第18話 助けを求められたのなら、必ず助けてみせます
次にタマキが意識を取り戻すと、そこは薄暗くて寒い場所だった。
どうやら床に転がされているようで、体の下には冷たいコンクリートの感触しかない。辺りには生臭い湿った空気が立ち込め、どこか遠くから獣が唸るような声が響いている。
何度か瞬きをするうちに視界が暗闇に慣れていき、自分が一体どこにいるのか知覚する。
そこは、鉄格子が嵌められた牢獄だった。自分がいる牢以外にもいくつかの牢があるようで、啜り泣く声や、獰猛な獣の唸り声が聞こえてくる。
ぼんやりとした思考のままタマキはそれを聞いていたが、ある瞬間にハッと正気に戻って体を起こそうとした。
「……っ!?」
起きあがろうとしたタマキを阻んだのは、手足にかけられた拘束だった。
自由に歩き回れないようにするためだろう。手首は後ろ手で束ねられ、足首にもしっかり枷が嵌っている。
「くそっ……なんで……!」
口の中で悪態をつきながら、タマキは拘束を解こうともがく。
この程度の拘束なら、厄獣としての力を喚起すれば――
「……あれ?」
いつも通り、厄獣の血を呼び起こそうとしているというのに、タマキの体に変化は訪れなかった。
慌てて風の刃を作り出そうとするも、それも叶わない。ただ重苦しいほどの冷たい空気が停滞するばかりだ。
「まさか、寝ている間に強力な抑制剤を……?」
同時に頭が冷えていき、自分がここに至るまでにあったことを思い出す。
中央区の霧に当てられた自分は平静を失い、幼い嫉妬と猜疑の末にシータを拒絶した。その上、独断専行によって無様にも敵地に囚われたのだ。
それを改めて自覚し、タマキの口から乾いた笑いが漏れる。
「はは、自業自得か……」
冷静になった今なら、自分はただ疑心暗鬼になっていただけなのだと理解できる。確かに市役所の面々は自分に隠し事をしているかもしれないが――それはきっと、理由があってのことだ。
外の連中と市役所の人々は、根本的に違う。
自分への善意への確信が持てなくても、彼らが厄獣と人間の共存のために尽力していることは、痛いほど分かっていたというのに。
負の感情に突き動かされて失態を犯してしまったことを後悔しながら、タマキはさらに強く厄獣の血を喚起しようと集中した。
いくら抑制剤を投与されていても、強引に力を使うことはできる。
風が少しずつ渦巻き、視界が狭まる。あと少しで破裂するように力を解放できるはずだ。
しかしその時――小さく鋭い声がタマキを制止した。
「おにいちゃん、ダメっ……!」
ハッと声の方を見ると、見覚えのある少女が鉄格子の向こうで泣きそうな顔をしていた。咄嗟に彼女の言葉に従い、力を喚起するための集中を解くと、その少女――道引チカはほっと胸を撫で下ろした。
「よかった、間に合った……」
チカは安堵の表情を浮かべる。タマキはすぐに、彼女がここにいることの意味を察した。
「君がいるということは、もしかしてここは……」
「うん。ここは、トコヨ第二製薬の研究プラントだよ。おにいちゃんはここの大人の人に実験体として捕まったの……」
実験体。
その単語から、タマキは最悪の推測に辿り着く。
「まさかあの食人植物たちは、トコヨ第二製薬が生きた実験体を集めるために……!?」
タマキの言葉に、チカは泣きそうな表情で頷いた。
「研究所の人が町中に種を配って、実験体にするための人間や厄獣を調達してたの。あの植物は特殊なフェロモンを出してて、標的が自主的に育てたがるから調達が楽だってアイツらが……」
その時、タマキの脳裏によぎったのは、市役所に寄せられていた市民の声だった。
『……え? 隣人の育てている植物が羨ましいから欲しい?』
『だーかーらっ! うちで育ててた花が育ち過ぎちゃったから、引き取ってもらいたいんだって!』
もしかしたら、あれは食人植物の影響を受けた市民たちだったのかもしれない。
すぐ近くに転がっていた手がかりに気づけなかった悔しさに、タマキは唇を噛む。
