最終話 トコヨ市役所は、市民の皆さんの味方です

 音も光も消え失せた空間で、タマキの体は揺蕩っていた。誰かの膝を借りて眠っているような気もするし、優しく頭を撫でられているような気もする。


『―――、―――』


 誰かに呼ばれた気がして閉じていた目をゆっくりと開く。そこには記憶の中と寸分たがわない母親の姿があった。


『もう、タマキはねぼすけさんね』


 穏やかに微笑むマドカに、タマキは泣きそうになりながら手を伸ばす。マドカはその手を、そっと自分の両手で握り込み、ゆるゆると首を横に振った。


『最後まで守ってあげられなくてごめんね。でも……まだこっちに来ちゃだめよ』


 寂しい思いを秘めた表情で優しく拒絶され、タマキは様々な言葉を飲み込んで顔を歪める。


 母親に会ったら、言いたいことがたくさんあった。恨みも、疑問も、すべてぶつけたかった。


 でも、いざその母親を目の前にすると、こうして会うことができただけで満足だと感じた。


 彼女に抱いていたのは憎悪ではなく、ただ会いたいという感情だけだったと、ようやく自覚した。


 マドカは、タマキの目の上にそっと手を置いた。


『ほら、目を閉じて。あなたを待ってる子がいるから』


 促されるまま、タマキは目を閉じる。まぶたごしに感じる懐かしい母の体温に、涙が一粒こぼれた。


『あなたがいつか、誰かを守れる子になることを祈ってるわ』






「――【おはようございます、タマキ後輩】」


 耳元で囁かれた平坦な声に、脳を直接殴られたかのような衝撃を受けてタマキの意識は回復する。


 反射的に体を起こしたが、ひょいっとシータはそれを避けた。


「どうですか。僕の子守唄はよく眠れましたか?」


 致死性すらある舌禍の子守唄を直撃させたというのに、シータは誇らしげに尋ねてくる。タマキは助けてもらったという恩は感じつつも、ほんの少しの不満を込めて軽口で返した。


「暴力的すぎて安眠というより臨死体験という言葉のほうが近かったですね」


「そうですか。よく眠れたようでよかったです」


 含みのある言い方には気づかずに、シータは素直に喜ぶ。その後ろで何かの作業をしていたココが、閉じ込められていた被害者たちをたった一人で抱え上げながら、場違いなほど明るい口調で声をかけてきた。


「あ、タマキくん起きた? 私はこの人たちを運び出すから、さっさとずらかるよー?」


 そう言い終わると、ココは足早に意識を失ったままの被害者たちを抱えて部屋から出ていった。


 残されたのはタマキとシータ、それから気を失っているユタカとチカだけだ。


 どういう状況なのかわからずにタマキが呆然としていると、シータはふと思い出したように説明した。


「タマキ後輩、残念ながらこれ以上の援軍はありません。僕たちは今、ここにいないことになっています」


「いないこと、ですか?」


「はい。この会社がトコヨ市の安寧を乱そうとしていたと世間に知れたら、母体であるトコヨモーターの信用は失墜し、トコヨ市の均衡は一瞬で崩れます。足元で寝ているこの方を含めたここの関係者は、残念ながら施設丸ごと事故に見せかけて全員処分されることになりました。ちなみに、もし時間内に脱出できなければ、僕たちもまとめて処分されます」


 シータは床に転がるユタカのことを指しながら言う。淡々と告げられる冷酷な判断に、タマキは少し考えてから目を伏せた。


「そうですか……。俺はまた、見捨てられそうになっていたんですね」


 彼の言っていることは、要するに口封じだ。トコヨ第二製薬が行った研究の痕跡を消してしまえば、余計な争いの火種はなくなる。


 たとえそこに巻き込まれる味方がいたとしても、口封じを速やかに行うのは集団の維持として正しい判断だ。


 この町に来るきっかけとなった壁の外での最後の任務。そこで自分が切り捨てられた時と同じように。


 だが、シータはそんなタマキをまっすぐに見据えて言った。


「見捨てません」


「え……」


「この町の誰もがあなたを見捨てようと、僕だけはあなたを見捨てません」


 瞳に強い意思を宿しながら、堂々とシータは告げる。


「僕はあなたの尊敬できる先輩であり、唯一の相棒なんですから」


 こころなしか責任感の浮かんだ凛々しい表情でシータは言う。タマキはその言葉のあまりの素直さにあっけに取られた後、ためらいがちに目をそらした。


「シータさん、一つだけ教えてください。……母は、東雲マドカは、誰かに殺されたんですか?」


 今まで誰も教えてくれなかった問いを、改めてシータに投げかける。シータは少し逡巡した後、タマキを正面から見た。


「東雲マドカさんは、自ら志願して、飢餓の抑制剤の研究に携わった方なんです。彼女の献身によって、抑制剤の研究は大きく進みました。……僕の母を含めた周囲が、それ以上の献身はやめるように言ったのですが、『飢餓で苦しむ子が一人でも減るように』と最後まで命をかけて研究を続けて……」


