端切れドールのメリ~いちばん大事なこと~

千田右永

第1話

 なんの前触れもなく、その女性はふっと現れた。

そしてそのことに、だれより当人が驚いている。戸惑ったまなざしで恋人を見つめ、不思議がっている。

 恋人だった男性は、その出現を予感していたようで、驚きを跳び越え、恐れおののいている。


 女性は、静かに問いかける。その姿がなんとも美しい。輝くブロンドの髪、愛らしい目鼻立ち。アイボリーホワイトのシャツブラウスはシルクの光沢を放ち、完璧な蜂の胴を引き立てている。

 恋人だった男性が、なにか答えた。なんと言ったのか、わたしにはわからない。音声がごく小さく絞ってある上に、唇を読もうにも、ふたりは外国語で話しているので難しい。それなのに、日本語の字幕スーパーは出ない。わたしはただ、ふたりの仕草と表情を追って、微かな変化を読み取るしかない。


 それでも、きょうの映画のこの場面に、わたしは魅了された。終わったばかりなのに、すぐにまた見たくなった。ブロンドの彼女が恋人に、なんと問いかけたのか知りたかった。なんとなくわかったような気はするけど、本当にそうだったのか確かめたい。始めからじゃなくても、ラストの十分間だけでいい、あの場面をもう一度観たい。ほんの少し、戻してほしいと切に願う。


 けれども珠恵さんはテレビ画面をチラと見たきり、デスクワークに余念がなく、ちっとも気づいてくれない。忙しい珠恵さんのランチタイムは毎日不規則で、予測不能だった。そこでDVDの再生は六時間おき一日四回、自動的に始まるようセットされてあった。中身は決まって少し古めの外国映画だ。

 ついさっき、正午から始まった映画のラスト十分間をもう一度観たくて、わたしは待つ。珠恵さんのデスクワークが終わるときを、じっと待っている。

 

 わたしはなにもすることがない。というか、できることがなにもないのだ。ときどき部屋の中を歩きまわる。小さな窓から外の景色を眺める。見える景色の大部分は、一階にあるエルマートの電飾看板だ。

 ここは旧商店街の端っこが、市道と突き当たる交差点だった。寂れた街並みの果てだけど、朝夕と昼時はそれなりに大勢の人とクルマが行き交い、エルマートにも立ち寄ってゆく。

 わたしがいる三階の部屋の小さな窓から見下ろせば、店に出入りする人々を数えることもできた。でも、立ち止まって三階のわたしの小さな窓を見上げた人は、いまのところ一人もいなかった。

 長いテーブルの上に置かれた珠恵さんの裁縫道具や、作りかけの人形たちに見入ったりもした。けれど、わたしはどれひとつも手に取ることはできない。


 小さな窓と向き合う壁に取り付けられた、古めの外国映画ばかりを映し出す大きなテレビが、いまのわたしの世界、そのほとんど全部だった。だからって、不平を言うつもりはない。十七歳になるまで住んだ家に、こんな大きなテレビはなかった。だから、どちらかと言えばわるくないのだ。


 わたしの家だった団地のリビングには、たくさんのモノがあって少なくない家族がいた。そんな場所にさほど大きくないテレビが置かれ、一日中点けっぱなしで大きすぎる音声を放っていた。その音声に負けないよう、怒鳴り合う家族の話し声が喧しかった。しょうがないと半分諦めつつ、うるさくて堪らなかった。いつかはもっと静かな家に住みたい。わたしは密かにそう願っていた。


 そうしたらいま、わたしはこの部屋にいる破目になった。これってなにかの報いだろうか。いけない子だったわたしを懲らしめようと、どこかのだれかの意思が働いたのか。一体わたしのなにが、そんなにいけなかったのだろう。考え始めると、どうしようもなく悲しくなってしまう。だからもう、そのことを考えるのはやめにした。


 ときどきは団地のリビングと、そこにあった古い箱型のテレビを思い出す。でも、それだけのことだ。もう一度帰りたいと願うほど、そこが懐かしい場所だったとは言えない。なぜかと問われたら、答えに詰まる。