「おにいちゃんも、あいつらが研究してる薬を打たれてるの。だから、力を使わないで!」
必死にそう主張するチカを怖がらせないよう、タマキはなんとか平静を取り繕って尋ねた。
「どうして力を使うのがまずいんだ? 抑制剤を打たれていても、無理矢理、力を使えば――」
タマキのその問いを遮るように、聞き覚えのある男の声が響く。
「それは、その試作品が重大な副作用を持っているからですよ、市役所職員さん」
わざとらしく足音を立てて近づいてきたのは――トコヨ第二製薬の社員である、益代ユタカだった。
「お前は、あの時の……!」
「覚えていてくださったようで光栄です。トコヨ第二製薬の研究プラントへようこそ」
にやりと嫌な笑みを浮かべながら、ユタカは這いつくばるタマキを見下ろし、それから絶望で震えているチカの頭に手を置いた。
「ダメでしょう、チカちゃん。ここは立ち入り禁止ですよ?」
「ひっ……」
内容こそ優しい言葉だったが、そこには明らかに支配的な脅しの意味が込められている。それを機敏に察知し、チカは小さく悲鳴を上げた。
「その子に触るな……!」
「おや、私はこの子の保護者ですよ? 何の関係もない市職員のあなたより、ずっとこの子を守る権利があると思いますが」
嫌味ったらしく言うユタカに、タマキは咄嗟に反論を思いつくことができずに黙り込む。
ユタカはそんなタマキを見下ろし、勝ち誇るように告げた。
「我々は、哀れな厄獣を人間に戻す研究を行っておりましてね。あなたに打たせていただいたのはその試作品なのですよ。その副作用として、無理に力を使おうとすれば理性を完全に失うことになるでしょうが」
「人間に戻す、だって……?」
聞き捨てならない言い方に、タマキは戸惑いを込めて聞き返す。ユタカは一層笑みを深めた。
「ええ、厄獣の血は汚らわしい病気のようなものですからね。それを治療しようと努力するのは製薬会社の義務でしょう?」
もっともらしいことを言うユタカに、タマキは怒りの声を上げる。
「……厄獣の血は病気なんかじゃない。治療なんてできるはずが……!」
「ええ、簡単にはできません。ですがもし、半永久的に厄獣としての力が行使できなくなれば、それは厄獣という病を克服したと言えるのではないでしょうか? あなたに、私たちの正義を否定できますか?」
ユタカは歌うようにそう言い、勝ち誇った笑みをタマキに向ける。
タマキは反論しようと何度も口を開きかけたが、その論理を否定する言葉を見つけられなかった。
そのまま押し黙るタマキに、ユタカはさらに優越の言葉をかけようとする。だが、それを遮るように、チカは震えながら声を張った。
「う、嘘つき! 薬を完成させたら町中にばらまいて、力がなくなった厄獣さんたちをみんな殺しちゃうつもりのくせに! ……きゃあっ!」
「チカちゃん!」
ユタカに髪を掴まれ、チカは悲鳴を上げる。タマキは拘束を解こうともがきながら、ユタカに向かって声を張り上げた。
「くそっ、その子に乱暴するな!」
「はぁ、やれやれ……。ちょこまかと動いていると思えばそこまで知っていたとはね。飢餓持ちのあなたを保護してさしあげた恩を忘れたんですか? お母様は、あなたの治療をするために我々の会社を頼ったというのに」
髪を掴んだまま、ユタカは勝手な論理をつらね続ける。チカは目に涙を溜めながらも、気丈にユタカを睨みつけていた。
ユタカは苛立ちの表情を浮かべ、チカを地面に投げ捨てた。
「なるほど。あくまで反抗的な態度は崩しませんか。それではほんの少し、罰を受けてもらいますね」
流れるような仕草でユタカはポケットから円筒型の注射器を取り出し、まるで判子を押すかのようにチカの首筋に押し付けた。
「っ……!」
その痛みから小さな悲鳴を上げたチカを引きずり、ユタカは牢の鍵を開けて、その中に彼女を放り込んだ。
そして、再びしっかりと施錠し直した鉄格子の向こう側で、まるで見せ物を楽しむかのような下劣な笑みを浮かべる。