 シータはそこで言葉を切ると、懐かしそうな表情になった。


「僕も、マドカさんに会ったことがあります。とても優しくて、仲間思いな方でした。『いつかこの町に来るかもしれない息子のために、トコヨ市を素敵な町にしたい。厄獣も人間も関係なく、みんなが幸せに過ごせる町にしたい』。それが彼女の口癖でした」


 どこか悲しそうな色を含んだ声で、シータはぽつぽつと告白する。タマキはその言葉をすべて受け止め、どんな感情でそれに返せばいいのかわからずに目を伏せた。


「……そう、なんですね」


 そのまま何も言えなくなるタマキに、シータは深々と頭を下げた。


「隠していてすみませんでした。きっとショックを受けるだろうと、みんなで隠すことを決めたんです。ただでさえ飢餓のコントロールにまだ慣れていない状態で、あなたの精神を不安定にするわけにはいかなかったんです」


 常ではありえない誠心誠意の気持ちを込めたシータの謝罪に、タマキは自分の中にしぶとく居座っていた怒りや不満が収まっていくのを感じた。


 同時に、大人気なく噛みついていた自分の幼さも自覚し、タマキはシータに声をかける。


「シータさん、頭を上げてください」


 タマキに促されるまま、シータは頭を上げる。そんな彼に、今度はタマキが深く頭を下げた。


「すみませんでした。八つ当たりをしてしまって」


 はっきりとした口調で謝罪を述べ、それから前向きな感情を目に宿してタマキは顔を上げる。


「ここから出たら教えてください。母さんについて、いろいろなことを」


 そんなタマキに、シータは目をパチクリとさせた後に、微笑むのを失敗したようなぎこちなさで目を細めた。


「いいですよ。では、母親自慢大会を開催しましょう。僕は負けませんよ」


「はは、それはいいですね」


 シータの冗談に軽口で返し、タマキはチカを抱き上げて立ち上がる。シータはちらりと時計を確認した。


「安穏室長の待つ合流地点にたどり着けばこちらの勝ちです。では、スパイのように隠密行動をしましょう。段ボールでも被りますか?」


 すらすらと言うシータに、タマキはあることに気がついて彼を制止した。


「待ってください、まだこの子の母親を助けていません。このタイミングで連れ出さなければこの子の母親は……」


 チカの母親は、おそらく会社の関係者とみなされて処分される。その未来が容易に想像でき、タマキは気を失っているチカを抱く腕に力を込める。


 だが、シータはそんなタマキを否定した。


「タマキ後輩、ここは逃げるべきです。時間切れになったら、僕たちごと施設が処分されます」


「この子に助けを求められたんです。自分と母親を助けてほしいと。だから、この町の市役所職員として見捨てるわけにはいきません!」


 声を潜めて宣言するタマキに、シータは一瞬瞠目した後、こくりと頷いた。


「分かりました。タマキ後輩も一人前の市役所職員の顔になってきましたね。先輩として鼻が高いです」


 褒められたことを素直に喜べばいいのか、それとも先輩面をされたことを冗談ととらえて笑えばいいのかわからず、タマキは変な顔になる。シータはさらに付け加えた。


「とはいえ、まずはその子の安全を確保しましょう。お母様を探すのはそれからです」


「はい、もちろんです」


 タマキは重々しくうなずき、シータもそれに首を縦にふる。そして、シータの先導で二人は施設からの脱出を試み始めた。


 施設内には警備員も何人か配置されていたようだが、そのほとんどが気絶させられて廊下の隅に転がされていた。


「ココさんの活躍はすごかったですよ。映画のエージェントのように、警備の方々をちぎっては投げ、ちぎっては投げ」


「はは……」


 その様子が容易に想像でき、タマキは乾いた笑い声を出す。それでもまだ、施設に起きている異変に気づいていない職員はいるようで、通常業務に励んでいる人影も度々通り過ぎる。二人はそんな人々に見つからないように先を急いだ。


