【完】幼い頃から婚約を誓っていた伯爵に婚約破棄されましたが、数年後に驚くべき事実が発覚したので会いに行こうと思います

後編

一週間後、私は国を渡って、ある地区に足を運んでいた。

　ボロボロのアパルトメントが立ち並び、アルコールと腐敗臭が漂っている。

　一つの棟の前で足を停め、呼吸を整える。

　そのとき階段から降りて来た男性が、私の顔を覗き込む。

「お、姉ちゃん何してんだあ？」

「……このアパートにゼイン・リルビットさんはいらっしゃいますでしょうか？」

　ここに彼がいるらしい。

　完全に信じてはないが、彼女の言葉が嘘だとも思えなかった。

「あー、あのヨロヨロと友達かあ？　娼婦には見えねえしなあ」

「口の利き方には気をつけて頂けますか。彼のことを馬鹿にすると許しませんよ」

　男性は怯えて態度を豹変させ、部屋の番号を答えた。

　階段を上がって、扉の前で止まる。

　心臓の鼓動が高鳴っていた。

　なにも考えるな。ゼインが私を助けてくれたとき、彼は迷わず走ってきたはずだ。

　ドアをノックする。

　数十分間その場で立ち尽くした後、我慢できずドアノブに手をかけた。

　鍵が――かかっていない。

　少し悩み、ドアを開いた。

　玄関はゴミだらけで、鼻をつまみそうになる。

「ゼイン……」

　足を踏み入れ、小さく名を呟いた。

　廊下を通って、ベッドしかない部屋に入る。

　ボロボロの家具が置いてあった。

　部屋中にゴミが散乱し、本当にゼインが住んでいるのかと疑ってしまう。

　その時、外から棒のようなものが、コンコンと地面を擦る音がした。

　扉が開かれるのを待っていると、現れたのは――ゼインだった。

　髪はボサボサ、服は外にいた男性と同じで小汚いが、顔は変わっていない。

　少し老けた……かな？

「ん……誰だ！？　おい、誰だよ！」

　玄関に足を踏み入れたゼインは、私の気配に気づき、怯え、叫んだ。

　持っていた棒を振り回しながら、叫び続ける。

「ゼイン、私です」

「お……んな？　誰だ！？　アンか？　誰だよ！」

　気づいたら、涙が零れ落ちていた。

　嬉しいのか、彼が可哀そうなのか、どういうものかはわからない。

　いや、嬉しい。嬉しいんだ。もう一度会えたことが、彼の声が聞けたことが。

「ゼイン、私です。メアリーです」

「……メアリー」

　すると、彼は笑い出した。

「はは、……ついにいかれちまった……」

　瞬間、私は走り出す。あの時の彼の様に。

　驚かせてしまうかもしれないが、彼に触れたかった。安心させたかった。

　体当たりするかの様にぶつかって、強く抱きしめる。

「ゼイン、私はいる。ここにいる。触れて、感じて、ここにいるよ」

「嘘だろ……メアリーなのか」

　彼は子供の様に泣き出し、私は抱き締め続けた。

　あの逞しい身体はどこにもなく、弱々しくなっているがゼインだ。

　原因はわかっている。

　彼の目が――失明しているからだ。

　　　　　◇

「とっておきのお菓子があるんだ……どこに閉まったかな」

　ゼインは手に持っている杖で戸棚を叩きながら、場所を探り当てようとしていた。

　たまらず彼の手を押さえ、代わりに戸棚に伸ばす。

　お菓子はあったが、袋は破け、ネズミか何かに食い散らかれされていた。

「……あったわ。でも、今はお腹が空いてないから、後でもらってもいいかしら？」

「もちろんだ。メアリー、お菓子好きだったよな。……俺の家、汚いだろ。ごめん」

「このくらいのほうが落ち着くわ」

　椅子に腰かける。

　ゼインは棒で足元を確かめながら、ベッドで一息をついた。

「どうしてここが……アンか？」

「そう。教えてくれた」

　アンとは数日前、古物商で会った女性だ。

　婚約破棄された時の女性でもあるが。

　ゼインは目の病気を突然発症したそうだ。

　視力は悪くなる一方で、いずれは失明するとだけ医者に告げられた。

　彼は友人の繋がりで留学に来ていたアンにとある依頼をした。

『浮気相手の振りをしてほしい』と。

　始めは頑なに拒否していた彼女だが、ゼインの最後の言葉で、仕方なく了承したのだという。

　彼は失明する前、私にバレないために、この国へ渡った。

　家族には猛反対されたが、最後にはゼインの気持ちを優先した。

　しかし実の父親が病気で亡くなってしまい、援助が途絶えたこともあり今の生活となった。

　彼の現状を知ったアンが、私に伝えようとわざわざ来てくれたのだ。

　聞きたいことは山の様にあったが、最初の質問だけは決まっていた。

「ねえ、ゼイン。――私のこと……今でも好き？」

　長い沈黙だった。余計な口は挟まず、彼が口を開くのをただひたすらに待った。

「……君のことを思い出さない日は、今まで一度もなかった」

　彼は、アンに何度もこう頼んだそうだ。

『俺が失明しても、メアリーはきっと傍にいてくれる。無条件に愛を注いでくれる。でも、彼女に苦労をかけたくない、幸せになってほしい。だから、俺は……メアリーと別れたい。アン、頼む。手伝ってくれないか』

