僕と私のバレンタイン
ももも
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教室に入ってきた姫ちの姿を見た瞬間、ああ、あれは人の心が分からない時の顔だと思った。本日は日本の数あるエセ伝統の中でも、商業戦略に乗せられたバカものたちがあちこちで狂想曲を鳴り響かせるバレンタインデー。
姫ちに限って何もないわけがないのだが、手先がスゥっと冷えていく感覚に、思わず膝にのせた手のひらサイズの四角い箱をなでた。
「何かあったの?」
なんでもない顔をして私の隣に座った姫ちに聞くと、彼女はえっとね、と言って頬にかかった髪を耳にかけた。ふんわりと肩にかかるウェーブがかった髪が揺れ、ソープの甘い香りが鼻腔についた。
「先輩、泣かしちゃったー」
「いや、何したよ?」
「何ってチョコをあげただけだよ。〝今年のバレンタインデーは受験当日だからお前からもらったチョコで乗り切りたい!頼む!〟って言われてたからキットカットあげたらさー〝きっとカット……つまり俺は足切りされるってことおおうううう!!??〟って泣いちゃった」
「そんな明らかな義理じゃなくて本命チョコが欲しかったんだよ。ちなみにその先輩とは付き合っていたの?」
「ううん。だって私はみんなの姫だよ」
立てた人差し指を頬に当てながら、姫ちはニコリと笑った。あーうん、こいつはこういうやつだった。そのさまが嫌味なく可愛らしいから腹も立たない。
受験のお守りにいいって聞いていたのになーと不思議がる姫ちを尻目に、その先輩とやらに御愁傷様とつぶやいた。
姫ちは愛想はいいし、話の合わせ方が抜群に上手い。そんなこと話したっけ?ってことまでよく覚えていて、自分のことを好きに違いないと勘違いする輩は後をたたない。また一人勝手に自爆し、亡骸が増えただけの話だ。
この予備校に姫ちが入って早一年、予備校内だけでも生徒先生問わず両手では数えきれないほどの死体が積み上がっていた。
よし、まだ誰かに抜け駆けされてないぞとホッとしていると、間近から姫ちに顔をのぞき込まれた。
「そういうきつねちはどうよ? 誰かからチョコもらった?」
「僕? 僕は別に……」
「カバンの隙間からいろいろと見えてるよ?」
「え!?」
姫ちには絶対に見られないようにしっかりと閉めていたはずだった。慌ててカバンを見たがきちんと蓋は閉じてある。あれ?と思って顔をあげると姫ちの不敵な笑みがあった。ちくしょう。はめられた。
「いつもよりカバンがふくらんでいるから、バレバレだってー。で、何個もらったの?」
「……十個」
「相変わらずの愛されキャラよのー」
「違うって! 女子校って、みんなで友チョコ持ってきて交換する風習があるの! 余ったら僕みたいに気軽に渡せる人のところにいっぱい流れてくるだけだって!」
「友チョコのふりして本命を渡すパターンもあるよねー」
「だからそういうんじゃないんだって! ほら、チョコパウンドケーキばっかでしょ!」
「冗談だって」
くすくすと笑う姫ちにむくれながらも、心地よさを感じていた。同時に乾きを覚えている自覚も十分過ぎるほどあった。
姫ちと話すきっかけは週刊少年ダッシュだった。
いつも通り自習室で勉強しようとドアを開けたら、見覚えのないかわいい子がすぐそばの机でダッシュを読んでいて、え、堂々とダッシュ読んでいるよこの子と思いながら通り過ぎようとしたら、おもむろに彼女が手元のマグカップを両手で覆って「水見式」と言った瞬間、吹き出したのを見られて速攻でオタバレして今に至る。
予備校なんて志望大学に入るためにイヤイヤ通っていたが、姫ちに出会ってから彼女に会うために行く場所になっていた。
僕の中の何かがぐらつき始めたのはいつからだろうか。