 いまのわたしにとって、そこは遠すぎる場所になってしまったから。帰れるなんて思えない。帰りたいと願っても無理。そんな気がする。そこにはもう、わたしの居場所はないと思うのだ。


『お願いだから、メリちゃんはここにいてね』


 珠恵さんがそう言ってくれたとき、わたしの居場所はここになったのだ。ずいぶん昔のことのような気がするけど、数えてみたらほんの十三年と数か月前のことだった。


『ああ、どうしよう、メリちゃん。ごめんね、ゆるしてね…』


 珠恵さんは息絶えたばかりのわたしの身体を抱きしめ、必死に揺すったり擦ったりを繰り返し、呼び戻そうとしてくれた。悲痛なあの声が耳に残っている。わたしはとっくに、無に帰したはずなのに。固く抱きしめられた感触が、背中や二の腕や頬にくっきりと残って、一向に消え去らないのだ。


 珠恵さんが生み出す可愛らしい人形たちの衣装は、あり合わせの端切れで作られた。あり合わせの端切れ。それは、着られなくなってしまった珠恵さんの昔の洋服のことだ。

 なぜって珠恵さんの胸囲と胴囲と腹囲には、年々等しく着々とお肉が積み重なっている。一昨年より去年、去年よりも今年と、お肉の層は年輪を重ねるにつれて厚みを増している。着られなくなった洋服の供給が途絶えるおそれは、まずないのだ。


 人形たちのチャーミングな顔と胴体を作るためには、端切れのほかに真綿が必要だった。まっさらで汚れのない、ふわふわの真綿。それだけは節約せずに、珠恵さんはネット通販で新品を取り寄せた。いまもテーブルの上には、新しく持ち込まれたばかりの真綿がふわりと鎮座していた。

 珠恵さんの指先は、そこだけ別の生き物のように、素早く滑らかに動いた。適量つまみ取った真綿を掌で丸め、ベージュ色のシルク生地の端切れでくるりと包み込む。細く長い縫い針を刺しては引き、ひたすら繰り返してシルク生地と真綿を馴染ませる。

 針先がステップを踏むように踊り、進むにつれてシルク生地と真綿の玉は、人の顔らしさを備えてゆく。何度も見た工程だけどやっぱり見事なその手際に、わたしはすっかり見惚れてしまう。


 つと、珠恵さんの手が止まり、真綿の玉と針をテーブルに置いた。ペットボトルのキャップをひねり、ミルクティーをひとくち飲んだ。それからポンっと音立てて、甘納豆パンの袋を開く。控えめにひとくち齧り取ると、ゆっくり咀嚼を始めた。

 珠恵さんのランチは毎日同じ、ミルクティーと甘納豆パンだ。散らからず手も汚れないのがいいと、問わず語りにつぶやいていた。でもわたしの見たところでは、珠恵さんは甘納豆パンがかなり好きなのだった。


 だけどわたしは、甘納豆パンが嫌いだった。初対面の珠恵さんがそれを差し出してくれたとき、はっきりと断った。嫌いなので要りません、と言って。ミルクティーも同じだった。それよりは水のほうがいいと、正直に告げた。

 あらま。珠恵さんは目を丸くした。メリちゃんて、キッパリしてる人なのね。驚き呆れたような口調だった。嫌われてしまったかな、とそのときは思った。たかが甘納豆パンとミルクティーだ。食べるつもりがなくても貰っておけばよかったかと、悔いが頭を掠めた。

 でも、珠恵さんはにっこり微笑んでこう言った。あの子はきっとメリちゃんのそういうところが好きなのね、自分と違ってキッパリしてるところが。


 キッパリしているわたしと違うあの子って、エルくんのことだ。家がエルマートだからエルくんと、友だちはみんなそう呼んでいた。何かにつけてキッパリしないところは、たしかにあった。でも、珠恵さんにとってはだれより可愛い大事な息子だった。


