだったかしっかり考えてみろ。」

高橋監督がレース前に言った言葉は選手全員に響いた。

けど、高橋宏一郎(たかはし こういちろう)自身も仁美の存在なくして今までの自分からこの言葉は出なかっただろう。

それだけ何も考えてない様な子でありただただ素直で無邪気で活発な彼女の存在は大きかった。


「残り1.5キロ」「集団との差"16秒”」

3人は(若干近づいてる!)と感じ、九十九折りの下を確認する。さっきまで振り返っても見えなかった集団が見え、

「ちょっとペース上げるよ!」と燈が切り出す!

2人は「OK!」と答え、先頭の3人は集団を振り解く様にペースを上げる。

仁美の心拍は既に160bpm前後を行ったり来たりしてる。そこそこに辛い。

100m毎に3人が交代し風除けとペースメーカーを担当する。燈が肘をクイッと動かして交代の合図に答えペースを緩めず仁美が前に出る。

残り1100m。燈の合図を出したタイミングに後ろから変速を変える音が聞こえる。

まさかと思った仁美は慌てて変速を変えるも既に遅く、勢い良く飛び出していった。

まるで時間がゆっくりになった感じで変速の音も反響してるかの様に思えた一瞬の時間だった。


飛び出したのは貴子だった。


貴子はその時、燈の表情と仁美のシフトミス(変速操作の失敗)を見逃さなかった。

燈は爆発しなければ不発弾の如く警戒する程ではなく、表情からして実は身体のどこかを痛がっておりそれを隠すように不自然なペダリングはせず左右均等にペダリングをする事で平然を装っていた。

燈は実は左膝をここの最終局面で急に炎症を起こしてしまい、まるで膝の皿と膝の筋肉が音を立ててバリバリと剥がれてる感覚さえしていた。

今にもギブアップする…

認めたくはないが、心の奥底では諦めさえしていた。

(ここまできたのに…!くそ!)

悔し紛れに痛みから表情は歪み、2人のプレッシャーに耐えれなくなっていた。

このままでは本当に詰むと思った為の交代の合図だった。完走しなければ表彰も全てがパーだったからだ。

一方仁美は交代のタイミングでペダリングの回転を上げるのに軽いギアへ入れようとしていた所、力が入らず中途半端にチェーンがスプロケット に引っかかってる状態で少し慌てていた。

ほんの1秒足らずの時間だった。

加えて監督からは「1キロ地点までは我慢しろ」と言われた事を思い出したが、頭より先に体が動いてしまっており、中途半端な変速の状態で貴子を追いかけながらシフトをもう一度入れ直していた。

その慌てたタイミングで一瞬の隙を逃さなかった貴子はすかさずアタックを仕掛けあっさりとアタックを決めてしまった。

モタモタしてるうちに貴子との差が30m程になってしまっている。

「何あんたミスってんのよ!」

「わかってるよ!」

「あたしはもう膝が駄目だから、あんただけで貴子を追いかけなさい!」

「うそ!燈!勝負出来ると思ったのに…」

「無理よ…。今回は譲るしかないわ。

私は置いて、さっさと行きなさい。」

「でも!…わかった。仕方ない。もし万が一表彰台に上がらなければ許さないんだから!」

「そんな訳ねーだろ!私の心配より自分の心配をしな!あんたしか貴子さんに勝てる選手はいないんだから!」

「ありがとう燈!」

「いいから行け!後で感想聞かせてよ!」

「わかった!」

燈が突然3人の勝負から離脱したのは意外だったが、あの距離のあのタイミングで貴子がアタックするのも予想外だった。

彼女だともっと引っ張ってそこからの隙を見て

貴子なら攻めてくるだろうと読んでいたのが寧ろ仇となったのだ。


戦略の裏の裏を読まれた。


貴子は誰よりも先に燈の不調を感じ取り、予定とは違う咄嗟の行動は2人共読んでいないだろうと思い、今仕掛ければかなりのアドバンテージを得られると考えた貴子は今しかアタックするチャンスはないと策略して勝負を仕掛けた。

策士策に溺れるというが、策に溺れず定石に囚われない様に彼女は攻めた。


どこかで隙を見て貴子が攻めてくることを予測していた仁美の予測は的中したが、ゴールの遥か手前で我慢せずに仕掛けて来ることは予測出来なかった。

仁美が想像していた以上に、巧妙かつ強力で鮮やかな戦略だった。仁美はその瞬間、自分が彼女に完全に支配されていることを悟った。


今、貴子との差は30m。

ここまできたら貴子は自分のペースを落とす所か引き離すようにペースを上げる。

それに負けじと自分の出せるパワーを振り絞って差を埋めるが、それにも気がつく貴子は合わせてペースを上げる。


「離されるものか!」


仁美はただただ貴子の背中を睨み続け、食いついて離れなかった。

(しつこい!なかなか離れない!)