「この先の廊下を抜けてしまえば合流地点です。そこに一旦、チカちゃんを預けて――」


 だがその時――タマキの背後から、乾いた発砲音が響いた。


 タマキの背中に痛みと熱が走り、足をもつれさせて倒れ込む。数秒遅れてそれに気づいたシータが振り返った頃には、タマキを撃った人間が、彼の腕の中からチカを奪い返していた。


「タマキ後輩!」


「俺はいい、です……! それよりチカちゃんを……!」


 シータが顔を上げると、そこにいたのはチカの母親だった。彼女は、気を失ったチカを大切そうに抱きかかえながら、小型の拳銃をこちらに向けている。


「あなたたちなんかに、チカは渡さない……!」


 追い詰められた獣のように覚悟を決めた形相で、チカの母親は二人を睨みつける。シータはタマキのそばから離れると、チカの母親と正面から向き合った。


 そのあまりにまっすぐな視線に、チカの母親は気圧されながらも、口を動かす。


「あ、あなたたちに何がわかるの! 厄獣の父親のせいで迫害され続けて、チカがどれだけ傷ついたかわかる!? 普通の女の子に戻してあげたいって思って、何が悪いのよ!」


 大声でわめく母親に、それまで倒れ込んでいたタマキは、よろよろと立ち上がりながら説得の言葉を投げかける。


「チカちゃんのお母さん、落ち着いてください。いくらチカちゃんのためでも、道を外れるのは間違っています。薬の研究のために、罪のない市民たちが実験体にさせられたんですよ?」


「っ……! それでも私は、ここにすがるしかっ……!」


 心を揺らがせながらも、母親はこちらに銃口を向けることを止めない。だがその時、思わぬ出来事がそんな母親に襲いかかった。


「ぐぅぅー……!」


 腕の中でぐったりと脱力していたチカが唐突に目を覚まし、暴れ出す。


「チカ!?」


 支えきれずにチカから手を離すと彼女は、自分の母親に血走った目を向けた。それが捕食者が獲物に向ける眼差しだと悟り、母親はチカに対して悲鳴のように叫ぶ。


「ねぇ、分からないの!? ママよ! 正気に戻って!」


 ただの獣のようにじりじりと距離を詰めてくるチカに、隠しきれない恐れの感情をその顔に浮かべながら、母親は少しずつ後ずさる。


 そして、そのままチカが母親に食らいつこうとした瞬間――二人の間に、タマキは立ちふさがった。


 飛びかかったチカがタマキに組みつき、その肩口に食らいつく。タマキは痛みに顔を歪めながらも、シータに呼びかけた。


「シータさん、彼女に舌禍を!」


 その言葉に弾かれたように、シータはタマキのもとに駆け寄り、チカの耳元でささやく。


「【眠れ】」


 そのたった一言でチカの意識は刈り取られ、彼女は脱力して気を失う。タマキは背中と肩から広がっていく痛みを無視し、そんなチカの体を抱き上げた。


「な、なんで……」


 敵であるはずの自分が庇われたことが信じられず、母親はへたりこんだまま呆然と口を動かす。タマキは少し迷った後、真剣な目で母親を見た。


「チカちゃんのお母さん。どうか、俺達を信じてください。俺たちトコヨ市役所は、市民の皆さんの味方なんです」


「え……」


 あれだけはっきりと拒絶したというのに、まだ丁寧に説得してくるタマキに、母親は口をぽかんと開けて間抜けな声を上げる。


 タマキの言葉を継ぐように、シータはさらに母親に告げた。


「僕たちのことを、すぐに信じられないのは当然です。あなたは、娘さんのことを愛しているから。でも、それでも僕たちはあなたに手を伸ばすのをやめません。それが、トコヨ市役所に務める者として、一番の責務です」


 当たり前のことを述べるように堂々とシータは宣言する。


 タマキはチカを落とさないよう慎重に床に膝をつくと、いまだにへたりこんでいる母親にまっすぐに手を差し伸べた。


「どうか信じてください。このトコヨ市は、厄獣も人間も混じり者も、堂々と生きられる『厄獣指定都市』なんです」


 それはまだ理想や綺麗事なのかもしれない。だけど、その理想を実行し続けることこそが、自分たちトコヨ市役所の使命なのだ。


 まだ、腹のさぐりあいや、疑心暗鬼がはびこるこの町を、かつて自分の母が望んだような場所にしてみせる。助けを求めた市民を、ちゃんと助けられるような存在になってみせる。