 それから後も珠恵さんは、わたしがいるこの部屋でミルクティーと甘納豆パンのランチを食べた。この十三年と数か月、ほとんど毎日そうしてきた。

 わたしはもう、食べ物を必要としない存在だった。だから、気を遣わなくてもいいのに。そう伝えたら珠恵さんはつぶやいた。

『だからってメリちゃんの好きなたまごサンドかなんかを、目の前で私だけむしゃむしゃ食べるなんてこと、できやしないのよ』


 せっせと甘納豆パンを咀嚼する珠恵さんの目は、黄色いディレクターズチェアに向いている。それは珠恵さんがわたしのために、ネット通販で買ってくれたものだ。うんと明るくて可愛らしい色がいいわね。そう言って選んでくれた黄色いディレクターズチェアは、わたしの居場所として、小さな窓のそばに置かれてあった。

 わたしはいまも、そこに座っている。珠恵さんは黄色い座面のほんの微かなたわみを見つめて、確かめるようにささやいた。


「ねえメリちゃん、そこにいるよね?」


 いるよ。いつもとおんなじ。わたしはここにすわっている。


 わたしの声が聴こえたのか、珠恵さんは納得したように三回ほど頷き、再び手もとに目を落とした。その間も両手は休みなく動き続け、新しい端切れドールの姿を仕上げてゆく。ブロンドの髪を映した金色の糸と、アイボリーホワイトのシャツブラウスを纏わせる。今度の端切れドールは紛れもなく、あの映画の中の女優の姿を写している。けれどもどことなく、あのひとよりメルヘンチックな可愛らしさが感じられた。


 さっきのえいがにでていたひとみたいだけど、なんかちがうね。


「そうよ、もっと可愛いでしょ?だって、この子はメリちゃんだもの。あの女優みたいな服を着せてあげたの。似合ってるよね?」


 満足そうにつぶやきながら珠恵さんは、出来立ての真新しい端切れドールをテーブルに並べた。数えきれないほど大勢の端切れドールたちが並んだ、列の末尾に。

 お姫様ふうだったりアイドルっぽかったり、色とりどりの衣装をつけた数多のドールたち。一体として、同じ衣装を着けた子はいない。同様に一体として、顔に造作のある子もいない。わずかに顔らしい輪郭と凹凸が、見て取れるだけだ。


 これらすべての端切れドールはわたしだと、珠恵さんは言った。ああそうなんだ。わたしは思う。実感はないままに、ドールたちの行列の発端に目を向ける。そして、見つけ出した。

 少し色褪せてくすんだ紺色のブレザー。赤色が消えかかったチェックのマフラー。伸ばしかけていた黒い髪。これこそが本当のわたし、端切れのコスプレを着せられる前のわたしの姿だ。すっかり古ぼけてしまったけど、まだこうして無事に残っていた。そのことに、なんだかホッとする。そして、やっぱりうれしい。


 きょうの珠恵さんは、どこか様子が違っている。いつもならせかせかと忙しそうにミルクティーを飲み干し、一時間より早く休憩を切り上げ、行ってしまうのに。きょうはやけにペースダウンした感じだ。

 ミルクティーはまだ、ボトルに半分近くも残っている。珠恵さんはそれを、ときどき思い出したように口にするが、ちっとも美味しくなさそうだった。ぼんやりとして心ここにあらずの様子は、珠恵さんらしくないこと甚だしい。気になったけど、わたしはまず自分のリクエストをささやきかけた。


 あのね。さっきのえいがをまたみたいの、いますぐ。


 すると、わたしの声が聴こえたはずなのに、珠恵さんの手は素早く動いてデッキからDVDを取り出した。わたしの願いとは真逆に、ディスクをケースに収めてパチンと音高く閉じた。まるで、もう開かないと宣言したようだった。


