蜘蛛の音

あわいむつめ

蜘蛛の音


「蜘蛛の声がする」

 

 縁側に腰掛けたシズクが言った時、わたしはからかわれているのかと思った。

 蜘蛛は鳴かないし、庭にこだましているのはりーりーという鈴虫の鳴き声がほとんどだし。

 なにより、シズクは音が聞こえなかった。

 わたしは冷えたラムネの瓶を振って、それとコップを一つお盆に載せて、彼女のいる縁側に持っていく。

 隣に座ると、シズクがこちらを向く。

 ビー玉みたいな目が輝いていた。

 

「ラムネ!」

 

 シズクはラムネが好きだ。

 さっそく、ラムネの瓶を渡す。

 シズクはにこにこと受け取って、慣れた手つきでラベルを剥ぎ、瓶を密閉するビー玉の上に、玉押しと呼ばれる付属の部品を当てる。


「いくよ」


 とシズクが言い、直後に手のひらをそこに振り下ろす。

 ぼん!

 という快音がシズク以外に響いた。

 数瞬待って、ラムネが元気よく吹き出し始める。

 シズクも必死に玉押しで押さえているけど、炭酸ガスの力に負けて、ぶしゅぶしゅ、まんまと吹かれる。

 そして手をべたべたにしながら、楽しそうに笑う。

 

「もう、べたべたー」


 シズクはそれをわたしのコップに注ぐ、ちょうど半分こになるように。

 注ぎ終わると、シズクはラムネを瓶のまま飲む。

 顎を上げて、一息にごくごくいく。

 瓶の中のビー玉が踊り、カラカラと鳴る。

 嚥下に合わせて動く喉を見ていると、彼女の視線が庭に向けられていることに気づく。

 雑多な木がちらほら植っていて、たいして出来の良くない、でも広さはそこそこある庭。

 その一点をじっと見ている。

 そこでさっきの言葉を思い出したわたしは、シズクの脇に置かれた自由帳にペンを走らせる。

 

『くも?』

 

 シズクはそれを見て、目を細める。

 

「いま、なにが鳴いてる?」

『すず虫』

 

 りーりーと元気が良い。

 

「鈴虫って、どんな声だっけ」

『りーりー』

「りーりー?」

 

 シズクが鳴き真似をする。

 しかし全然違っている。

 彼らのような声は、人の喉ではなかなか出せない。

 正しい“鈴虫の鳴き声”を伝えようにも、そんな文字はない。

 わたしがシズクに教えられるのは『りーりー』という、あの美しい声のほとんどが欠損した、記号のような、断片だけ。

 泳ぐわたしの目とペンを眺めて、シズクはわたしの頭に手をおいて、ゆっくり撫でてくれる。

 

「ほら、みて」

 

 シズクが一点を指差す。

 さっき、見つめていた方向。

 そっぽ向いて立つ松の木の枝と枝の間。

 そこには、立派な蜘蛛の巣が張られていた。

 

 「くるよ」

 

 シズクの予言は、すぐに当たった。

 あたりを秋の風が撫で、運び、通り抜ける。

 その間、あの蜘蛛の巣は大きく揺れる。

 風を受けて膨らむお船の帆みたいだ。

 真ん中に陣取る女郎蜘蛛はさながら荒波に舵を取られる船乗りかな。

 やつは吹き荒ぶ風を相手に、あっちへいきこっちへいき、あちらの足を上げこちらの足を上げ、踊るように乗りこなしている。

 草がそよいでいる。

 木の葉が揺れている。

 いわし雲が泳いでいる。

 鈴虫が踏ん張るように鳴いている。

 遠くを車が走っている。エンジンを吹かして。

 急に市内放送が入る。

 音の割れたスピーカーで、どっかのおばあちゃんの行方が知れないって。

 それらが聞こえる。

 嫌でも耳に入ってくる。

 そうして、秋の全部が台無しになる。

 もちろん、蜘蛛の声なんてちっとも聞こえない。

 シズクには、いまも聞こえているのかな。

 

「びゅ〜〜ぶぉ〜〜」

 

 シズクは吹く風の調子に合わせて、口から風の音を出す。

 

「ひゅう……」

 

 その風の音の断片は、シズクの世界で美しい秋の形をしていた。

 

「風の音は、まだ覚えてるよ」

 

 まだ暑さの残る九月の風が、音を連れ去っていった。

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蜘蛛の音 あわいむつめ @awaimutsume

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