 そんな決意を込めて、タマキはチカの母親をじっと見つめる。


 チカの母親は、差し伸べられたその手とタマキの顔を何度も見比べる。タマキとシータはそんな母親をじっと待ち続ける。


 どうか助けを求めて欲しい。そう願いながら。


 そして、永遠にも思える長い逡巡の後――チカの母親は、震える手をタマキの手にそっと重ねた。







 ことのあらましをすべて語り終わり、タマキはふうと息を吐く。


 改めて言葉にしてみると、なんだか恥ずかしい内容も多い。そのためようやく話を終えられた今、どっと疲れが押し寄せてきていた。


 あれからチカとその母親を連れて二人は無事に脱出し、彼女たちはしかるべき援助を受けられることになった。


 チカに投与された促進剤の後遺症はなく、今は元気に過ごしているようだ。


 機密事項を知ってしまっているので多少窮屈な生活にはなるだろうが、今まで置かれていた環境よりはきっとマシなはずだ。


 トコヨ第二製薬は、本社と全てのプラントが謎の火災事故によって消失したことになった。関係者の口封じも滞りなく行われ、ほんの1週間で、トコヨ第二製薬があったという痕跡はトコヨ市から完全に消え去った。


 証拠隠滅はトコヨモーターが単独で行ったらしい。その手際の良さと完璧さを思うと、どれだけあの会社が権力と武力を握っているのか伺えるというものだろう。


「なるほど、つまりタマキ後輩は、僕のことを素敵な先輩だと認めたということですね?」


「はい?」


 ずれた感想を口にするシータに、タマキは遠慮なく呆れた声を出す。シータは鼻息荒く主張し始めた。


「だって、窮地で僕のことを先輩と呼んでくれたじゃないですか。追い詰められたときに本音が出るという話もありますし、先輩として認められたのは間違いありません。とても嬉しいです」


 あの時、彼のことを指して口にした呼び方は、『先輩』ではなく『自称先輩』だ。だがタマキは、今まさにシータに報告書の代筆を頼んでいる立場であったので、あえて彼の主張を否定しなかった。


 それをいいことに、ココはにやにやと意地悪な笑みを浮かべる。


「おやおや、よかったねシータくん。これで君も立派な先輩だね?」


「はい、僕は完璧な先輩なので当然です」


「んふふっ、そうだねぇ、今度お母さんにも報告してあげなよ」


「はい、そうします」


 誇らしそうに会話するシータとココに、言いたいことを我慢しているどこか複雑な表情のタマキ。そんな和やかな会話に、安穏はそっと口を挟んだ。


「えーと三人とも、わかってると思うけど、あの一件についての詳細は部外秘だから、建前としての内容も書かなきゃいけないからね?」


「えっ」


「え?」


「あー……」


 そこにまったく思い至っていなかった三人は、ぽかんと口を開けたり苦笑いを浮かべたりする。安穏は頭痛をこらえるように頭を抱えた。


「うん、そうだよね、そこが複雑なのにタマキくんに全部まかせたのは僕の落ち度だ。……わかった、じゃあ最後の一件の建前の報告書は僕が完成させておくから、三人はもう上がっていいよ。こんな時間まで付き合わせてごめんね?」


 つらつらと言い訳をするように言いながら、安穏はシータの代わりにパソコンの前に座る。席から追い出される形になったシータは、少し考えた後に提案した。


「では、安穏室長がさみしくないように、ここで僕たちの母親自慢大会を開催しますね」


「え?」


 間抜けな声を上げる安穏を無視し、残りの二人はそれに賛同する。


「名案ですね、シータさん。上官よりも先に帰るのには俺も抵抗がありますし」


「えー? 私も聞きたい聞きたいー」


 ノリノリで席をセットし始める部下たちに、安穏はあえて注意することもしないまま、ため息まじりにパソコンに顔を戻した。


「やれやれまったく……」


 窓の外はもうすっかり暗くなり、夜だというのに遠くから活気あふれるトコヨ市の喧騒が聞こえてくる。


「僕が知るタマキくんのお母様はですね……」


 遠くから響く騒がしいトコヨ市の日常と、安穏がキーボードを叩く音をBGMに、シータは穏やかに話し始める。


 タマキはそれに耳を傾けながら、母が愛したこのトコヨ市のことを、愛しく思う気持ちが芽生え始めていた。

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厄獣指定都市の地方公務員 黄鱗きいろ @cradleofdragon

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