無謀なる挑戦〜王者に挑むまでの12ヶ月間〜

バンビ

第一話 筋萎縮性側索硬化症

今より二週間前、B級プロボクサー、卜部うらべ和也かずやは指定難病である筋萎縮性側索硬化症であると診断された。この病気は体中の筋肉が徐々に衰えていき、わずかな動作も困難になる難病で治療法はまだ確立されておらず、薬やリハビリなどで症状を軽減させることが一般的であるがしかし、完治することはなく、平均的な余命は発症してから三年半であるらしい。卜部は当然のことながら将来のことを心配し始めた。これまでの人生で当たり前だと思っていたことができなくなると、卜部には何ができるのか?と真剣に考えた。一方で、自分の余命のことも考えた。

さてこの病気の特徴を挙げるとするならば、すぐに死に至る程ではないによ非常にタチが悪いという事だ。何しろ厄介な事に一度身体を蝕むと、その細菌は抗菌剤でも消滅させる事が困難だという。そして何よりタチが悪いのが、この病気が不治の病では無いという事、つまり卜部は、現在治療方法が確立されていない不治の病に罹っている状態なのだという。そして医者が言うには、恐らくは卜部が生きている間に根治出来る見込みは無いだろうという話だ。

確かにこの病気が発見されてから数十年経過しているが、未だ根本的な治療法の発見には至っていない。この病気を完治させる事が出来なければ、卜部の命はあと幾許も無いだろう。