気がつけば貴子は仁美に追い込まれていた。

「おかしい…レースの中盤で転けて、後方に居たと思えば協調して集団に追いつき、更にこの終盤休む事なく仕掛けたのに…!」


仁美の圧力から恐怖も覚える貴子。

仁美はレースの中盤で集団落車に巻き込まれ、順位も絶望的な順位であったが、その場にいた真帆に助けられ2人で協調し、第一集団に復帰した途端からの全体のペースアップ。

更に燈と自分のアタックから集団後方からの追走。

バテるはずが、寧ろ活気が溢れてきている。


何故そこまで走れる?何故そこまで楽しそうに走れる?本当は限界なのではないか?

と貴子の頭の中は、仁美が何故そこまで走れるのかが理解出来なかった。

もし、彼女が私に追いついてももう一度アタックしてやろうと考えた貴子は、体力の温存をも考えほんの少しだけ脚の力を抜いた。

待つのも戦略である。


ペースを上げていた仁美はその隙に追いつこうとするが、貴子のカウンターアタックを読んでいた。なので僅かにペースを下げ、アタックに備えていた。備えていたが、一緒にペースを上げていってサシで勝負した方が楽しいと思った仁美は敢えてペースはそのままを維持し、牽制しながら走った。


距離を保ちつつお互いにペースを上げ、徐々に距離を詰めていく仁美。

徐々に徐々に詰めていき、残り700mの所で貴子に追いつく。

「追いついた…!捉えたよ!」

「ならこうよ!」


すかさず追いついた事には驚いたが予定通り引き離そうとする貴子。

動きをシンクロさせ張り付く仁美。

逃げようにも逃げれない圧力がボディーブローの様に効いている。

しかも、貴子は特別坂が得意という訳ではなく仁美の方が坂は得意である。


距離のアドバンテージがあれば追いかける方のメンタルは削られていくが、距離が迫ってる時は逆に前の方が不利である。

一昔前は自分の方が速かったのに仁美の成長に驚かされ、今では対等に同じ舞台で戦っている。

貴子のプライドも今はなく、対等の立場として勝負を受けている。


(ここからは、正々堂々と…勝負!)


おっとりとした貴子は珍しく熱くなって仁美との時間を楽しむ。

「私は巷で『女帝』と呼ばれてるけど、今はそんな称号や通り名は関係ない、

一人の選手として、女としてガチンコでぶつかるだけよ!」


一方仁美は貴子の事を憧れに思っていた。

ここで勝負に受けてくれた事に感謝している。

巷のレーサー達は彼女の事を『女帝』と呼び、

レースでは負けが少なく、いつも表彰台の1番上へ立ってる事が多い。

女としても美しく誰よりも愛されてる人で選手としても強い人。勿論、憧れてる人は仁美の他にも沢山いただろう。

かつては雲の上の存在。

今そんな人が目の前で自分との勝負を受けてくれている!だからこそこちらも遠慮なく正々堂々と勝負したい!

と嬉しさもあるが、それ以上に共に戦いたいという気持ちが勝っている。


残り500m。

あと何秒かでゴール。

そんな短いと思っていた時間が長く感じ、いつまでもこんな幸福な時間が終わらなければ良いのにと仁美は肩を下ろした。

「貴子さん、長かった道のりもあと少しで終わってしまいますね…」

「ええ、長い様で短かったわ。けど、全力でぶつかり合える人にまた会えた!」

「私もです!なんだか夢の様で!」

「夢じゃないわよ。嬉しいことだわ。」

「私も嬉しいです。」


2人共絆を確かめる様に、愛し合うパートナーの様にお互いを尊敬しあった。


「残り3つの九十九折りを超えたら最後はストレート。相手がるルーキーでも容赦はしない!」

「私も正々堂々勝負です!」


仁美と貴子は熾烈な戦いを繰り広げた。

仁美がシッティングの高ケイデンスで攻め、貴子はダンシングとシッティングを交互にパワーで攻めていった。

どちらも譲らず、息使いだけで話をする間も水分を取る間もない。

あっという間に1つ目の九十九折りを超え、2つ目の九十九折りを超えた。

審判車からは

「25秒」と後続のタイム差を伝えられたが、2人の勝負からはもう関係ない事だった。


一方大会運営側は大変な騒ぎになっていた。

(もしかしたら、この2人は大会のコースレコードまでも塗り替えるかもしれない!)

そんな期待から、もはや周りの歓声と響めきが会場を震わせた。

この結果、この歓声。誰が想像したであろうか。

これはまるで、天空から舞い降りたオペラの主人公2人の共演を観て感じてる様な高揚感に場を包ませた。


無線から智達チームカーも盛り上がっている。

「あいつ、もしかしたら本当にやってのけるかも!親父!」

「ああ、俺も今までロードレースやっててこんなに震えた記憶は選手やってた時もなかったよ」

高橋浩一郎こと高橋監督の頬まで涙が溢れる。

無事に最後までゴールへ向かってくれ!

その願い一筋であった瞬間だった。

「仁美…仁美…仁美…仁美!」

智は仁美に願いを託す様に両手を握りしめて仁美を応援する。


そろそろ、最後の九十九折りという時、先に貴子が攻める!


「ハァハァ!ハァハァ!フッフッ!

