9話

 柴田が札幌に帰ってきた。


 どういったいきさつがあったのか彼は知らないし、知ろうともしなかったが、高田は仙台で結婚し、会社を辞めたらしい。それは彼にとっては好都合だった。

 柴田は、そしらぬ顔をして桂子のもとへ帰り、再び忙しい毎日を送ることになったが、圭子にとっては少々、うっとっしい存在だった。


 そして二人の平穏な日々が、また始まっていた。

 そんなある日だった。今日も忙しい一日を会社で過ごし、柴田は久し振りに家でゆっくり酒でも飲みたいと思いながら電車を降りて、部屋に向かった。

 空はすでに紫に染まり、星が遠く輝きだしていた。


 少し疲れていた彼が、ドアを開け玄関の中に入り、顔を上げると、そこには圭子が申し訳なさそうな顔をして、柴田の顔を見つめ立っていた。

ドアまでお出迎えとは、「何かあるな」。柴田はとっさにそう感じ、その日の夜の混乱を想像した。

「どうしたんだい」と尋ねる。圭子が泣きそうな顔をしていきなり誤った。

「ごめんなさい」

「だからどうしたんだい」そう訝しげに訊ねると、圭子はようやく柴田を中に通した。彼は何事だろうと部屋を見回すと奥の部屋に一人の中年女性が背筋を真直ぐに伸ばして座っていた。