「お前、チカちゃんに何をした……!」
目の前で倒れたまま動かないチカを助け起こすこともできず、タマキは憎悪の目をユタカに向ける。ユタカは余裕たっぷりにそれを笑い飛ばした。
「飢餓衝動の促進剤ですよ。じきに彼女は飢餓に呑まれ、目の前のものを食料としか認識できなくなる。そんな彼女を、文字通り手も足も出ないあなたと同じ牢に入れたらどうなるでしょうね?」
ハッとタマキが気づいた時には、チカはゆっくりと起き上がり、衝動に顔を歪めながら唸り声を上げ始めていた。
「う、うぅ……うぅぅ……」
「チカちゃん、しっかりするんだ! チカちゃん!」
いくらタマキが声をかけても、チカの動きは止まらない。チカはただの獣のようにタマキに覆い被さると、その喉笛に食らいつこうと顔を寄せた。
「っ……!」
これから訪れる痛みを予感し、タマキは思わず目を閉じる。だが、予想していた苦痛はなかなか訪れず、その代わりに、ぽたぽたとタマキの顔に水滴が垂れてきた。
「たすけ、て、おにいちゃん……」
震える声で助けを求めるチカは、ギリギリのところで理性を保ち、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「おねがいっ、ママとチカを、助けてっ……!」
その言葉に――タマキは一瞬で覚悟を決めた。
もう二度と正気に戻れなくてもいい。今この時、この少女を救うことができればそれでいい。
厄獣としての力を無理矢理解放し、力ずくで両手足の拘束を破壊する。そして、いまだ衝動に震えるチカを優しく抱きしめ、決意を込めて力強く言った。
「大丈夫だ、お兄ちゃんが絶対に守ってやるからな」
チカはぐしゃぐしゃに顔を歪め、それから飢えに耐えるためにタマキの体にしがみついた。
タマキはそんなチカを抱き上げ、鉄格子に手をかざす。それまで堅牢にタマキを閉じ込めていた牢は、風の刃によって一瞬で細切れになった。
「あ、あなた、話を聞いていなかったんですか!? 厄獣の力を使えば、あなたは永久に理性を失うんですよ!? なのにどうして!」
勝ちを確信していた相手に反撃され、ユタカは無様に腰を抜かしていた。
彼の言う通り、タマキの内側からは異常な勢いで力が溢れ出し、少しでも気を抜けば意識を奪われそうだ。
だが、それでも正気にしがみついていられるのは、チカの言葉のおかげだった。
「この子が、助けを、求めてくれたからですよ」
「は、はあ?」
間抜けに聞き返すユタカに、タマキは堂々と宣言した。
「助けを求めた市民を、絶対に見捨てない……それが、俺たち、トコヨ市役所の使命です……!」
タマキの意思に呼応し、部屋中に風が吹き荒れる。格子のはまった窓が揺れ、入口であるドアも軋む音を上げる。
その騒音に紛れるように、タマキは彼が部屋に滑り込んできたことに気がついた。
ユタカは焦りからうわずった声で、タマキに言い放つ。
「は、ははっ、それでどうするつもりです? 今度はあなたが暴走して、その子を食い殺すだけでは? もうどんな抑制剤もお前を止めることはできないんですよ!」
「抑制剤なんて、必要、ありませんよ……!」
腕の中のチカを強く抱きしめ、さりげなく彼女の耳を塞ぐ。目の前のユタカはいまだ背後に迫る人物に気づかず、腰を抜かしてタマキを見上げている。
タマキは忍び寄る彼の足音を誤魔化すために、一際声を張り上げた。
「俺には……どんな抑制剤よりも強烈な、自称先輩が、ついてますからね……!」
タマキの言葉を合図にするように、ユタカの背後から脳を揺らすような青年の歌声が三人に襲いかかる。
「――――!」
「ぐ、なっ……!?」
舌禍による子守唄。その気になれば、簡単に相手を永遠の眠りにつかせることができる暴力的なまでの音の奔流。
耳を塞ぐこともできずその直撃を受けたタマキは、一瞬で意識を刈り取られた。
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