ハァハァ!…ンッハァハァ…ハァ!ハァ」

とてもじゃないが、美人とは思えない程呼吸の乱れから顔も乱れ、獣の様に口からよだれも出てるがお構いなかった。

仁美も同じ様なもので、心臓の鼓動は荒ぶり常に苦しい状態であった。


前に出た貴子は容赦なくペースを上げるが、それに張り付く仁美。

その2人の行く先は最後の九十九折りのコーナーを曲がる…

貴子は最短距離のイン側をストレートに走り曲がり角に向かう。

仁美が抜くには外側に行くしかない。

だが、定石通りにアウト側へ膨らみ勾配の低い外から周ろうとする貴子だが、

その膨らんだ所の内側が空き、急勾配の内側を仁美が差し込み2人のラインがクロスする…!


…前に出たのは仁美だった。


抜く力も少ししかなくダンシングすると脚が攣ると感じた貴子はシッティングで最後の勝負に出るが、同じシッティングポジションでの勝負だと仁美の方が戦術的に有利だった。

しかも、何故かキツい状況でも仁美は満面の笑みだったのだ。


(いけない…!この子を前に出したら…!)

恐らく最後のコーナーで仁美が前に出た時点でほとんど勝ちが決まったのと同然だったのかもしれない。

それでも二人は最後のストレートで死に物狂いでペダルを漕いだ。

漕いで漕いで漕ぎまくって、ストレートの先にはゴールのアーチが見える。

酸素の使いすぎで目がチカチカして視界も狭くなっていたが、ゴール手前で貴子の脚が少し遅れて回った途端、ついに決着がついた…!


………………一瞬だが長く感じるゴール前の沈黙の中………

ゴールを最初に通過したのは仁美だった!

万歳をしてる様に両手を掲げ

「やっーたー!」と喜びに溢れた声を上げ、最後に小さくガッツポーズをして仁美の目から涙が溢れた。


このようにして、仁美は貴子との戦いに勝利した。勝てるかわからない格上の存在にも果敢に挑み対等に勝負した事、最後まで諦めなかった事、何よりもレースや勝負を楽しんだ事。それに正々堂々と戦う努力を怠らなかったからだった。


一位でゴールした時、監督車にいた高橋智も無線を聞いて歓喜で震えていた。

チーム全体が歓喜で包まれていた!


智はすぐさま仁美の所に駆け寄り、

「本当はさ、仁美ならやってしまうかも知れないって思ってたけど不安もあって…信じる事が出来なかったけど、それでも勝ってくれ!ってずっと祈ってた!

やっぱり流石だよ!よく頑張ったな!」

智は満面の笑みで仁美を祝福した。

「良かったよう、智ぃ。凄く不安だった、怖かった。けど、みんなが応援してくれてると思ったら勇気が出た!この想いは一生の宝物だよ!」

泣きながら嬉しさのあまり智に抱きつき大量の涙をながす仁美。

「おいおい、ドヤ顔して見返すんじゃなかったのか?」

「だって、だって、辛かったし苦しかったんだもん!けどそれを超えて嬉しさのあまりに!」

急に女の子を出す仁美に智は少し照れた。

「そうだった!どう?これが一位の表彰状よ!」

「なんだよころころと表情変えやがって。そうだな!やっぱり凄いよ!仁美!」


智と仁美はお互いに笑い合い抱擁しながら喜び合った。


敗れた貴子もレースに勝利した仁美に祝福をした。

貴子「おめでとう!あなたは私に打ち勝った!今度は私も皆も挑戦者よ。次勝つまで負けないくらい頑張るよ!

…あと、いい加減メカニックの彼に本当の想い伝えたら?あなた達お似合いよ笑」

少し笑みを含みながら仁美の肩をポンッと叩いてテントの影へ向かった。


貴子「負けた…!うっ、うっ…ひっく…悔しい…!悔しい!」

貴子はただただ悔しかった。作戦は間違ってなかったはず、最初は自分がリードしてたのに何故勝てなかったのか?

シンプルに理由がわかっていたからこそ自分に厳しくなり自分の頬を殴りたくなる。

…ただただ悔しくて涙が溢れていた。

静かにテントの裏で1人泣いていた。

次こそは最後まで諦めずに引き下がらない事をこのレースで誓った。彼女も今回のレースで強くなった選手の1人であった。


後からゴールした燈にも

燈「やったじゃん!あたしは3位だったけど、結果には納得してる。また鍛え直さないと!」

燈はリベンジを胸に今決意した。

寧ろ、力不足から挑戦出来る喜びもあり燃える部分もあったのだった。

仁美「私も更に強くなるって誓うよ!次は2連覇目指して誰よりもトレーニングしていく!」

2人共仲も良く弄りつつ称え合った。


それぞれの想いがあり、それぞれの熱意もあり

それぞれの挑戦は終わらない。

チャンピオンになってからが挑戦であり、限界が来てからが本番なのだ。

勝負は最後までわからない。

諦めずに走り切ると良い事が起こると信じて走るんだ。


仁美はこのレースで初の優勝、初のコースレコードを作り、今後語られる伝説のレースとなった。


チャンピオンにも初めてなった仁美はここからが本当のスタートだと心から誓ったのである。








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