 やだ、嘘でしょ。

 落胆するわたしに言い聞かせるように、珠恵さんは語り始めた。


「最後の場面に出て来た彼女が言ったこと、知りたいのね?『どうして殺したの?』って訊いたのよ。だけど訊かれた彼氏はびびってしまって、ちゃんと答えてないわ。言えなかったのか言いたくなかったのか、まあ、両方だと思うけど。男って、大概そんなもんだから。何回観ても字幕を読んでも同じ、マシな答えなんかどこにもないの。ごめんね。持ってくるビデオを間違えちゃった、てっきりコメディだと思ったのよ」


 言いながら珠恵さんは、ノートパソコンを開いた。これから事務仕事をするつもりだろうか。こんなにぐったりと疲れた様子なのに。パソコンを前にして珠恵さんは深いため息をひとつ吐き、素早くキーを叩いた。

 テレビ画面に8コマの画像が映し出された。エルマートの店内と周辺に設置されたカメラのものだった。

 

 店内カメラの四番目のコマには、レジに立つエルくんが映った。珠恵さんが着ているのと同じ、オレンジ色のユニフォーム姿で接客中だ。わりと可愛い二人の女子中学生を相手に、にこやかな笑顔で楽しそうに仕事をこなしている。こんなふうに店内カメラの映像を通して、勤務中のエルくんを見る機会はときどきあった。


 そのたびに、わたしは驚く。最後に会ったときのエルくんは、細身でしなやかな体形のイケメン少年だった。あれから十三年と数か月の歳月が過ぎ去った。それなのに、店内カメラの映像で見るエルくんは、いまも充分に細身でしなやかな体形のイケメンだ。


 もしかしたら、旧型カメラの低画質な映像を、わたしの鮮明すぎる記憶が上書きしてしまい、見たいものを見たいように見せているだけだろうか。だとしても、まもなく三十二歳になるはずのエルくんが、十九歳当時と変わらぬ少年のように見えるなんて。そのことが、わたしはやっぱり不思議でならない。


 この十三年と数か月の間に、わたしはエルくんと直に会ったことが一度もない。わたしがいる三階のこの部屋に、エルくんは決して上って来ないのだ。稀に、深夜の一人勤務を避けられなかった折には、不安そうな眼差しで店内カメラを見上げたり、背後の階段を何度もチラ見したりして、三階にいるわたしを意識したような素振りを見せることがあった。


 そんなにビビらなくたって大丈夫だよ。思わずそう言ってあげたくなった。でも、わたしは三階のこの部屋から出ない。二階の調理場や一階の店舗へ、ひとりで階段を下りて行ったりはしない。というか、できない。もちろん、外へ出るなんて論外だ。

 わたしはただ、三階のこの部屋にいるだけ、珠恵さんが来てくれるのを待っているだけだ。外国映画のDVDと新しい端切れドールとエルくんの店内カメラ映像を、待っている。


 互いに小突き合ったりクスクス笑ったり、にぎやかでわりと可愛い女子中学生の二人連れはようやく帰った。バイバイ。おどけた笑顔で手を振ったエルくんに、二人は競い合うように手を振り返した。絵に描いたような天真爛漫と幼さ、エルくんの大好物だ。

 自動ドアが閉まった。エルくんのヒトタラシな笑顔もピタリと閉じて、消え去った。腕時計を見てから四番カメラを見上げたその顔は、眉をひそめた渋面だった。おそい。その唇が動いた。珠恵さんの休憩時間終わりが遅いと、苛立っている顔だった。


 ところが、いつもと違って珠恵さんは動じなかった。

「いーじゃないの、たまにゆっくりしたって。ふだんの休憩が短すぎるのよ。そもそも私は働きすぎだってことに気づきなさいよ、このドラ息子が」

 四番カメラのエルくんに向かって、聴こえもしない悪態をつき、ペースダウンしたままなのだ。左手で作りかけの端切れドールをもてあそびつつ、右手はマウスを操作する。


 八番目のカメラの映像がクローズアップされた。裏の通用口を外から監視しているカメラだ。時刻は午後十時過ぎ、日付は先週の日曜日だった。

 通用口から出たエルくんを待っていたように、女性が駆け寄った。二人とも表情は見えない。でも、体型と服装と仕草で、それがだれなのか見当はついた。

 タイトで短めなスカートにローヒールのパンプス、定番のトレンチ風コートを羽織った女性なんて、エルくんの周りには一人しかいない。ミサトさんだった。この十三年と数か月の間に、エルくんの身辺に二番目の大きな変化をもたらした女性だ。一番はだれかといえばもちろんこのわたし、メリだったけど。