いつしか姫ちの姿が目に入るたびに、奇妙なわだかまりが喉につっかかるようになり、姫ちがクラスメートの話を楽しげにしている姿に暗い感情が奥底から這い出てきたのを自覚した時に、ようやくそれが独占欲だと気づいた。
初めは、姫ちはみんなの姫だから僕だけの姫になって欲しいと願うのは傲慢だと言い聞かせてきた。でも一度開かれてしまった感情の扉は、閉じようとすればするほどあふれでてくる。
僕は好きな人に対してどこまでも湿度が高くなれる。僕だけを見て欲しい。愛が欲しい。どこにも行かないで欲しい。ずっとそばにいて欲しい。そんな自分でもコントロールできない重い愛が相手の負担になってしまうのではないかって怖い。でも姫ちならこんなどうしようもない僕のことをすべて受け止めてくれる。そう思ってしまうんだ。
姫ちとこうして話せるのは予備校に通っている間だけ。
けれど受験が終わってしまえば、今のように理由もなしに会うことはむずかしくなる。それまでに今の関係性をもっと前進させたい。それには今日しかなかった。
膝にのせていた小さな箱を左手でぎゅっと握る。決心するように一息つくと、姫ちの目をじっと見た。
「姫ち、渡したいものがあるから物品庫に来てくれない?」
日の射さない部屋には、大量の消しゴムやボールペンなどの消耗品の入った段ボールが所狭しに積まれていた。
姫ちの後に続いて部屋に入ると後手で扉をパタンと閉める。
狭い密室に二人きり。頭に浮かぶのはとある噂話。
それは――この部屋は恋に落ちた者たちが訪れる禁断の場所だという予備校伝説だ。
姫ちは部屋の真ん中まで歩くと、くるりと踵を返した。
「それで渡したいものって、何?」
きらきらときらめく瞳に気持ちが揺さぶられる。今ならまだ友達のままでいられる。でも、ここまで来たらもう後戻りなんてできない。
袖にされてもいい。振られてもいい。自分の気持ちに正直に従うだけだ。
「僕の気持ち、受け取ってください」
膝をついて、ずっと隠し持っていた四角い箱を手で添えて姫ちの前に差し出す。
中にあるのは、エンゲージリング型チョコ。
友チョコでも義理チョコでもない。どこからどう見ても言い逃れできないド本命チョコだった。
彼女は驚いたように眉を上げ、チョコを見つめた。静かな空間に心臓がバクバクと跳ねる音が聞こえるようだった。爆発しそうな感情を押し込めて姫ちの返答を待つ。
姫ちは一度目を閉じて、ゆっくりと開けた。
そこにあったのは、いつものいたずらな瞳ではない。どこまでも続くトンネルのように、すべてを呑み込んでしまうような闇。
彼女の端正な顔は赤く染まり、艶めいた媚態が浮かんでいた。
ごくりと唾を飲み込む喉が震えた。
こんな姫ちは――知らない。
狼狽える僕に彼女は笑みを広げると、スラリと細長い指を差し出した。
「せっかくなら、きつねちがつけてよ」
声にならなかった。
関係性を深めたいと思っていた。線を踏み越えたかった。でも、心のどこかで無理だろうとあきらめていた。感情をぶつけて砕け散る姿しか想像していなくて、だから本当の本当に受け取ってもらえるなって思いもよらなかった。
震える手でチョコをつかもうとすれば、姫ちは違う違う、と言って箱からそっとチョコを取り出した。
「食べ物なんだから、こうでしょう?」
姫ちはそっと僕の頬に手を添えると、僕の唇のあいだにチョコをこじ入れた。
「ふ、ぁ……っ」
情けない声が出た。口にチョコを加えた僕はとんでもないアホ顔をさらしているだろう。
「ほら、早くしないとチョコが溶けて受け取れなくなっちゃうよ?」
姫ちの言う通り、唇の熱でリングの形は溶けて歪んでいく。
焦燥感にかられ、言われるまま姫ちの指に顔を近づける。
唇に姫ちの指が当たると、どくりと鼓動が跳ねた。
姫ちはそっと薬指を伸ばすと、奥へと進めた。
「う、っ……」