卜部は元来健康体であった。しかしまさかこのような病魔が巣食っていたとは、思いも寄らなかった。

健康体が突然死に至る確率は非常に低い。しかし卜部には時間がない。さてこれからどうするべきだろうか? 余命三年を宣告されてからの卜部は、魂が抜けたかのような張り合いのない毎日であった。最後の敗戦からはジムへの足は遠のき、自宅でシャドーをしたりはしていたのだが、不安で眠れぬ毎日を過ごしていた。脳が全身の筋肉にいくら「動け」と指令しても神経系を伝わりづらくなり、徐々に力が入らなくなり、結果として筋肉は痩せ細っていくらしく、症状は進行性で、現在も原因は分かっておらず、有効な治療法はほとんどなく、一年間で新たにこの病気を発症する人は十万人当たりで約一人で、男性は女性に比べて1.2~1.3倍。最も発症しやすい年齢は60~70代だが、ルー・ゲーリックやスティーヴン・ホーキングのように有名人もこの病気に罹っている。稀に卜部のような若い世代での発症もある。若いとはいえ、現在、三十五歳の卜部は、ボクサー年齢としてはロートルで引退していてトレーナーをしていてもおかしくない年齢である。は、眼の筋肉も衰えてくる。視力が低下し、乱視が起こり、進行すると視野狭窄や視力喪失も起こり得る。このように、中枢神経系の疾患や神経変性疾患では、視覚障害が起こることがあるため、卜部はなおさら焦っていた。卜部は幼少の頃より地上最強に憧れていた。地上最強を夢見て、四歳より空手を始めて、学生時代は柔道やレスリング、そして就職の際は、自衛隊の道を選んで、除隊後の三十歳の頃に、ボクシングジムに入会した。以来五年間、卜部はずっと強さを追い求めてきた。元来卜部は野球やサッカーなどの団体競技がまるで苦手であった。野球に至ってはバットにボールが当たらずに空振りばかり、サッカーは下手すぎてキーパー役ばかり、バスケットボールではパスすら回してもらえず、クラスの中では完全に孤立していた。格闘技をしていなければイジメにあっていた可能性もあった。このような境遇こそが卜部を最強への道を歩むことへのきっかけになる。北海道の猿払村で生まれた卜部は、テレビしか楽しみのない田舎で、ボクシングという競技にハマる。辰吉丈一郎に鬼塚勝也、薬師寺保栄、勇利アルバチャコフ、大橋秀行などのチャンピオンの試合を親と共に観戦し、すっかり夢中になったが、村にはボクシングジムなどなく、地元の学校にもボクシング部が無い為に、せめて格闘技に近いものがやりたいとアマチュアレスリングを始めた。地元の道場で柔道をしていたよしみで、柔道の技をレスリングに取り入れた。一本背負い投げや首投げ、大外刈りなどをレスリング用に創意工夫して取り入れてみると、がんがん勝ち始めて、やがてはオリンピック選抜候補にも選ばれた。卜部にはレスリングでの相手の動きを見極める才能もあり、努力のかいもあり、全日本選手権大会でタイトルを獲得した。オリンピック選考時の決勝戦では惜しくも負けてしまい、このときにタックルの勢いがつきすぎて、相手選手の腰骨に自身の左目か激しく当たり流血してしまった。このときの傷は未だに残っており、以来ボクシングを始めてからもずっとこの傷に苦しむこととなる。大学卒業後、自衛隊に入隊、帯広の部隊に配属。そこでボクシングを本格的に始める。独学のボクシングは全く歯が立たず連戦連敗。唯一のKO勝ちは、インファイトでがむしゃらに突っ込み、ボディで悶絶させた一勝のみで戦績は一勝六敗二引き分け 才能の欠片も感じさせない戦績である。自衛隊に所属していた為に、プロになろうという意識は微塵も無く、ただただ身体を鍛えたい、虐めぬきたい一心でボクシングを始めた。強くなりたくて、堂々と身体を鍛えていても怒られることなく賞賛される職場である自衛隊に身体をあずけ、空挺部隊でみっちり厳しいトレーニングを課しながら、ボクシングのトレーニングを並行して始めた。悪いことに、デビュー戦でいきなりの悶絶KOをかまして卜部は完全に舞い上がっていた。相手は素人同然にも関わらず、完全に浮かれて変な根拠の無い自信をつけていた。そして大会に出場したときに、本物のボクサーと当たってしまった。超高速ジャブが全くかわせない。気持ちばかり焦り、大振りなフックにカウンターを合わせられる始末。内臓に突き刺さるようなボディブローに、ゴルフスイングのようなアッパーカットが顎に砕いた。このままでは相手に殺されると怯んだ卜部は不覚にも急所を外れたストレートで、余力を残したまま自ら膝をついた。効いたわけでもないパンチに気持ちが折れて、膝をついたまま頭を振って効いた振りを押し通した。レフリーが10カウントの後にゴングで試合終了。恥ずかしいことだと自覚はしていたが、これ以上の抵抗は無意味と知り、自ら白旗を上げてしまったのだ。その相手選手はプロに進み、現在は東太平洋チャンピオンとなっている。対する卜部のプロ戦績は五勝六敗二分けの負け越し成績のB級ボクサーで、まさに雲泥の差である。恐らくは一年後にはどこか身体に支障が出るに違いないと判断した卜部は、ジムの会長に病気の件と、これからの目標を相談した。卜部より二つ年上の新藤会長は卜部の病状と余りの突飛な相談に顔を真っ青にして腕を組んだまま押し黙った。表情には苛立ちが漂い、二人の間に不穏な空気が漂い始めた。今からチャンピオンを目指すという途方もなく無謀なチャレンジに戸惑いの色が垣間見れた。『正直、こういう事を言っていいか分からないけど、いつ死ぬか分からない身体です。だから、悔いは残したくないんです』不穏な空気を切り裂くように、卜部はぽつりと口を開いた。新藤会長は未だ押し黙ったままであった。『おい、梨央!』新藤会長は、そばでトレーナーとして会員のシャドーを指導していた妹の新藤 梨央りお(三十)に声をかけた。『卜部、梨央にもお前の症状と目標を話すけど、いいな?』新藤会長はボソッと卜部に尋ね、卜部はただ黙って頷いた。ジャージ姿で、髪をゴムで括りポニーテールにした梨央は不穏な空気を察したのか、眉間に皺を寄せたままこちらに歩んできた。『俺から梨央に話をするから、お前は黙って聞いていろよ』話下手の卜部に考慮し、新藤は釘を刺すように忠告した。新藤は梨央に事の詳細を掻い摘んで丁寧に説明した。病状のこと、余命、チャンピオンになりたいこと、全てを説明した。聞いている間、梨央は時折、卜部に視線を送りながら神妙な面持ちで頷いた。『ふーん、とべちん、死んじゃうんだ?』聞き終えた梨央からの不躾な質問に、新藤は慌てふためき、窘めた。『お前さ、もうちょい言葉選べや』梨央は頬を膨らました。『仕方ないじゃん、私はこういう性格なんだからさ、とべちんも知ってるでしょ?』梨央は大人しい卜部を睨めつけるようにして尋ねた。卜部はただ頷くだけであった。『とべちんにチャンピオンは無理だよ』梨央はにべも無くそう答えた。『正直パンチは無いし、ディフェンステクニックも無いし、スタミナは無いし、動きは鈍重』新藤はそこまで言うかといった表情で、あんぐりしたまま妹である梨央を見据えた。『レスリング時代の押し負けない強さと前に出る勇気だけかな?』梨央は卜部にそう言うとため息をついた。『残り一年以内にチャンピオンになりたいなら、まず一度B級のボクサーに勝ちA級に昇格して、日本ランカーに勝って、日本ランキング十五位圏内に入り、そこからタイトルマッチ挑戦権を得て、最後にチャンピオンを倒さないといけない。当然勝てば勝つほど相手は強くなっていく』自分よりも強い相手に三回連続で勝ったと仮定しても肝心のチャンピオンが挑戦権を受けてくれるかどうか…前途多難すぎて、新藤は繋げるべき言葉が見つからなかった。『てなわけで、梨央、卜部のトレーナー頼むわ』『やだよ』梨央はそうくると予測をしていたのか言い終わるや否や即答した。『とべちんがボクシングが下手くそなの知ってるし、一年ポッキリじゃ技術云々の向上なんてたかが知れてる。何よりそんな重いものを私に背負わせないでよ』ジム内にシューズの音がキュッキュッと響き渡る。卜部と新藤はお互いに黙り込んだ。

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