 エルくんとミサトさんは、五年ほど前に結婚した。リキヤくんという男の子が生まれたが、二人は数か月前に離婚した。高校教師であるミサトさんが、過疎化の進む遠い町の高校へ赴任になったことが、そもそもの発端だった。

 そんな僻地へ行かずに、退職して一緒に店をやってくれと、エルくんは望んだ。ミサトさんは悩んだ末に、リキヤくんを連れて過疎の町に赴任すると決めた。エルくんは烈火のごとくに怒り、力ずくでリキヤくんを取り上げ、隠した。やむなくひとりで過疎の町に赴任して行ったミサトさんが、こうして日曜日の夜に突然現れたのは、リキヤくんを取り戻すために違いなかった。

 

 八番カメラの映像のミサトさんは、真摯な態度でエルくんに懇願している。エルくんは言い返し、ミサトさんを押し退け、車に乗り込もうとする。自分も乗ろうとしたミサトさんと揉み合いになり、エルくんが本気の勢いで腕を振り上げたとき、駆けつけた珠恵さんが割って入った。ミサトさんは殴られずに済んだ。エルくんは急発進で走り去った。珠恵さんがミサトさんを宥めるように、何やら話しかけている。


 二人がなんでモメていたのかわかるわ、リキヤくんのことでしょ?

 

「そう。あの子がリキヤを置いて行けって言い張ったときは、私もつい加勢したんだけどね。リキヤの面倒みるのは100パーセント私だった。この年になってから、また子育てと店の両方をやるなんて、やっぱりとんでもなくキツいわ。本当はあのとき、ミサトさんにリキヤを返してあげればよかったと思ってる」


 だから珠恵さんはこんなに疲れているのかと、わたしは腑に落ちた。テレビ画面にスマホサイズの映像が映った。リキヤくんだ。四歳になったエルくんの息子は、エルくんとそっくりなヒトタラシの笑顔をスマホの持ち手に向けていた。

 そこは二十四時間託児可能な無認可保育所だった。リキヤくんをそこに預ければ、珠恵さんは助かるけれど出費が痛い。毎日はムリだった。ところが、エルくんは頑として自分の主張を曲げない。リキヤくんの存在がだんだんと重荷になってきたいまも、ミサトさんに返すつもりは毛頭ない。なぜなら、口惜しいからだ。


「どうして殺したの?って、訊きたいんでしょ、メリちゃん」


 珠恵さんは、またあの映画のことを話しているのかと思った。でも、違った。いちばん訊きたかったこと、エルくんがわたしを殺したのはなぜか、珠恵さんなりに考え抜いた結果を話そうとしていた。


「メリちゃん言ったよね。デザインの勉強をしに東京へ行くって」


すこしちがうよ。いつかいきたいとおもってるって、はなしたの。


「あら。行き先とかいつ行くとか、決まってたんじゃないの?」


 ぜんぜん。どうやったらいいのかもわかんなかった。わかんないから、だれかとはなしたかった。エルくんにきいてもらいたかった。


 珠恵さんは両手で額を覆い、こめかみを強く押さえた。ややしばらくの間、その姿勢で静止していた。


「まあ、あの子にとっては同じね。メリちゃんが自分から離れて行こうとしてる。それしか、耳に入らなかったんだわ」


 珠恵さんは端切れドールの束の中から、作りかけの一体を探り出した。まだ髪も衣装もつけていない、裸の赤ん坊のようなドールを撫でたり擦ったり、その姿はどこかうわの空だ。