　◇

　翌日、小汚いベッドの上でゼインと抱き合いながら目を覚ました。

　まぶたを腫らしている彼の寝顔が、とても愛おしく思える。

　さて、やることはいっぱいだ。

　まずは美味しいものを食べさせてあげたい。

「ん……」

　寝ぼけ眼のゼインに、おはようと挨拶をした。

　昨日のことを夢だと思っていたのか、彼は戸惑いながらまた泣き出す。

　「私だよ、メアリーだよ」と、抱き締めて、ようやく落ち着いた。

　近くの商店で食料を買い込んでいた。

　幸いにも調理器具は揃っていたが、使用した痕跡はほとんどない。

　私はパンとシチューをテーブルに置き、ゼインの手を掴んで誘導する。

　彼は朝からこんな美味しいものを食べたのは何年振りかなと嬉しそうに言ったが、私は心を痛めた。

　お昼過ぎ、彼の様子がおかしいことに気づく。

　理由を尋ねてみると、予想外の言葉が返ってきた。

「ゼイン、今なんて……」

「もう帰ってくれないか」

「どうして……」

「帰ってくれよ！」

　あまりにも突然の切り替わりに、言葉が出なかった。

　私が嫌だと言うと、ゼインは喚き散らかす。

　悲しくて、辛くて、心が痛む。

　私がここへ来たことは間違いだったのだろうか、いや、そんなわけがない。

　自分の頬を叩いて、ゼインの目の前まで歩き、彼の両手を掴んだ。

　帰れと叫ばれても、暴れられても、構うもんか。

「聞いて、ゼイン」

「なんだよ……」

「もし、私が失明していたら、あなたならどうしてた？」

「…………」

「私がこの部屋で暮らしていたら、あなたは帰れるの？」

「……そんなわけ……ないだろ」

「私はあなたを支えるためにこの国へ来た。帰る気はない。あなたの側にいたい、だから、私のそばにずっといてほしい」

「……お前を捨てたんだぞ」

「違う、あなたは私を愛していた。愛していたから、離れた。でも、私も愛してる」

「本当にいいのか……こんな俺でも……」

「ゼイン、私があなたの目の代わりになる」

「メアリー……ありがとう。愛してる」

　そして私たちは、二回目のキスをした。

　この日を境に、この家は私とゼインの部屋になった。

「本当に帰らないのか？」

「もう帰らないって言って出てきちゃったから」

　実家には帰れなかった。父と母にアンから聞いた話を伝えたが、会うのはやめろと言われたからだ。

　そして、黙ってここへ来た。

　できる限りお金は持ってきたが、そう長くは持たないだろう。

　仕事も探さないといけないし、やることは山の様にあったが不安はなかった。

　これからずっと、ゼインのそばにいてあげることができるからだ。

　落ち着いたらいつか結婚式でもあげたい、そんな悠長なことも考えていた。

　私がこの街へ来てから、少し時が経過した。

　思っているより世間は厳しく、仕事はまだ決まっていない。

　それと……ゼインとの関係も良好とは言えなかった。

　始めは良かった。

　二人で色々なことを話し、歌って、幸せだった。

　しかし、徐々に彼の様子がおかしくなった。

「仕事を探しに行ってくるから、パン食べてね」

「いつもありがとう、ごめんな」

　施しを受けていると思っているのだろうか、態度がよそよそしい。

　たまに私が来ないほうが良かったんじゃないかと、頭に過ぎることがある。

　苦しめているような気がするからだ。

　面接が終わり、私は気分が良かった。

　なんと、パン屋の仕事が決まったのだ。

　更にパンまで頂いた。

　ゼインもきっと、喜ぶはず。

　思わず笑みをこぼしながらドアを開けると、冷気が漂っていた。

　今は真冬なので、窓は開けない様にしている。

「ゼイン！？」

　不安を感じて駆けると、彼が窓から飛び降りようとしていた。

　急いで体を掴み、引っ張る。彼は勢いよく床に倒れ込んだ。

「何してるの！」

「……ごめん」

　ゼインはむせび泣きながら謝罪を繰り返した。彼も一人で何もできないわけじゃない。それでも申し訳ない気持ちがあるのだろう。

「ごめん……メアリー。君を苦しませたくなかった……」

