第16話【番外編】滲む

 ――ぱさり。


 机の上の本を持ち上げた時、古びた本から1枚の変色した紙が落ちた。

 大掃除をしていた時見つけたそれは曾祖父の遺品だった。


「曾祖父さんにこんな趣味あったんだ」


 折りたたまれたそれを開く。

 黒だけでなく、青と紫、緑の色が使われた水墨画だった。

 描かれていたのは寄り添うふたりの後ろ姿と藤の花。

 ひとりは男でもうひとりは髪の長い女。

 しかし、女の耳は魚の鰭のような形をしており、よく見れば下半身に鱗のような模様が入っている。


「――藤嶺碧と、人魚の近江……」


 曽祖父にこんな趣味があったとは知らなかった。けれど、こうやって描いたものを隠すようにしまった理由は少し分かった気がした。


「写真なんか、残せないもんな」



 大橋はあの場所へ行けなくなってからあの場所を忘れるように過ごしていた。結婚し、子供が出来、普通の人生を歩んでいた。

 それまで藤嶺のことを思い出すことはあれど、あの日々を思い出すことはなかった。


「あなた、そろそろあの子に習い事でもさせましょうか」

「そうだなあ」


 妻とそう話した時のこと、大橋は昔の自分を思い出した。


「……書道を習わせようか」


 妻と息子と話し合い、週に1度だけ近所の書道教室へ息子を通わせるようになった。

 仲の良い友達も出来たようで楽しそうに通っている息子が元気に育っていて大橋は安心した。大橋に似て悪筆だった息子が下手だとか言われて気落ちしないかと心配していたが稀有な心配であった。


「おとうさん、小筆バサバサになっちゃった」

「そうか、いっぱい書いてたもんな。よしっ新しいの買いに行こうか」


 小筆の先が開いてしまったことが不満なのか頬をぷくっと膨らませた息子の報告を聞いて大橋は息子の頭を撫でてそう提案すると息子は不思議そうな顔をして大橋を見上げた。


「おとうさんの部屋に新しいのあったよ?」


 ――二本も。


「あれはだめなの?」

「……あれは、あれはな、お父さんの大事なものなんだ」


 よく分かっていない息子の頭をもう一度撫でる。


「新しいの買ってやるから」


 息子と共に筆を買いに行き、数ある中から自分の筆を真剣に選ぶ息子に笑みが溢れるが、ずっとふたりのことが頭から離れなかった。

 寝る前に自室にある机の引き出しを開け青い紐で結ばれた桐の箱を取り出す。

 紐を解き箱を開けるとそこには二本の小筆が並んでいた。一本は黒く、一本は白い。


「藤嶺さん、……近江さん」


 それはあのふたりの記念筆だった。

 今では思い出さなくなったあの穏やかな日々が鮮明に思い出される。そしてあの絶望の日々も。

 こうして家族に囲まれて普通の幸せを当たり前のように享受出来るようになってやっとあの場所に行けなくなった理由を悟った。

 大橋が藤嶺と近江に囚われず前に進むために、幸せになるためにあの道は閉じたのだ。

 あのふたりの姿が滲んで見えてふと気づく。

 近江の声が思い出せないのだと。

 声の次はなにを忘れてしまうのだろう。そういえば、近江はどんな顔をしていたか。大橋はぼんやりとしか思い出せなかった。


「最近おとうさんも習字してるの?」

「おとうさんはな、絵を描いてるんだ」


 大橋は文字こそ上手ではないが、絵を描くことは人並みに出来た。

 昔藤嶺からもらった書道具一式を実家から引っ張り出し、ネットで水墨画について調べ、何度も何度も絵を描いた。

 それでも、どうしても近江の顔が描けなかった。

 描いては丸め描いては丸め、くしゃくしゃのゴミがゴミ箱から溢れ部屋を汚す。


「一枚くらい、写真でも撮っていれば……」


 そう思うが、人魚の写真なんてものが何かの間違いで出回ってしまえば噂になる。合成だと笑われるだけならまだしも、面白がった人たちが藤嶺ゆかりの地を荒らすこともあるかもしれない。平穏な場所がなくなってしまうかもしれない。そんなことを許せるはずがなかった。だからこそ大橋はふたりの写真を撮ろうなどとはついぞ言えなかった。

 薄れていくだけの記憶を必死に思い出し、思い出せないことに絶望し、それでも大橋は描き続けた。


 何年も描き続けた中で一枚だけ、納得のいくものが出来るとふと目に涙が集まる。ぽたりと一滴落ちた涙で滲んだそれを日記に挟んで閉まった。

 水の色、緑色、藤色。あのふたりの色を少しだけ乗せたそれは他の誰にも見せることはしなかった。

 きっといつの日かこの絵を誰かが見つけるのだろう。


 その時やっと大橋は藤嶺と近江に逢えるのだ。

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山に人魚 天智ちから @tenchikara

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