「私がこんなふうに端切れのドールを作っては、ひとつ残らず取っておきたいのとおんなじかもね。あの子は好きになったメリちゃんを、絶対手放したくなかったのよ。自分から逃げようとしてると思ったら、それだけでゆるせなくなった。怒りまくってアタマに血がのぼって、傷つけてしまった。ごめんね、メリちゃん。こんなバカな息子で」


 たまえさんだって。エルくんをてつだって、したことをかくしてあげた。


「そうね。だからあの子は疑われたけど、捕まらずにすんだ。エルマートのエルくんでいられた。結婚して、父親にもなった。それなのに、また同じことをやりそうだなんて、あんまりだわよ」


 リキヤくんの笑顔が大きく歪んだ。次の瞬間には殴り飛ばされ、画面から外れ落ちた。激しく泣きじゃくる声。合間に聴き取れた、低いつぶやき。『クソガキが』。憎しみに満ちたエルくんの声、エルくんがエルくんでなくなったときの声だ。録画は途切れた。


 珠恵さんは立ち上がり、さらりと宣言した。

「決めた。あのねメリちゃん、私リキヤをミサトさんに返すわ。あの子がなんと言おうと平気、これから返しに行く。あの町は僻地でだいぶ遠いし、二時間くらいはかかりそうだけど。メリちゃん、どうする?」


 どうするって、なんのこと?


「だから。一緒に行く?それとも、ずっとここにいる?」


 ここにいてって、たまえさんがわたしにいったのよ。


「そうだったね。けど、私はしばらく戻って来られないかもしれない。ていうか、いつ戻れるかわからないわ。あの子、カンカンに怒るだろうし、怒ってるあの子はほら、アブナイやつになるから」


 うん。しってる。エルマート、ほっといていくんだね。


「あいつがなんとかやるでしょ。やれなかったら、それはそれでしょうがないし。だって、いちばん大事なことは店じゃないもの。そうでしょ?」


 そうだね。いちばん大事なことはこの店にない。わたしもそう思う。だから、珠恵さんと一緒に行くことにした。端切れドールたちの行列の先頭にいる子を、ひとりだけ連れて。

 珠恵さんは非常用の外階段を使い、こっそりと駐車場に降りた。エルくんに気づかれることなく、十数年来の愛車である無骨なランドクルーザーに乗り込んだ。そして真っ先に、わたしの居場所を決めてくれた。バックミラーとドライブレコーダーを合体させたクリップに、端切れドールのわたしを引っ掛けた。


 少し色褪せた紺色のブレザーに、赤色が消えかかったチェックのマフラーとひだスカート。伸ばしかけの黒い髪が、ランドクルーザーの揺れにつられ、顔のまわりで大きく揺れた。あとで珠恵さんに頼んで、髪を三つ編みかポニーテールにしてもらおうと思った。


 ひょっとしてエルくんは、発進したランドクルーザーのエンジン音に気づいただろうか。すばやく外に出て、走り去る珠恵さんのランドクルーザーを見たかもしれない。でも、バックミラーに彼の姿は映らなかった。最初の角を曲がったら、エルマートの店舗も電飾看板も見えなくなった。わたしはもう、あそこへ戻らなくていいのだ。そのとき、本当にそう思えた。


 スタートしたばかりだけど、わたしは珠恵さんのランドクルーザーが気に入った。フロントガラスの高さと大きさは、エルマートの三階の窓よりも広がりを感じられた。わたしは自由になった。これからはきっと、どこにでも行けるのだ。


 珠恵さんもご機嫌で、昔の洋楽ポップスに合わせて鼻歌を口ずさんでいる。わたしもうれしい。いまは、するべきことがあるから。これから保育所へ行ってリキヤくんを引き取り、遠い僻地の町の高校に赴任したミサトさんのもとへ送り届ける。それがいま、いちばん大事なことだから。

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端切れドールのメリ~いちばん大事なこと~ 千田右永 @20170617

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