　しかし、彼の姿を見ていると、ここにきたのは間違いなんだと気づいた。

　このままでは彼は死んでしまう。

　ゼインは優しすぎた。

「ゼイン……」

　ある日の夜、私は彼を抱きしめながら、覚悟を決めた。

　◇

　彼が眠ったのを見計らって、こっそりと部屋を抜け出し、近くの海へ来ていた。

　暗い海を眺めながら、右手で胸元の首飾りを握りしめ、彼を想う。

「おばあちゃん……」

　この首飾りの箱には、一つの手紙が添えられていた。

　これだけは本物さ、とおばあちゃんの筆跡で書かれていたのだ。

　命を代償に何でも願いが叶う。

　けれども、嘘か本当かわからない。

　なぜおばあちゃんが私にこれを残してくれたのか、その理由も聞くことはできない。

　優しい彼を死なせたくない。

　私の命を代償に――彼の目を治してあげたい。

　確信なんてない。魔法なんて、見たことも聞いたこともない、おとぎ話だ。

　けれども、この首飾りにはなんとも言えない魅力があった。

　目を奪われるような、そんな力があったのだ。

「ゼイン、あなたを死なせない」

　ゆっくりと歩き出し、足先が砂浜に沈むとゆっくりと波にさらわれていく。

　真冬で、心臓が凍る。

「……お願いします。神様」

　両手で首飾りを握りしめながら、暗い海を突き進んでいく。

　海には神が宿るとおばあちゃんから聞いたことがある。

　ならばこの方法が一番神様に近いんじゃないかと思った。

「ゼインの目を治してあげてください」

　呼吸が速くなる。頭が真っ白になっていく。

　冷たい、痛い。足がつかなくなると、水中で身体がふわっと浮く。

「どうか、お願いします」

　そして、私の心臓は止まった。

　――――

　――

　―

　まるで夢の中で雲の上に乗っているような感覚。

　心がふわふわする。

『願い事は？』

　誰かに訊ねられた。

　記憶が薄れ、ぼんやりしているが、はっきりと一つだけ覚えている。

　ゼインのことだ。

「私の命を代償に、ゼインの目を治してください」

『その願いは叶えられない』

「どうして……」

『本当の願いはそうじゃないだろう』

「そんな、私は本当に……」

『願いは等価交換。嘘偽りなく、心の願いを言うんだ』

「……私は、ゼインと共に生きたい。彼のそばにいてあげたい」

『汝の願い承った』

　◇

「……リー……メアリー！」

　目を覚ますと、ゼインの顔が目に入った。

「よかった……目を覚ました」

「ゼイン、どうしてここに……」

「わからない。ただ感じたんだ」

　彼は私を抱き抱え、海から遠ざかる。

　いや――変だ。私が目を開けたことを、どうして彼がわかるんだ？

　私は自分の視界がおかしいことに気づいた。

　真っ黒で、何も見えない。

　なぜか――半分だけ。

「ゼイン、あなた……目が……」

「ああ、片方だけ見える様になった。メアリー……わかってる。俺のために君は」

　そうか、そういうことだったか。

　命を代償に願いが叶うのではなく、願いは等価交換。

　私の片目が見えなくなる代わりに、ゼインの片目が見える様になった。

「俺のために……すまない」

「あなたは私が苦しいときに助けてくれた。本当に嬉しかった」

「メアリー……俺はもう君のそばから絶対に離れない。愛してる」

「私も愛してるわ、ゼイン」

　◇　

　――それから長い月日が流れた。

　私とゼインは懐かしい故郷に戻り、二人で暮らしている。

　時間はかかったが、彼も含めて家族と和解した。結婚式を挙げることもできたし、沢山の思い出も共有した。

　今は空き店舗を買い取って、古物商を営んでいる。

「ねえ、買い物に行かない？」

「行こうか」

　どこへ行くのも一緒、あの時の約束をゼインは律義に守っている。

　優しくて頼りになる最高の旦那様だ。

　私は左目、彼は右目が見えない。

　私たちは外に出るとき必ず手を繋ぐ。

「右手をメアリー」

「はい、ゼイン」

　私たちはもう何があっても離れない。

　これからどんな困難があっても乗り越えられるはずだ。

　なぜなら私たちは、二人で一つなのだから。