 お客様だったのか、そう思い。

「いらっしゃいませ」少し戸惑いながら柴田が言った。

「お邪魔しております」

 女性は丁寧に会釈した。

「どちら様なの」そう言って、圭子に聞いた。


 彼女はしばらく黙ったまま、その女性と目を合わせ、何か目で会話しているようだった。

 彼には内容は解からなかった。

 少し沈黙が流れ、その女性がようやく口を開いた。

「初めまして。圭子の母です」

 柴田は思わず答えた。

「初めまして」そう言って軽く会釈し、ようやく驚いた。

 『両親ともに死んでいるのではなかったのか。

 どういうことなのだ』彼は思った。

 『遊びに来た?でも、遊びに来たにしては大きな荷物を横にしている』。

 反射的に柴田は思った。『まさか居座る気ではないのか?』。


 思わず頭に血が上った。

「どういうことなの?」柴田は圭子を睨みつけた。

 圭子はこんなにきつい表情の柴田は見たことがない。

 彼が相当怒こっているのは間違いないと思った。

「ごめんなさい、母は生きていたの」圭子が俯いて言った。

「そんなことは見ればわかるじゃないか。だから、そのお母さんがどうしてここにいるかを聞いてるの」柴田はきびしく圭子を問い詰めた。


 圭子は再び母のほうを向き、何か目で会話しているようだった。そして少しの沈黙が流れた後、圭子の母が口を開いた。

「しばらくお世話になります」そう言って、丁寧に床に両手の指先をついて、軽く彼に向かって会釈した。 

 柴田は圭子の腕を引き、彼女を寝室に連れ込み、小さく、しかし厳しい声で問い詰めた。


「どういうこと?」

「ごめんなさい。しばらく家で母の面倒を見てほしいの」圭子は泣きそうだった。

「しばらくって、どのくらいなの」彼はなおも問い詰めた。

「多分1週間で済むと思うわ」圭子は言った。

「1週間、本当なのだろうな、そのまま居座るつもりじゃないだろうな」柴田は激しく言った。

「ひどいわ。信じてよ」圭子が言う。

「信じてって、今しがた君のウソがばれたのだぞ、その人間の言うことが信じられるか」 柴田はそこまで言って、少し言い過ぎたかなと感じた。


「どうしたんだい」そういいながら、圭子の母が寝室に入ってきた。

「大丈夫。何でもないわ」そう言って圭子が母を寝室から押し出すと、柴田のほうに向きなおり、言った。

「とにかく信じて」柴田を見つめた。彼女はこんなに真剣に彼を見つめたのは初めてのような気がした。

 「・・・・・」柴田は何も言わなかった。


 その夜3人で食事をした。柴田は何も言わずに食事をしている母親に、取りあえず聞いてみた。

「お母さんはおいくつですか」恐る恐る聞いた。

「今年、70になります」そう柴田を見ずに答えた。

「どちらから来たのですか」なおも聞いた。

「釧路です」さりげない返答だ。

 とっさに柴田は圭子が釧路で生まれ育ったのだと思った。

 そして核心の問題に触れるまで何とか話題をつなげようと努力した。

「釧路はタンチョウヅルがきれいでしょう。天然記念物ですものね。」彼がそう言って何とか話が途切れないように続けた。

ここで話が途切れるとまた沈黙に陥ってしまう気がした。

「鹿もいるのですよね。かわいいでしょ」柴田が言った

「邪魔なだけですよ」憮然とした表情で母が答える。


 どこか物の言いようが圭子と似ているような気がしてきた。

 気の強そうな人だ。そこで圭子が急に口を挟んだ。

「お母さん今度の土曜日、一緒に街に出ましょう」

「いいね」それまでの母の暗く沈んだ表情が、飴玉をもらった子供のように輝いた。

 それ以上柴田は何も言えず、結局、聞きたいことは聞き出せなかった。

 ご飯を食べてTVを見て8時頃に母は寝た。

 二人はいつも11時頃に寝る。


 6時頃におきて7時頃には家を出る。

一日の睡眠時間は二人ともに7時間程度である。

その夜、柴田は圭子に聞いてみた。


「お母さんは何のために来たの」圭子は聞かれることは覚悟していた。

 全部ほんとのことを話すつもりでいた。

「病院に診断を受けに行くためよ」圭子は素直に答えた。

「病院・・・・」柴田は少し混乱した。

「少し認知症が始まっているみたいで、検査を受けに行くの」

「認知症って。お母さん釧路で誰と暮らしているのだい」

「一人暮らし」圭子は諦めるような口ぶりだ。

「一人暮らしって。もし、認知症が進んでいったらどうするつもりなの」柴田は少し恐怖感を感じていた。


「まだ考えていないわ。実は私、姉妹がいるの。みんな札幌にいるわ」

「親戚づきあいはないというのも嘘なのかい」柴田は僅かにほっとしたものを感じていた。


「ええ。姉とはたまに連絡も取るし、会っている」

「お母さんの事は話し合っているのかい」柴田は完全にほっとしていた。

「まだ考えてないの。これからよ」圭子が答えた。

「これからって、現にお母さんは僕らを頼ってうちに来ているじゃないか。助けを必要としているじゃないか。このまま認知症の診断が下されて、介護が必要ですということになったらどうするつもりなの」柴田は激しく問い詰めた。


「安心して、私達に面倒なことにならないようにする」圭子はすがり付く様に言った。

 「面倒なことって。君のお母さんじゃないか・・・」柴田は混乱していた。

が、圭子にとっては柴田の ”君のお母さんじゃないか” この言葉は、今まで彼女が彼から求めていた、彼の ”君を愛してる” その一言にも等しかったのだった。


 二人はその日はそのまま寝た。


次の日は、お母さんが留守番をし、2人はいつも通り会社に出かけた。

 柴田はどうしても圭子から聞いた認知症という言葉が気になり、会社でも落ち着かず、仕事が手につかなかった。

「どうした、柴田。具合でも悪いのか」部長が声をかけてきた。

「あ、いいえ。大丈夫です」柴田は言った。

「ならいいけど。プロジェクトが終わったばかりだ。無理せんでもいいからな」部長が言った。

 柴田はだったらほっといてくれ、そう思いつつ部署内にある20円コーヒを飲みに立ち上がった。

 そこへ前川が寄ってきた。

「悩みがあるなら聞くぞ。今日のお前、明らかにおかしいぞ」彼が言った。

「ああ。実話な・・・。会議室へ行かないか」柴田は彼ならと思い、相談することにした。


 二人は会議室へ向かった。この時間帯どの会議室も使われていないようだった。

 柴田はそんな長い話にはならないと思った。

「女房の母親が認知症らしくてな。昨日、釧路から家にやってきたんだ。検査を受けるらしい。

 しかし釧路で一人暮らしらしくて、いずれ面倒を見なきゃならない事にもなりそうなんだ。まあ当然と言われればそれまで何だが、俺は女房から母親も父親も死んだと聞かされていたもんで、いきなり認知症の母の面倒を見てくれと言われて、ちょっと困ってるんだ」柴田は前川に言った。


「そりゃ、当然だな。まあ、落ち着いて考えれば方法はいくらでもある。家で面倒見れなきゃそれなりの施設は一杯ある。お前だって金がないわけじゃないだろう。金を出せばホテル並みの老人施設が今はあるそうだ。お袋さんに介護が必要になったときに真剣に調べてみろ」前川がいとも簡単に彼の問題を解決してくれた。


 柴田はほっとした、そう介護が必要になったときに圭子と話してみよう。


 金は十分ある。


 そして仕事が終わりいつも通り部屋に帰ると、お母さんが料理を作って待っていた。

「今日は肉じゃがだよ」そう言ってお母さんが出来立ての肉じゃがをテーブルに出した。美味しい。柴田は久しぶりにできたての手料理を食べた気がした。その時、柴田は圭子の手作りの料理を口にしたことがない事に気が付いた。

 その週はお母さんの手料理で過ごし、そして1週間後、お母さんは帰っていった、ひとりの家に。

 柴田は圭子に何も言わなかった。

 圭子は柴田が何かを言ってくれないか期待していた。

 しかし柴田は無言のまま母を見送った。

 その3日後圭子の携帯に母から電話が入った。


「どうしてるんだい」母が言った、明らかに心配そうに、泣き入りそうな声だった。

「元気にしてるわよ」そう答えた圭子の声では元気にしてると思えないだろう。

「仕事はまだ見つからないのかい」母の声からは表情が読み取れた。

 圭子は咄嗟におかしいと感じたがとりあえず話を合わせることにした。

「大丈夫。生活には困っていない」圭子は素直に言った。

 実際に困ってはいないのだ。

「金に困ってるんじゃないのかい」彼女は3日前、母を一人で釧路に返したことを後悔した。

 あのまま「母の面倒を見てくれ」と言えば柴田はいやとは言わなかったはずだ。

「大丈夫」

「大丈夫ってお前、収入もなしに・・・」

「大丈夫なの。お母さんに迷惑はかけない」

「何か用があるの」

 彼女は腹ただしくなってきて言った。

「いや、今度お前の所に行こうと思っている」母が突然言い出した。彼女は一瞬、迷った。

「何しに来るの。この前来たばかりじゃない」しかし、圭子は電話に向かって怒鳴りつけた。

「迷惑ってお前」

「とにかく特別何も用が無いなら切るわよ」

 彼女はそう言って電話を切った。

 まったく、母親からの愛情はこの歳になるとありがたさを超えて怒りになってくる。そして自分に言い聞かせた。


「この前の様子だと母は生活には特に困っていないのだ。これでよかったのだ」

これが親子なのだと圭子は思った。


                                  おわり



 


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柴田と圭子 吉江 和輝 @YosieKazuki

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