僕の口の中に姫ちの指がある。指が舌を掠めると甘く痺れるような震えが全身を駆け抜けていく。姫ちは吐息を漏らしながら笑う。その嗜虐めいた瞳にゾクゾクと体が痺れた。
やがてすっと指が抜かれ、口の中の熱が消え、切なさに胸が焼かれた。
姫ちは指にはまったエンゲージ型チョコを嬉しそうにながめると口づけた。
ふっくらとした唇にチョコがあたり、ぷにゅりと形が変わる。
口づけを誘っているような赤い舌がちろりとのぞき、チョコをぺろりとなめた。
「ん、おいしい」
舌でなめとられ、チョコは溶けていく。チョコで茶色く染まった指先まで絡めるようになめとると、姫ちの口から吐息が漏れた。
「お返し、期待していてね」
耳元で甘い蜜のような声でささやかれ、頭が真っ白になる。
許容範囲を超えた感情に、僕はただ打ちのめされていた。
それからの一ヶ月、ほとんど記憶がない。
あの部屋で見せつけられた光景が脳裏に焼きついて離れなかった。熱い吐息が耳にかかったような気がして、慌てて振り返ることなど何度もあった。
姫ちを自分のものにしたくてエンゲージリングを送ったのに、今や見えない鎖が首に巻き付いているのは僕の方だった。
姫ちは姫ちであの日のことが嘘だったかのように、いつもと変わらぬ態度なのも憎たらしいし、きつねちと呼ばれ肩が跳ねる様をどこか楽しんでいるようでもあった。
スマホで今日の日付を確認しては、その日が近づいていくことに焦燥の入り混じった期待と絶望を感じてしまう。お返し、すなわちホワイトデー。
先輩たちの卒業式を気もそぞろなまま終え、その時を待った。
「だからってなんで高野豆腐なんだよ!!!」
「ホワイトデーだからホワイトチョコ、というのはちょっと安直だと思って捻ってみた」
「捻りすぎて、さすがの聖バレンタインさんもひっくり返るわ!」
「違うよ、きつねち。ホワイトデーはそもそも日本発祥だから聖バレンタインさんはもはやなんの関係もないのだよ」
「どこまで日本は由来が行方不明のお祭り騒ぎをする気だよ!?」
「楽しければいいじゃん。これでもお返し、かなり悩んだんだよ。きつねちからもらったエンゲージリング型チョコの値段が5449円だったから、同じぐらいのものを探したらこれが一番近かったんだ」
「贈り物の値段を調べるな! このサイコ!! 人の心がない!! 悪女!!」
「照れるねぇ」
「一言も褒めてないからな!?」
ゼェゼェと息を吐きながら、高野豆腐もといホワイトチョコを眺める。
ホワイトデーにホワイトチョコを返すのは「今までの関係を望みます」「友達でいよう」を意味する、らしい。この一ヶ月、どんなお返しが来ても、その裏の意味が分かるように調べまくったから知っている。
ため息をつく。でも気持ちはきれいに澄み渡っていた。
姫ちは僕のような庶民では到底及ばない存在なのだ。だってみんなのお姫様なのだから。
「ありがとう。大事に食べるよ、高野豆腐」
「どういたしまして。これでプラマイゼロだね。それでここからまじな話だんだけれど、きつねちはこの一ヶ月どうだった?」
「……姫ちのことでいっぱいいっぱいだった」
「でしょう? 今私がオーケーしたらさ、きつねちはもっともっと大変なことになると思うんだ。これからの一年って今年受験本番の私たちにとって大切な期間だから、それってまずいと思う。だって来年、お互い笑っていたいじゃん? だから今はここまでにしておこう?」
「それってつまり……」
続く言葉は、姫ちの人差し指に唇をくっと押されてさえぎられた。
刻まれた記憶がよみがえり、顔が赤くなる。心臓が痛いほど鼓動を鳴らし、息がつまる。
「待ってるから」
まぶしく光る姫ちの笑顔に、僕はいつまでも心を奪われていた。
僕と私のバレンタイン ももも @momom-
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