底の月
@ninomaehajime
底の月
井戸の底は常世へと通じているという。だから新月の夜は決して覗いてはいけない。それが村の言い伝えだった。
おかしな話ではないか。新月には月明かりもなく、わざわざ松明を
天邪鬼な子供だったのだと思う。伝承の類を迷信と断じ、年寄りの与太話だと決めつけた。伝承という形で語り継がれるのには、
その言い伝えにある新月の夜、私は便意を催して目を覚ました。父と母が寝息を立てる中、そっと家を出て外にある厠に向かった。夜気が寝間着の隙間から肌を撫でて、体を震わせた。用を足して早く戻ろう。
月の光がなくとも、厠までの短い道のりを迷うはずがない。粗末な小屋が見え、違和感を抱いた。まだ目が慣れていないのに、妙に明るい。
とある方角を振り返ると、細い光の柱が夜空に立ち昇っていた。松明の灯りなどではない。まるで逆さまに差す月光だった。
私は畏れを知らぬ子供だった。神仏の類を信じず、全ての事象は自らの手のひらに収まると信じていた。
便意も忘れ、逆立つ光の方角へと歩いていった。あの光の正体を暴いてやろう。そして迷信深い村の皆に教えてやるのだ。不思議なことなど何もないのだと。
辿り着いた先は、もう使われていない古井戸だった。村と外の境にあり、黒ずんだ森の輪郭が揺らめいている。水は涸れ、木の蓋に石で重しを乗せて閉じられているはずだった。ところが、封をしていたはずの蓋が外れ、その中から眩い光が立ち昇っている。一体誰が開けたのだろう。
頭にあの言い伝えがよぎった。新月の夜に、井戸を覗いてはいけない。
私は禁忌を振り払った。ずっと昔はこの井戸で水を汲んでいたのだ。常世などに通じているはずがない。この奇妙な光にも自分が知らぬ道理があるのだろう。
光輝く井戸へ近づいた。蛾が炎に誘われるさまにも似ていて、もはや自分の意思で歩いているのかどうかも定かではなかった。
思わず見とれた。今まで夜空に浮かぶ月の美しさなどに感じ入ったことはなかった。なのに、この底の月からは目を離せない。とうに水はないはずなのに、雨に打たれた水面が無数の波紋を生むように月が泡立つ。
息を呑み、知らず身を乗り出していた。その私の背中を何かが押した。井戸の中に落ちる瞬間に感じたのは、幼い手の感触だった。
常世に落ちる。神々しささえ覚える月光に、私の意識は呑まれた。
自分の名前を呼ぶ声に、目を覚ました。両親がいなくなった一人息子に気づき、村の人たちにも助力を乞うて捜索したのだ。周囲が見守る中、まだ意識が
「お前、なぜ井戸に近づいた」
答えようとして、左目に激痛が走った。押さえた手の隙間から血が流れる。瞼が開けられず、苦痛にうめく息子を担いで父は家へ走った。
母の看病の甲斐もあってか命に別状はなかった。ただ左目は潰れ、もう二度と何かを映すことはできなかった。
「禁忌を破ったからだ。左目だけで済んだのは幸運だった」
村の年寄りは言った。
それからは日常が戻ってきた。片目に慣れるまで時間はかかったが、父の農作業を手伝い、母に頼まれて幼い弟と遊んだ。
母親に手拭いで作った包帯を巻かれながら、ふと違和感を覚えた。母は左利きだっただろうか。
一度抱いた疑問は尽きず、見慣れた家や村の光景に異物感を覚えた。神棚の位置が変わっている。穏やかな表情を浮かべていたはずの地蔵の首がなくなり、断面に苔が生えていた。神社へ続く鳥居は、あれほど夥しく連なっていただろうか。
私が戸惑っていると、小さな手に握られた。
「兄ちゃん、どうしたの」
まだ小さな弟はつぶらな瞳で私を見上げた。その頭を撫でながら、「何でもないよ」と答えた。
私に弟はいない。
底の月 @ninomaehajime
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